聖徳太子の墓所がある叡福寺の南に西方院があった。
訪ねるまでその寺の詳しいことは知らなかったけど・・・
お寺を囲む集落内の迷路のような道と立派な鐘楼が印象的やった。
その鐘楼,庭の関係でこれ以上下がれないというとこまで下がって撮影したんやけど,
こんな写真しか撮れへんかった。
@西方院
当院の由来は寺伝によると、622年(推古天皇30年)に聖徳太子が亡くなったあと、太子の乳母であった月姫(蘇我馬子の娘)・日姫(小野妹子の娘)・玉照姫(物部守屋の娘)の三姫は剃髪し、その名も善信・禅蔵・恵善と称し、太子御廟の前に一宇を建立して、太子の遺髪と太子自作の阿弥陀如来尊像を安置したのが濫觴と伝わる。日本で1番最初の尼寺であるとされる。
創建時は叡福寺の塔頭の一つで法楽寺と称したが、南北朝の争乱以後、寺運は衰え、1574年(天正2年)織田信長の兵火にかかり荒廃した。
江戸時代初期の1639年(寛永16年)、当時の住職であった蓮誉寿正尼が再興に尽力し、現存の寺観が整ったといわれ、西方院の名称もこの時に改められている。
訪ねるまでその寺の詳しいことは知らなかったけど・・・
お寺を囲む集落内の迷路のような道と立派な鐘楼が印象的やった。
その鐘楼,庭の関係でこれ以上下がれないというとこまで下がって撮影したんやけど,
こんな写真しか撮れへんかった。
@西方院
当院の由来は寺伝によると、622年(推古天皇30年)に聖徳太子が亡くなったあと、太子の乳母であった月姫(蘇我馬子の娘)・日姫(小野妹子の娘)・玉照姫(物部守屋の娘)の三姫は剃髪し、その名も善信・禅蔵・恵善と称し、太子御廟の前に一宇を建立して、太子の遺髪と太子自作の阿弥陀如来尊像を安置したのが濫觴と伝わる。日本で1番最初の尼寺であるとされる。
創建時は叡福寺の塔頭の一つで法楽寺と称したが、南北朝の争乱以後、寺運は衰え、1574年(天正2年)織田信長の兵火にかかり荒廃した。
江戸時代初期の1639年(寛永16年)、当時の住職であった蓮誉寿正尼が再興に尽力し、現存の寺観が整ったといわれ、西方院の名称もこの時に改められている。
>楽しいなぁーー瓜亀さんの歩く道程が日々描かれて・・。
ブログは私の日記なのです。
年次有給休暇などを活用し,奈良周辺を彷徨っています。
次はどこへ行こうかなぁ~
私も天皇陵めぐりをしようとして集落内の迷路に迷い込み・・・
結局,このお寺しか行けなかったのです。
楽しいなぁーー瓜亀さんの歩く道程が日々描かれて・・。
ええーーっと、御仕事の合間にですか??
良いなぁ、一杯いろんなとこに出かけられて。今日も暑そう。
1.5kmの職場より、仕事で出られる方が、多いのですね。それでは息抜きが必要!
ご趣味をかねての見聞録のUP今日もワクワクです。
ここにも信長が登場・・・
尼寺まで焼失・・・
この河内周辺は,南北朝の争い?,鎌倉幕府軍にも被害にあっているのです。
名前を聞くとお父様方は古代史の豪華メンバーですね。
本当に立派な鐘楼でしたyよ!
罪深いのか、豪胆なのか・・
もったいない。もったいないなぁ^0^b
立派な鐘楼ですね~。