「朱に交われば赤くなる」という諺がある。
人は交わる友によって善悪いずれにも感化されるという意味である。本当は、「朱に近づく者は赤く、墨に近づく者は黒し」という中国の傅玄の言葉である。「近づく」とは共鳴することだろうが、同化することではないだろう。「交わる」も同じであり、「朱に交わって赤くなりなさい」ということではなさそうである。「墨に近づいて黒くなりなさい」でもなさそうである。それではどういうことなのだろう。
赤も青も黄色も緑も紺色も茶色も白も黒もある。
すべての染料にまずは近づきなさいということではないか。そして、それぞれの色に染まるかどうかは自分で決めなさいということであろう。その「自分で決めなさい」の部分が抜けている気がする。朱が善か墨が悪かの善悪判断は自分でしなさいということだろう。そしていろいろな染料に近づいて染まってみても完全に染まり切ってしまう必要はないし、どのくらい染まるかは自分で決めればいい。
墨に近づいて黒になったのは墨が悪いわけではない。
自分で決めて自分の意思で黒になったのである。墨はいつでも自分の周りにある。黒に染まりたければいつでも機会はあるし、どれくらい黒く染まるかは自分で決められる。染まりたくなければ、黒を選びたくなければいつでも拒否できる。その判断力を養わなければならない。そのためには「墨」についてよく知らなければならない。端的に言えば「善悪判断」である。この判断力を育てなければならない。
善悪判断の力をつけるには善も悪も知らなければならない。
誰かが用意した善の中に閉じ込めておけば善になるという考えは間違っている。その用意された善が本当に正しいのかどうかも疑わしい。世の中にある全ての善や悪にも交わって、善と悪の判断力を自分の中に築き上げてゆくのが正しい方法であろう。悪を知ることにより善を確信できるし、善を疑うことによりよりよい善に近づくことができる。それを決めるのは自分自身であり、生きている限りその決心と選択は続く。
朱も墨もきっかけに過ぎない。
朱が善いわけでも墨が悪いわけでもない。墨は悪の黒を生み出すから墨を無くしてしまえということは間違いである。墨に近づいても黒に染まらない精神力を養うことが重要なのである。朱に近づいても赤に染まるべきかどうかをよく考えて決心することが重要なのである。そして、世の中には善も悪も含んだ赤や黒だけでなく、青も黄色も緑も紺色も茶色も白もその他無数の多種多様な色がある。
一人一人個々人が独自の色を持っているのだろう。
それは、自分の人生の中で出会った沢山の人の色に交わりながら作り上げた自分だけの色であろう。その中で朱ばかりに交わっていたのでは単純な赤にしかならない。当然独自の色にはならない。果たしてそれがいいのだろうか?私はそう思わない。世の中には「朱が善だから朱に交わりなさい」「墨は悪だから無くしてしまいなさい」というような論調が多いが、考え直す必要があると思う。
色を人にして考えると、
「この人は悪い人だから追放しなさい」という言い方をしている場面をよく見る。もっと冷静に考えるべきだろう。この「人」は善いところもあり悪いところもあるのである。すべての人間が善いところもあり悪いところもあるのである。それなのに悪い所だけを見て全人格を評価するのは評価する側に問題があるし、それを増幅して同調する世論も間違っている気がする。そして、悪いところは是正すればいいのである。何を是正すればいいのかを明確にするところから議論は始まる。
社会が悪いから、環境が悪いから、教育が悪いから、etc
その悪いものに交わっているから悪くなるのであるという言い方をする人がいる。その悪いものは確かに原因の一つかもしれないが、それでも悪くならない強い判断力と精神力を身に着けることが重要である。大多数のほとんどの人はそれでも悪くなっていないのだし、悪くなった人は判断力、精神力の面で負けてしまっているのである。そうならないような判断力や精神力を育てられなかったことを反省すべきなのではないだろうか。そして、世の中を悪くしているのは悪くなってしまった人達のようである。
最新の画像[もっと見る]
- 議員先生と学校の先生との違い 2年前
- SDGsともったいない精神 3年前
- 発想の転換 3年前
- 発想の転換 3年前
- ワンニャン仲良し 18年前
- ワンニャン仲良し 18年前
朱に交わっても紅く染まらないぞ!と、決め、同じことを思う人はいないか知りたくて、検索してみたら、こちらのブログにヒットしました。朱でも黒でも、自分で決めたら良いですよね。そして、善も悪も中に入ってみないと分からないですね。悪の中にいても、善でいたい、とても、勉強になりました。ありがとうございました。