さすがに鬼もその日は現れなかった。八日を過ぎた。
「いつまで、こうしている?」
「弥生ひいなの祭りまで。が、このまま、悪童丸が現れないわけがありませぬ」
「元より、承知の上じゃ」
「討っては成りませぬぞ、追い払うだけ、心に念じ下さりませ」
「う、」
「ご返事を?」
「あい判った」
三条の姿と見破られておれば昼最中には、現れぬという澄明の読みを信じて、昼になると、うつらうつらと眠り、この八日の間、昼と夜が逆転しているが、寝ずの番にさすがに二人が、うとうとと眠り込んだ。
はっとして目を覚ましたのは、姫のやんごとなき声が漏れているのを、夢、現で聞いたからである。
澄明を揺り起こして見れば政勝の気配ですぐに感じ取ったのであろう。
「現れましたか」
と、呟いた。
が、澄明もやはり、姫の声に気が付くと政勝の顔を窺った。
房事の最中である。そうなると、鬼の事は構わぬが、勢姫のあられもない姿の元へ踏み入るわけにもいかない。
「どうなされる?」
間の抜けた話しである。追い払う所か、こちらが中に踏みこむ事に躊躇せねばならぬところまで二人で八日もかけただけである。
「姫」
やっとの思いで政勝は声を出した。
途端にしんと静まると、なんの音一つもしない。
さすがに主膳のように簡単に悪童丸の妖術にはかからないと判ると、二人が眠りこけたのを見計らって現れた鬼である。
結界を張れないと判ると澄明が四方神を身体に書き記した。
青龍。朱雀。白虎。玄武の文字を書き入れるとこれだけで良いのかと政勝が笑ったのであるが、墨を溶くのにも四方の神のまん中に祭壇を据え祈りを捧げながら御神酒で膠を伸ばしながら刷り上げた。
その墨を使ったのである。鬼の妖術から身を護られてはいる。
「姫。入りますぞ」
もう一度政勝が声をかけるとやっと、姫の返事があった。
「ならぬ」
そう返事が返って来たときには政勝が姫の部屋に踊りこんでいた。
姫の半裸身が夜具の中にすっぽり包まれるのをちらりと眼の端に止めると政勝は一瞬の内に辺りを見廻した。
確かに姫の側を離れる鬼を見た気がしたのである。
「おらぬ」
「政勝殿」
澄明が姫の打掛が掛けられた鴨居のほうを見上げると天上に張りつくようにして悪童丸の姿があった。
その澄明の目線を追って、政勝が刀の柄に手をかけこいくちを切り掛けるのをみると、さすがの澄明も政勝を引き止める事も叶わぬと察して九字を唱え始めた。
澄明にとっては政勝の命の方が大事である。
唱えたくない縁者の因を悪童丸に与えねば致し方なかった。
「怨 婆沙羅」
が、澄明は九字を唱え終わると
「悪童丸。逃げやれ。そして、もう、現れるでない」
澄明の必死の叫びが悪童丸に届いたのか政勝の刃をすいっと避けた悪童丸の姿が掻き消えた。
「いでよ」
政勝の怒涛のような声が響き渡る。
その政勝の後ろに又も、悪童丸の姿が現れた。
殺気をけどってたちどころに政勝が振向くと狭い居室の中である。
青眼の構えが不利とわかると政勝はこてを返して地擦り八双の構えに変えた。
下から思いきり切り上げようというのであろう。
が、切下げる力と切り上げる力では下げる力の方ならまだしも切り上げる力で鬼の力に適う筈がない。
それでも、政勝は矢継ぎ早に突きを入れるように刀を閃かせた。
繰り返される刃の閃きを悪童丸が皮一枚で見事に交わしながらもじりじりと部屋の隅に追い詰められていった。
隅まで追い詰めると政勝は再び上段に構え、やああと気合もろとも刀を振り下ろした。
懺と刀が食い込む筈の先の悪童丸の姿が刃の落ちるより先にふと消えた。
「卑怯だぞ」
政勝が叫ぶ声が大きく響き渡ると、悪童丸の姿が再び闇の中から現れ勢姫を横抱きにだかえると勢姫も悪童丸の首をがっしりと掴んだ。
途端、打掛に手を延ばす様によこっとびにはねあがると打掛を引っ掴み
「はあっ」
と、いう声もろとも悪童丸が窓をけたぐると二人の姿が宙に舞った。
「南無参」
慌てて政勝が駈け寄って窓の下を見たが確かにこの窓より踊り出た二人の姿は地べたに叩き付けられる事もなく、何処かに掻き消えていた。
「衣居山でしょう」
「ゆくか」
月明かりが恐ろしく冴え渡っている。
外にでると二人は馬小屋に向かった。
衣居の麓までは馬で駆けて行こうというのである。
駿馬である先矛と葦毛の荒浪を引き出すと夜であるにもかかわらず事の大事を察するのか進んで二頭も馬小屋から出て来た。
「乗れるか?」
裸馬にである。轡だけは、はませたが鞍や鐙を付けている時間が惜しい。
「はい」
何処で、覚えたのか、かなり扱いなれた様子で澄明も轡をはませ手綱を握っていた。
その様子をみると政勝は先に走り出た。
門を開けねばならない。幸いな事に月明かりでそこらいったい明るい。
数えてみればあの観月の日より一月近くたっている。宙空輝く月もほとんど方円を描いていた。少し遅れて駆けつけた澄明の息が白くみえる。冷え込んできている。
「ゆくぞ」
開け放たれた門の側に門番である稲造がぼんやりと突っ立って二人の行方を見続けていた。
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