あちこちで発生しているようだ。
学校は事件が発覚すると、当該運動部を活動停止し、連盟に報告し、対外試合禁止処分とするのが定例となっている。最終的に高校側は対象者を校則違反として謹慎処分などの処置をして、終わりになっている。果たしてこれでいいのだろうかと思ってしまう。そして、時が経てばまた元通りになって、何もなかったのように活動開始され、試合出場も許されている。これで本当に問題が解決しているのだろうかと確かめてみると、過去に同じような事件が発覚し校則違反として処分した実績がある。何も改善されていないということである。
当該対象者を処分するだけでは問題解決しない。
そのような事件を起こす学生がなぜ生じたか、そのような学生をなぜ事前に発見できなかったか、また、そのような学生を正しい方向に指導できなかったのか、学生の立場に立った緊密な教育がなされていたのか、直接の責任者は誰だったのか、どこに不足や欠陥があったのか、その部分をこれからの教育にどのように具体的に反映してゆくか、その評価と成果をどのように把握し分析してゆくか、などなど問題は高校側にあるのであろう。その高校側の対応が何も見えてこないし、自ら発信することもない。
航空機事故対策委員会は素晴らしい。
航空機事故が発生したら運航を直ちに停止して、徹底して原因を科学的に探究する。結果がネジ一本の不良であっても、「このネジが不良でした、このネジを交換して問題は解決しました」とは言わない。なぜそのネジが使われたのか、納入先はどこか、納入検査は厳格にやっているのか、整備員は気づかなかったのか、ねじの締め方は正しかったのか、工具の使い方は正しかったのか、最終検査は厳格にやっているのか、などなどまで具体的な問題点をすべて見つけ出し改善し終わって、航空機は運航を開始される。
航空機事故委員会は決して犯人探しをしない。
事故の原因を特定するのであり、誰の責任だとか誰が悪いとかは関係ない。犯人探しをすれば当人からは言い訳と言い逃れしか取得できずに、原因そのものには到達しない。たとえ犯人であっても重要な証言者なのである。もっと言えば、その事件の核心を握るのは犯人しかいないのである。犯人も事故原因の探求のための協力者と考えている。犯人でさえも、何故そのような行為をしたのかの原因探求の対象なのである。
事実の解明と原因の探求は同じではない。
事実を解明した後、その事実を詳細に分析検討して問題の原因に迫るのである。そう考えると、学校側が当該対象者にヒアリングして、事実確認をして、処分を決定するだけでは不十分だと思う。不十分だから同じような事件を何度も繰り返すのだろう。部分と全体の考え方をすると、部分の不具合は全体の不具合でもある。なぜならば、部分は全体の一部なのである。全体が部分を排除するだけで問題解決したと思ったら大間違いである。
本来の目的を忘れないようにしたいものである。
学校は生徒のためにより良い教育をすることであろう。そうであれば、校内で起こった事故や問題は絶好の見直し改善の機会だと思わなければならない。世間の批判や体面や責任や損得などを気にしすぎてその場しのぎの対策をするからいつまで経っても問題は解決しないと思う。学校側は、教育対象の生徒全員に対して模範を示せるような対応を望むものである。学生に問題解決はこのようにやるんだと教えるつもりでもっと前向きに対処してもらいたい。学校に限らず、日本国全体にこのような暗雲が漂っている気がする。もっと一人一人がやる気をもって、自己の職務に生き甲斐をもって対応してもらいたいものである。
学校は事件が発覚すると、当該運動部を活動停止し、連盟に報告し、対外試合禁止処分とするのが定例となっている。最終的に高校側は対象者を校則違反として謹慎処分などの処置をして、終わりになっている。果たしてこれでいいのだろうかと思ってしまう。そして、時が経てばまた元通りになって、何もなかったのように活動開始され、試合出場も許されている。これで本当に問題が解決しているのだろうかと確かめてみると、過去に同じような事件が発覚し校則違反として処分した実績がある。何も改善されていないということである。
当該対象者を処分するだけでは問題解決しない。
そのような事件を起こす学生がなぜ生じたか、そのような学生をなぜ事前に発見できなかったか、また、そのような学生を正しい方向に指導できなかったのか、学生の立場に立った緊密な教育がなされていたのか、直接の責任者は誰だったのか、どこに不足や欠陥があったのか、その部分をこれからの教育にどのように具体的に反映してゆくか、その評価と成果をどのように把握し分析してゆくか、などなど問題は高校側にあるのであろう。その高校側の対応が何も見えてこないし、自ら発信することもない。
航空機事故対策委員会は素晴らしい。
航空機事故が発生したら運航を直ちに停止して、徹底して原因を科学的に探究する。結果がネジ一本の不良であっても、「このネジが不良でした、このネジを交換して問題は解決しました」とは言わない。なぜそのネジが使われたのか、納入先はどこか、納入検査は厳格にやっているのか、整備員は気づかなかったのか、ねじの締め方は正しかったのか、工具の使い方は正しかったのか、最終検査は厳格にやっているのか、などなどまで具体的な問題点をすべて見つけ出し改善し終わって、航空機は運航を開始される。
航空機事故委員会は決して犯人探しをしない。
事故の原因を特定するのであり、誰の責任だとか誰が悪いとかは関係ない。犯人探しをすれば当人からは言い訳と言い逃れしか取得できずに、原因そのものには到達しない。たとえ犯人であっても重要な証言者なのである。もっと言えば、その事件の核心を握るのは犯人しかいないのである。犯人も事故原因の探求のための協力者と考えている。犯人でさえも、何故そのような行為をしたのかの原因探求の対象なのである。
事実の解明と原因の探求は同じではない。
事実を解明した後、その事実を詳細に分析検討して問題の原因に迫るのである。そう考えると、学校側が当該対象者にヒアリングして、事実確認をして、処分を決定するだけでは不十分だと思う。不十分だから同じような事件を何度も繰り返すのだろう。部分と全体の考え方をすると、部分の不具合は全体の不具合でもある。なぜならば、部分は全体の一部なのである。全体が部分を排除するだけで問題解決したと思ったら大間違いである。
本来の目的を忘れないようにしたいものである。
学校は生徒のためにより良い教育をすることであろう。そうであれば、校内で起こった事故や問題は絶好の見直し改善の機会だと思わなければならない。世間の批判や体面や責任や損得などを気にしすぎてその場しのぎの対策をするからいつまで経っても問題は解決しないと思う。学校側は、教育対象の生徒全員に対して模範を示せるような対応を望むものである。学生に問題解決はこのようにやるんだと教えるつもりでもっと前向きに対処してもらいたい。学校に限らず、日本国全体にこのような暗雲が漂っている気がする。もっと一人一人がやる気をもって、自己の職務に生き甲斐をもって対応してもらいたいものである。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます