兵庫県・高砂神社の境内で見かけた銅像。
「あっち向いてホイ」のように指を指していた。
誰?
私は銅像の前に“池田輝政公高砂城址”とあったので,“池田輝政”公のものだと思い込んでいた。
“高砂の松”のことを調べていて,その像が“工楽松右衛門(くらくまつえもん)”のであるのが分かった。
“工楽松右衛門”???
ん~~
どこかで見たような名前・・・
司馬遼太郎『菜の花の沖』???
@工楽松右衛門
わが国の帆布製造の始祖として知られる初代工楽松右衛門は、寛保3年(1743年)高砂町東宮町に生まれた。
従来の帆布に改良を加え、厚地大幅物の帆布の織り上げに成功、「松右衛門帆」と呼ばれて全国の帆船に用いられるようになった。
また、幕府の命を受けて千島の択捉島に埠頭を築くなど優れた築港技術者として活躍した。
これらの実績から享和2年(1802年)に幕府より「工事を楽しむ」「工夫を楽しむ」という意から「工楽」の姓を賜った。
文化9年(1812年)70歳の生涯を終える。
公益のためには苦労を惜しまず、持ち前の工夫で工事を楽しんだ松右衛門は自らの信念を次のように言い残している。
「人として天下の益ならん事を計らず、碌碌(ろくろく)として一生を過ごさんは禽獣(きんじゅう)にも劣るべし」
すなわち「人として世の中の役立つことをせずに、ただ一生を漠然と送るのは鳥や獣に劣る」
彼の功績を称え、高砂神社の境内には銅像が建てられている。
@高砂城
高砂城の記録はあまり残っていない。はっきりした起源は不明だが、梶原氏が治める城として天文七年(1538)に登場している(『高砂市史・高砂町市史』)。
古くは寿永三年(1184)に、梶原景時が播磨国の守護として命じられたのがきっかけのようである。
高砂城が「海城」として改めて登場したのが、天正六年(1578)の羽柴秀吉による三木城攻めの頃からである。三木城主、別所長治の有力武将であった高砂城主、梶原平三郎衛景行は、世に言われる『三木の干殺し』に対して、最後まで兵糧の供給基地として播磨灘の海上を押さえていた。
そこで、秀吉はこの高砂からの兵糧の道を絶とうと高砂城攻めを開始。寄せ手は一千騎で攻め寄せましたが、景行は三百余騎で、毛利の援軍の甲斐もあって見事打ち破った。が、その後の秀吉軍の大軍の前にはなす術もなく、あえなく落城の憂き目となった。
その後、慶長五年(1600)の後に池田輝政が播磨に入り、姫路城を築いたが、同時に播磨の海の守りを固めるために高砂城も築いた。中村主殿助正勝が城主となり、大規模な構えの城を形成させ、高砂は城下町として生まれ変わった。
しかし、その立派な城も元和元年(1615)に出された『一国一城令』により破棄され、短い歴史を終えた。
「あっち向いてホイ」のように指を指していた。
誰?
私は銅像の前に“池田輝政公高砂城址”とあったので,“池田輝政”公のものだと思い込んでいた。
“高砂の松”のことを調べていて,その像が“工楽松右衛門(くらくまつえもん)”のであるのが分かった。
“工楽松右衛門”???
ん~~
どこかで見たような名前・・・
司馬遼太郎『菜の花の沖』???
@工楽松右衛門
わが国の帆布製造の始祖として知られる初代工楽松右衛門は、寛保3年(1743年)高砂町東宮町に生まれた。
従来の帆布に改良を加え、厚地大幅物の帆布の織り上げに成功、「松右衛門帆」と呼ばれて全国の帆船に用いられるようになった。
また、幕府の命を受けて千島の択捉島に埠頭を築くなど優れた築港技術者として活躍した。
これらの実績から享和2年(1802年)に幕府より「工事を楽しむ」「工夫を楽しむ」という意から「工楽」の姓を賜った。
文化9年(1812年)70歳の生涯を終える。
公益のためには苦労を惜しまず、持ち前の工夫で工事を楽しんだ松右衛門は自らの信念を次のように言い残している。
「人として天下の益ならん事を計らず、碌碌(ろくろく)として一生を過ごさんは禽獣(きんじゅう)にも劣るべし」
すなわち「人として世の中の役立つことをせずに、ただ一生を漠然と送るのは鳥や獣に劣る」
彼の功績を称え、高砂神社の境内には銅像が建てられている。
@高砂城
高砂城の記録はあまり残っていない。はっきりした起源は不明だが、梶原氏が治める城として天文七年(1538)に登場している(『高砂市史・高砂町市史』)。
古くは寿永三年(1184)に、梶原景時が播磨国の守護として命じられたのがきっかけのようである。
高砂城が「海城」として改めて登場したのが、天正六年(1578)の羽柴秀吉による三木城攻めの頃からである。三木城主、別所長治の有力武将であった高砂城主、梶原平三郎衛景行は、世に言われる『三木の干殺し』に対して、最後まで兵糧の供給基地として播磨灘の海上を押さえていた。
そこで、秀吉はこの高砂からの兵糧の道を絶とうと高砂城攻めを開始。寄せ手は一千騎で攻め寄せましたが、景行は三百余騎で、毛利の援軍の甲斐もあって見事打ち破った。が、その後の秀吉軍の大軍の前にはなす術もなく、あえなく落城の憂き目となった。
その後、慶長五年(1600)の後に池田輝政が播磨に入り、姫路城を築いたが、同時に播磨の海の守りを固めるために高砂城も築いた。中村主殿助正勝が城主となり、大規模な構えの城を形成させ、高砂は城下町として生まれ変わった。
しかし、その立派な城も元和元年(1615)に出された『一国一城令』により破棄され、短い歴史を終えた。
訂正,そうでしたか~
そうでしたよねぇ~
先日のTVで真田氏の親子・兄弟が,
敵味方に分かれて関ヶ原~大坂の陣を戦っていました!
TVに出ていた、元バンカーのお兄さんの顔見てたらちょっと買う気が・・
親子、兄弟、貧乏な時でも米の取り合いで血を見る時代もあったですよね。
な~んにも無いけど、みんなで寄り添ってたら幸せのわけあいっこ~♪
>吉澤帆布のトートバッグが欲しくて・・
私もそう思った時期がありました。
そしたら兄弟喧嘩で・・・
なかなか兄弟愛とお金とは両立できないもの???
知人からヨットに誘われているのですが、お金と時間がないので断っているのです。
昔、瀬戸内海は、日本の海運の中心だったのでしょう。
そこで技術が発達した。
まだまだ知らないことばかり。
いろいろ行ってみたいところがあるんです!
司馬遼太郎『菜の花の沖』は、たしかももりさんから教えてもらった本でした。
なかなか長くって・・・
まさかこの神社で、松右衛門さんにお会いするとは想いませんでした。
でも、なぜ指をさしているのか???
信三郎帆布になって興味が薄れご縁が無く今に至ります。
ヨットにも帆船にも乗った事が無く、ガレー船ならひょっとして前世で??あはは^0^q
菜の花の沖のドラマは見たのですが、この方のことには触れてなかったのか、私が見落としたのかどちらかです。