オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

議員先生と学校の先生との違い

2022年10月15日 | Weblog

先生とは尊称である。

 教える者と教えられる者、尊敬する者と尊敬される者の関係である。大阪府議会で議員に使う「先生」という呼び方を使用しない提案が正式に決定した。面白いなぁと感心することこの上ない。いったい何なんだろう。こんな決定を正式の議会で決定することに本当の意味があるのだろうか?身内での申し合わせであれば連絡文書でも回せばいいし、府民や国民に提言しようとするのなら何か違和感がある。

議員を「先生」と呼ぶと特別だと勘違いされるそうである。

 そんなことで勘違いしていると思われている議員さん達はバカにするなと怒らなければならない。一部そんな議員もいるかもしれないが、勘違いされるほど「先生」「先生」と持ち上げる方も考え直さなければならない。何の目的でへつらって相手にゴマすっているのだろう。そこの部分こそ考え直さなければならない。堂々と議員さんと対峙すればいいではないか。こちらの方が何か勘違いしているのではないだろうか。

「先生」呼称を止めたとして、

 議員さんを何と呼ぶのだろうか?まさか名前で呼び捨てにするわけにもいかないので、「〇〇さん」となるのだろうか。それともまさか「〇〇閣下」と言うこともできないだろう。ウクライナ大統領に国会でリモートの演説を受けた時、議長が「閣下におかれましては」という言い方で紹介をしていた。敬意をこめて使用したのであろうが、何か違和感を感じた。どうやらこの敬称は戦前の日本陸軍の将官以上に使われていた経緯がある。現代では傲慢で独裁的な人に皮肉を込めて使用している例もある。「ゼレンスキー大統領におかれましては」で十分な気がする。

「先生」を使用するのは相手を尊敬していることの表われである。

 議員さんに「先生」を使用しないということは、議員さんを尊敬していないことでもある。極端に言うと、これまでは尊敬していたけれどもこれからは尊敬するのを止めます。と言うことにもなる。議員さんが尊敬の対象でないことにもなる。これまた議員さんは怒らなければいけないし、尊敬されない対象になってしまったことに大いに反省しなければならない。確かに、国民もすべての議員さんを尊敬の対象にすることは困難かもしれない。

議員さんを一律に「先生」と呼ぶからおかしくなる。

 みんな「先生」であれば、「先生」と呼ばれてもうれしくない。もしかしたら皮肉を込めてすべての議員さん達を「先生」と呼んでいるのかもしれない。本当に尊敬する人を「先生」と呼べばいいし、敬称の「様」や「殿」を使ってもいいではないか。いずれにしても議員に対する「先生」の多用は使う側も大いに反省すべきであり、一方的に「使用禁止」とする方がおかしいと思う。

本来の「先生」は学校等で使われる。

 幼稚園であっても小学校であっても「先生」は「先生」である。これは教育者と被教育者を区別する名称である。「先生」とは「先に生まれる」であり、先に生まれた人が教育者となって被教育者を教育していることになる。被教育者にとって「先生」は教える者と教えられる者、尊敬される者と尊敬する者を表すものでもある。何も違和感はない。それに反発する者は「センコウ」等と呼称している。それでもいいではないか。その反抗心は大いに育てたいものである。

学校の「先生」は正式には「教員」「教師」「教諭」「教職員」である。

 でも、これでは、教えられる学生側としては堅苦しくて言いにくい。ただ単に「先に生まれた」先生のほうが親しみやすいし、学生から慕われている「先生」は周囲の人も「先生」と呼ぶ。具体的な実績があるから「先生」と呼べるのである。この実績が怪しい「先生」は先生と呼ぶことに学生も周囲の者も躊躇してしまうし、最終的には教職を失うことになる。それが本来の「先生」であろう。

議員さんにも親しみを込めて「先生」でいいではないか。

 ただ、少なくとも尊敬できる人に「先生」と言ってほしい。尊敬と言ってもゴマスリではなく、本当に人格的に心から尊敬できる人のことである。議員さん達は「先生」と呼ばれるように努力して、呼ばれない人は尊敬されていないと自覚しなければならない。それよりも何よりもこんなことでいちいち議会に諮って正式に決定すること自体がおかしいと思う。ここにも日本独特の「みんな同じ」の民主主義が見え隠れする。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 説明責任(アカウンタビリティー) | トップ | 我がモバイルフォンの不具合顛末 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事