鹿児島で“照国神社(てるくにじんじゃ)”に参った。
照国神社は、照国大明神(島津斉彬公)を祀る。
明治6年(1873年)に県社に列し、同15年(1882年)には別格官幣社に昇格。
明治維新における祭神の功績と薩摩藩の役割が考慮されたと考えられる。
祭神の銅像が建ち、また弟久光や
甥忠義の銅像もあった。
大河ドラマ『篤姫』では高橋英樹さんやったよなぁ~
@照国神社
初もうでや六月灯で、みなさんが知っている照国神社は、幕末の名君島津斉彬を祭ってあります。
斉彬は、一八〇九(文化六)年、江戸の屋敷で生まれました。父は、島津家第二十七代藩主斉興で、母は、鳥取藩主池田治道の娘周子です。少年時代はひいじいさんの重豪のもとで育ちました。重豪は、薩摩に新風をふきこみ、進んだ外国の文化を身につけた人でした。
十歳のころすでに書や絵画にすぐれ、漢文で書かれた中国の本をよく読み、幅ひろい教養を身につけました。また、ヨーロッパの本も読みはじめました。
十五歳になると、当時の将軍徳川家斉の一字をもらって、名まえを斉彬と名のりました。その二年後には、重豪といっしょに、ドイツ人医師シーボルトを江戸に迎えて、動植物や医学などのヨーロッパの進んだ学問を学び、世界のいろいろな動きをとらえようと努力したのです。
斉彬は、重豪の教えをよく守って、すぐれた人物に成長していきました。そこで、水戸の徳川斉昭のように、斉彬が次の薩摩藩の藩主になってほしいと、希望する大名もたくさんいました。藩内でも斉彬を早く藩主にして、藩の政治を改めていこうとする有志の者がでてきました。しかし、このような動きは、斉彬に反対する人たちの耳に入り、斉興は、有志の者数十人を切腹や島流しにしました。この事件は「お由羅騒動」と言われています。その後一八五一(嘉永四)年、父斉興が隠居して斉彬が二十八代の藩主になりました。
斉彬は、産業をさかんにして軍備をととのえ、日本が外国の植民地にならないようにと考え、日本の独立を守る政治をすすめました。また、西郷や大久保などの人材の養成にもつとめました。
しかし、藩主になってからわずか八年、四十九歳の若さで急死してしまいました。
一八六三(文久三)年、天皇から「照国大明神」の神号が授けられ、藩では鶴丸城の西側の南泉院(一八七七年に焼失)の本門前に神社を建てることになりました。神社は、翌年一八六四(元治元)年に完成、照国神社と称されました。境内には、斉彬の銅像も立っています。
その後照国神社は、一八七七(明治十)年の西南戦争で社殿と宝殿が焼け、昭和二十年の太平洋戦争で再び焼失しましたが、昭和三十三年復興造営され、今は鉄筋コンクリート造りになっています。
また、入口にある大鳥居は、昭和四年の建設で、昭和三年の御大典を記念して建てられたもので、高さが十九・八メートルもあり、全国的にも珍しいものです。照国神社は今も鹿児島で最も大きな神社として、多くの参拝者でにぎわっています。
(出典:「鹿児島市の史跡めぐりガイドブック-四訂版-」鹿児島市教育委員会・平成11年3月発行)
照国神社は、照国大明神(島津斉彬公)を祀る。
明治6年(1873年)に県社に列し、同15年(1882年)には別格官幣社に昇格。
明治維新における祭神の功績と薩摩藩の役割が考慮されたと考えられる。
祭神の銅像が建ち、また弟久光や
甥忠義の銅像もあった。
大河ドラマ『篤姫』では高橋英樹さんやったよなぁ~
@照国神社
初もうでや六月灯で、みなさんが知っている照国神社は、幕末の名君島津斉彬を祭ってあります。
斉彬は、一八〇九(文化六)年、江戸の屋敷で生まれました。父は、島津家第二十七代藩主斉興で、母は、鳥取藩主池田治道の娘周子です。少年時代はひいじいさんの重豪のもとで育ちました。重豪は、薩摩に新風をふきこみ、進んだ外国の文化を身につけた人でした。
十歳のころすでに書や絵画にすぐれ、漢文で書かれた中国の本をよく読み、幅ひろい教養を身につけました。また、ヨーロッパの本も読みはじめました。
十五歳になると、当時の将軍徳川家斉の一字をもらって、名まえを斉彬と名のりました。その二年後には、重豪といっしょに、ドイツ人医師シーボルトを江戸に迎えて、動植物や医学などのヨーロッパの進んだ学問を学び、世界のいろいろな動きをとらえようと努力したのです。
斉彬は、重豪の教えをよく守って、すぐれた人物に成長していきました。そこで、水戸の徳川斉昭のように、斉彬が次の薩摩藩の藩主になってほしいと、希望する大名もたくさんいました。藩内でも斉彬を早く藩主にして、藩の政治を改めていこうとする有志の者がでてきました。しかし、このような動きは、斉彬に反対する人たちの耳に入り、斉興は、有志の者数十人を切腹や島流しにしました。この事件は「お由羅騒動」と言われています。その後一八五一(嘉永四)年、父斉興が隠居して斉彬が二十八代の藩主になりました。
斉彬は、産業をさかんにして軍備をととのえ、日本が外国の植民地にならないようにと考え、日本の独立を守る政治をすすめました。また、西郷や大久保などの人材の養成にもつとめました。
しかし、藩主になってからわずか八年、四十九歳の若さで急死してしまいました。
一八六三(文久三)年、天皇から「照国大明神」の神号が授けられ、藩では鶴丸城の西側の南泉院(一八七七年に焼失)の本門前に神社を建てることになりました。神社は、翌年一八六四(元治元)年に完成、照国神社と称されました。境内には、斉彬の銅像も立っています。
その後照国神社は、一八七七(明治十)年の西南戦争で社殿と宝殿が焼け、昭和二十年の太平洋戦争で再び焼失しましたが、昭和三十三年復興造営され、今は鉄筋コンクリート造りになっています。
また、入口にある大鳥居は、昭和四年の建設で、昭和三年の御大典を記念して建てられたもので、高さが十九・八メートルもあり、全国的にも珍しいものです。照国神社は今も鹿児島で最も大きな神社として、多くの参拝者でにぎわっています。
(出典:「鹿児島市の史跡めぐりガイドブック-四訂版-」鹿児島市教育委員会・平成11年3月発行)
>昨日の「坂の上の雲」鹿児島弁が飛び交っていましたね。
私も観ていました。
まさに薩摩と長州の時代やったんでしょう。
萩をゆっくり散策してみたいです!