写真の集落は、飛鳥坐神社の参道付近。
一の鳥居から二の鳥居付近を中心とし、古い伝統的な様式の民家も飛鳥坐神社の参道両側に沿って展開していた。
明日香村は飛鳥文化の中心地で、大陸からの渡来人が多く住んでいたところと云われている。
また、6世紀から7世紀末にかけての100余年間、推古天皇から持統天皇に至る宮都の地であった。
藤原京を平城京に移して飛鳥時代は終わり奈良時代に入ると、飛鳥寺(元興寺)・大官大寺(大安寺)などの、飛鳥時代に創建された主要寺院も移転し、飛鳥地方は閑寂の一途をたどることになった。
中世には春日社・興福寺などの荘園が経営され、地方武士が僅かに出ただけであった。
近世にはいり岡寺や壷阪寺への観音霊場巡礼・吉野詣でが盛んになっても、この地は通過地に過ぎず、村は純農村として明治に至った。
【写真】㊤甘樫丘からの眺め
㊦飛鳥坐神社から
一の鳥居から二の鳥居付近を中心とし、古い伝統的な様式の民家も飛鳥坐神社の参道両側に沿って展開していた。
明日香村は飛鳥文化の中心地で、大陸からの渡来人が多く住んでいたところと云われている。
また、6世紀から7世紀末にかけての100余年間、推古天皇から持統天皇に至る宮都の地であった。
藤原京を平城京に移して飛鳥時代は終わり奈良時代に入ると、飛鳥寺(元興寺)・大官大寺(大安寺)などの、飛鳥時代に創建された主要寺院も移転し、飛鳥地方は閑寂の一途をたどることになった。
中世には春日社・興福寺などの荘園が経営され、地方武士が僅かに出ただけであった。
近世にはいり岡寺や壷阪寺への観音霊場巡礼・吉野詣でが盛んになっても、この地は通過地に過ぎず、村は純農村として明治に至った。
【写真】㊤甘樫丘からの眺め
㊦飛鳥坐神社から
我が家付近は、心配したほどに雪が降りませんでした。
時々舞っただけで、積もってはいません。
それにしても、伏見稲荷までウオーキングとは!
往復何時間かかったのでしょうか?
やっぱり帰りは電車?
家人の実家が商売してるので、何度かお参りのお供をしたことがあるのです。
書くのが遅れましたが、送ってもらった資料、凄いですねぇ~!
さすが芸術家やなぁ~って感心しました。