運命は必然であるという。
果たしてそうなのかと疑ってしまう。偶然であっても必然であっても運命は変わらないのであって、その降って湧いたような運命が自分の意志と違った時と、自分の意志通りだった時で見方が変わってくるようである。前者を偶然と言い、後者を必然という。そして、偶然起こったことを「運命」として片付けてしまう。自分の意志通りの時は予期していたとおりであり「運命」とする必要はない。そして、偶然と思おうと必然と思おうと「運命」は進展してゆく。それをあらかじめ決められていると思うのかそんなことはないと思うのかは人間の考え方次第である。
偶然とは系列の交錯である。
自分の意志に沿った系列は我々は必然と認識する。この意思とは別の全く違った系列が交錯する時の現象を我々は偶然と認識する。偶然にも自分にとって吉なものと凶なものがある。この偶然を我々は「運命」と認識する。そして、それはあらかじめ決められていたのだと勝手に思い込んで、自分に制御できない大きな力が作用していると信じ、人生は天命によって支配されているという思想に至る。通常は自分に災禍をもたらした偶然を「運命」としてあきらめて納得する。自分の決定通りになって幸福をもたらした偶然は自由意志による結果だと納得する。誰も災禍をもたらすことを予想して意思決定する人はいない。
運命が必然である考え方には同調できない。
因果応報によって運命は決定づけられる。因果は過去であり、応報は未来である。過去の因果を自分で作り上げていけば応報の未来を変えていくことは可能である。私はほとんどの未来は変えることが可能だと思うし、これを変えていくことが人生の価値だと思う。未来を変えていくことそのものが人生だとも思う。そして、この時に予期せぬ偶然が時々起こる。これが「運命」といえば運命なのであろう。しかしこの「運命」も次の瞬間は必然となり因果応報の中に取り込まれてゆく。そしてこの「運命」を肯定し自分のものとして取り込んでゆくところに創造的な未来が開ける。
「運命」を悲観したくない。
ただ単に「運命」だと後ろ向きにあきらめて耐え忍ぶだけでは創造性を発揮することはできない。これを肯定し受け入れて現在の自分の中に取り込んで、具体的に自由意志で決定し対処してゆくことで創造的な未来が展開する。偶然起こった「運命」は逃れることはできないが、運命によってもたらされた未来は現在の努力次第でどのようにでも変えられるのである。どうやら「運命」は悲観的に語られる場合が多い。しかし悲観的な運命でさえ未来の発展のためのきっかけを作り強烈なエネルギーとなって未来に飛躍することが可能である。それを決定づけるのは自分次第である。
ある程度の運命は認めるが、
何もかも「運命」で決定づけられているとは思いたくない。死は逃れることのできない最大最強の「運命」ではあるが、死に至るまでの人生で偶然生じる「運命」は自分の意志で対処できるし、そのことそのものが人生を形作る分岐点でもある。自分の自由意志通りに流されてゆく人生は退屈なものだろう。「運命」を現在進行形で変えてゆく努力こそが生きることに等しい。運命論か意志論かは知らないが、どちらを選択するかではなくて、運命もあるし自由意志もある。イスラーム的な運命論ではなく、キリスト教的な自由意志論でもなく、東洋的な因果応報でこれからの人生を送るのが正しいのではないかと思うこの頃である。
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