オクトシティー正直村

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偏差値教育の弊害

2024年04月17日 | Weblog
自然界の現象は統計を取ると標準偏差の曲線になる。

 ただし、要素を別のものにすると、同じような標準偏差曲線を描くが、横軸の対象は全く別の動きをしているし、一つの対象がどの統計でも分布曲線の上位または下位に常にあることはない。通常はほとんどが中央の正規分布に収まっている。そして、どんな現象であっても一部特異な数値を示す対象があるが、それはそれぞれの個性であって決して否定されるものではない。かえって、その部分に注目してその個性を見極めてやらなければならない。

偏差値教育が批判され、今も批判されているのだろうが、

 未だに入学試験では重用されて活用されているようだ。何が悪いかというと、試験の成績だけの偏差値で本人の学力の評価をすることである。学力は試験の成績だけでは測れないし、学力だけが本人の生来の実力ではない。本来であれが、運動や健康や文化度、やる気、成長度、向上心、問題解決能力、協調性、コミュニケーション能力などの偏差値も加味して総合的に評価すべきであり、それでも不十分かもしれない。

成績の標準偏差は何のために使うのだろう。

 教育に携わっている人達が、学生に対する教育の成果として反省し教訓を得るためのものであろう。全員が満点であればそれは教育内容が易しすぎたのであり、もっと高度の内容を教育すべきであり、反対に全員が0点であれば、全く理解してもらえなかったことであり、教育内容と教育方法を考え直さなければならない。自然の標準分布であることが理想であるが、上位と下位の生徒には個別に分析検討して対応すべきなのである。

上位に位置していることはいいことばかりではない。

 一生懸命上位を目指して勉強している生徒は、別の見方をすると勉強しかしていないことになり、別のことはおろそかになっている。通常の生活をしていて上位に位置している生徒は、試験で点数を獲得する能力が生来高い生徒である。この能力を伸ばしてやるべきではあるが、試験が得意な生徒を育てることが果たして教育の理想とも言えない。その能力を他のものに応用できるように善導してやるべきなのだろう。他の要素の標準曲線でも良好な成果が出るようにしなければならない。

学校教育で標準偏差で求めるところはどこなんだろう。

 私は、平均のところの真ん中だろうと思う。どんな要素の標準偏差でも常識的なグループは真ん中である。その常識的なグループに位置するように教育するのであろう。特異な上位と下位のグループは個別に対応してやらなければならない。もっと言えば、特異な上位と下位は常識的で平均の真ん中になるように教育すべきなのだろう。ただし、特異なグループには貴重な個性の持ち主が隠れていることに留意すべきである。この個性を潰してはいけない。

こんな考え方で標準偏差を使わなければならないと思う。

 偏差値を入学試験でふるいをかけるのは間違っている気がする。参考データではあるが、それがすべてではない。偏差値が低いからと希望の学校に受験できないように一方的に強制されるのもおかしい。どこの学校を受験しようと自由なはずであり、落ちてもいいじゃないか。そうしないと、個性ある学生が希望の学校に入学できないことになる。点取りの能力のある者が上位の学校に入学することになる。推薦やAO入試なるものもあるが、入試制度そのものを見直すべきだと思う。

今の子供たちはいい子を目指して教育されている気がする。

 子供たちもいい子になるように一生懸命努力しているようだが、この「いい子」というのは誰が考えているいい子なんだろう。両親が、近所の人が、教師が、上司が、偉い人が、・・・。そんな「いい子」に振り回されないで、自分が考えた「いい子」を目指すべきである。試験でいい成績をとれるのがいい子でもないし、有名大学に入学し一流企業に就職する人がいい子でもない。自分の求める先に自分なりの「いい子」があるし、いい悪いを決めるのも自分である。
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