😐 ”失われた神秘性を検証する”という表題にひかれて読んでみたら、中身は秋篠宮家批判でした。
記者はヤフコメそっくりの底の浅い批判考察を書く。『週間新潮』がヤフコメを書いているのか、考えることが面倒臭くなった記者がヤフコメを引き写したのか。
「開かれた皇室」は間違いだったのか “私”重視を生んだ自由教育と失われた神秘性を検証2022年01月12日 デイリー新潮
<抜粋>
皇室制度史に詳しい所功・京都産業大学名誉教授「秋篠宮さまには、これまで“自分たちは内廷皇族ではないから、ある程度自由にしてよい”というお考えがあり、子育ても本人任せにしてこられたのかもしれません」「ところが、お父上の退位により兄君が即位されると、男子のない兄君の後にご自分が皇位を継承しなければならないことになられました。これまで秋篠宮家の自由な家風を黙認してきた国民も“これでいいのか”という疑問を抱くようになったのではないでしょうか。皇室は、国民の“お手本であってほしい”という期待に応え、信頼され尊敬されてきました。その皇族で次の天皇となる皇嗣の長女が、公的に品位保持を放棄して“私”を優先させるような形の結婚をした。そのあり方に、国民が失望してしまったのだと思われます」
😇 所さんは婉曲に「天皇になるつもりが無かった秋篠宮殿下には天皇としての心構えがない。」と言ってますね。
国民の失望は眞子さんが”私”を優先したことにあるのではなく、眞子さんが道徳性が欠如した小室に執着したことにあるのですが、眞子さんの結婚を”公と私”で論ずるとその点が隠れてしまいがちです。
いや、むしろ眞子さんの結婚を皇室の”公”と”私”で語るひとは、眞子さんの結婚問題を利用して、「国民に寄り添う」をお題目のように唱えるだけの天皇家を擁護したいひとかもしれません。
天皇家=「国民に寄り添う」→”公”に生きる
秋篠宮家=自由に生きる→”私”に生きる
という単純二択の刷り込みをマスコミとネット総動員で行っていると感じる今日この頃。
天皇家の「国民に寄り添う」はスローガンであって、実際に天皇家の方々が国民に寄り添っているかといえば、そうでもなさそうです。「国民に寄り添う」というスローガンはさしずめ玄関の表に貼っておく魔除けのお札のようなものでしょう。
秋篠宮家は自由の家風というが、いみじくも殿下が言われたように、秋篠宮家の方々は確かに公務は完璧に務めて来られました。
殆ど全く公務をしない皇太子皇太子妃の分も引き受けて、それぞれをどこからも文句をつけられないように完璧に務めるには、どれほどの努力をされたことか。中には気の乗らない公務もあったはずです。
始終自由気ままに過ごして来られたのは雅子さまです。
安易に天皇家は”公”、秋篠宮家は”私”というレッテルを貼って論ずる風潮に危険を感じています。
慶應義塾大学の笠原英彦教授(日本政治史)「なかでも秋篠宮さまは“皇室ももっと自由であるべき”“国民にもっと近づくべき”とお考えになっていたのではないでしょうか。こうしたお考えをもとに、お子様方の教育でも学習院にこだわらない学校選びをされたのだと思います」「国民と共にあろうとするお考え自体は悪くありません。特に秋篠宮さまは女のお子様方が、将来皇室を離れても大きな落差を感じずに暮らしていけるようにと、一般の感覚や自由を尊ばれたのだと思います。ただ、どうしても国民との違いがはっきりしなくなってしまい、やや近づきすぎてしまった面は否めません。いかに国民との距離が近くなっても、やはり皇室には宮中祭祀などに起因する“神秘性”があります。よい意味で畏れ多く、近寄りがたい存在。超えることのできない一線が存在するという感覚は、非常に大切だと思うのです」
😐 もっともなご意見なれど、皇室を庶民に近づける方針をとった上皇上皇后、祭祀を蔑ろにしてきた雅子皇后、雅子皇后に気をつかってやりたい放題の妻を窘めることが出来なかった天皇にこそ言っていただきたい。
😐 守谷絢子さんは結婚披露宴の挨拶で「これからは元皇族として高円宮家を支えて行きます。」と力強くおっしゃり、満座から喝采を浴びていらっしゃいました。
その時の絢子さまの挨拶には「天皇」の一言も無く、これが皇族の挨拶か!と驚き愕然とし、同時にさすが高円宮家御大事の久子さまのお子様らしいとも思い、日頃天皇家より高円宮家が大事と暮らしていらっしゃるのだろうと痛感いたしました。
それが眞子さんと小室の結婚反対の声が大きくなったら、絢子さんは「元皇族としてこれからも皇室を支えて行きます。」と挨拶されたことになり、このような言葉が絢子さんの口から語られたと紹介される。
秋篠宮家の教育を批判するための創作か、久子さまがあわてて「取材があったらこう答えなさい。」と、絢子さまに指導されたのだろうと私は見ています。
そんな令和皇室の行方について『天皇はなぜ生き残ったか』などの著書がある東京大学史料編纂所の本郷和人教授(日本中世史)は、「結婚は一生のことですから、一般家庭でも自分の将来を考え、ある程度の制約を設けて相手を選びます。ところが皇族方は本来、少なくとも生活の危機を考える必要がないため、自ら制約を課さなければ、どなたでもお相手としてOKとなってしまいます。そのように考えると、これまで皇室の方々が実践されてきた“制約がない中での慎ましい生活”とは、実に奇跡的だったともいえます」
😀 そうなんですか?!皇室の格と権威を保つ、という大きな制約があったのではありませんでしょうか。
本郷教授によれば「皇室と国民」の歴史は意外にも浅いのだといい、「江戸後期になるまで、ほとんどの庶民は『天皇』という存在すら知りませんでした。それ以降、本居宣長らをはじめ国学が興ったことで、古事記などを読んだ人々が天皇を再発見したのです。“日本人とは何なのか”というアイデンティティ確立の過程で、庶民の側から天皇を“見つけた”わけです」
😀 この話もよく聞きますが、本当にそうでしょうか?
例えば庶民の娯楽歌舞伎の目玉演目『仮名手本忠臣蔵 』は寛永元年(1748年)初演ですが元禄14年(1701年)に起きた赤穂事件を元にしています。
庶民が「勅使饗応」の意味を知らなければ、浅野内匠頭への同情も吉良上野介への憎しみも生まれようが無い。
「勅使は京から来た天子さまのお使い。江戸には将軍、京には天子さまがいる。天子さまは将軍がお使いすら気を入れて持てなさねばならないほど偉いかた。」くらいの知識はあったのではないでしょうか。
京から江戸へ旅する勅使のご一行を目にする人々もいたでしょうしね。
天子さまの存在を知らなければ『忠臣蔵』の発端からして意味不明でしょう。庶民が天子さまの存在すら知らなかったとは考えられないのですが?
*本居宣長 1730年~1810年
22歳ごろ国学に触れ、1757年27歳、賀茂真淵の書を知り国学の研究に入る。
(本居宣長が国学に触れたのは、忠臣蔵が大当たりを取った後です。)
*ペリー来航 1853年
*大政奉還 1867年
「上皇ご夫妻は積極的に国民と交流する場を持たれ、皇室の威厳や特別感はそのままに、親しみやすい皇室を作ってこられました。こうした皇室のあり方を保つためには、今後、何かしらの対策を講じる必要があるのではないでしょうか。さもなければ、同じような問題が再び起きてしまう可能性があります」
😐 そうでしょうか?
皇室の方々に対してはしたないほど嬌声が上がるようになったのは、平成時代に入内した雅子さまが始まりでした。
皇室の方々は嬌声が上がることを喜んでいらっしゃるようですが、人間、威厳を感じている相手に派手な嬌声を上げたりはしないものです。
平成時代後半には、皇室の威厳は半減していたし、上皇上皇后ともに皇室を存続させるのに威厳は必要無いと考えていた節がある。
昭和天皇の遺産を食い潰すことでなんとか威厳を保っていたのが平成の皇室だったと私は思います。
覆水盆に返らずとはいえ、こうした“類例を見ない”騒動を繰り返さないためには何をすべきか。
😐 天皇家を”公”に生きる人々、秋篠宮家を”私”に生きる人々。と決めつけた上で、解決策を考えても、まともな策は出てこないような気がしますが、どんな解決策を考えているのか、興味はあります。
発売は明日ですね。
某学会が令和の皇室に絡んでいるという噂を雅子さま御成婚時から現在までネットでしばしば見かけるが、このようなものがあった。
創価学会「日本民族に天皇は重大でない」 天皇を重視しない思想集団の凋落 PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)
2019年6月17日号
小川 寛大『宗教問題』編集長
これを信ずれば「愛子天皇」には関わっていないということになるが。