「瞳子・・お茶を・・ああ、コーヒーがよいな。いれてくれるかな?」
教授に言いつけられると、瞳子は実行がかかったプログラムのように起動しはじめ、「はい」とうなづき台所にたっていった。
「あの調子なんだ。言われたら言われたとおりに動く。だけど、自分で判断してなにかするという状態じゃない」
瞳子が台所に入りきったのを確かめると、教授は声を潜めた。
「双極性障害って知ってるかな?躁状態と鬱状態の両方を持っている。今の瞳子は躁状態の入り口ぐらいにいるんだ。
だから、積極的に人と交わろうとする兆候が表に出てきている。
欝状態に入ったら、部屋に閉じこもって、何かわからないものとひそひそと会話している。
食事もまともにとろうとしないし、夜も眠れないんだろう。
瞳もうつろで、何か話しかけても、何か・・わからないんだけどね・・何か、傷に触れるんだろう。
黙りこくったまま涙がほほに伝ってくる。
どうしたの?何か気に触ることを言ってしまった?だったら教えてほしい。とたずねても
さっきみたいにめまいか幻惑がおきるのかな、頭を抑えて部屋にもどってしまうんだ」
教授の説明を聞きながら私はそっと夫人を伺い見た。
夫人は瞳子の様子を拒絶する風でない私にいくばくかほっとしているように見えた。私の視線に気がつくと夫人の重たい口がやっと開いた。
「義治さん・・ごめんなさいね・・私がもっと気をつけていれば」
事件がおきなかったと夫人は思うのだろう。
だが、私は、妙な考え方かも知れないが、私自身が瞳子をあきらめようとしないように、
瞳子に目をつけた犯人もまた、自分の思いをはらすまでは、瞳子をあきらめようとしなかっただろうと思った。
たとえ、今回、瞳子が無事だったとしても犯人は自分の目的を達成するまで、瞳子を襲うチャンスを持ち続けていただろう。
アクシデントに分類されるような通り魔的犯行ではないと私には思えた。
「お母さんのせいじゃないですよ。犯人はいずれ、犯行を侵したと思います。
結婚したあとに事件が起きたとして、同じように瞳子が異常をきたしたとしても、瞳子を戻しますということは私にはありえないのです。
ですから、この事件で瞳子との婚約を白紙にするなんてことをおっしゃらないでください」
私は夫人に言いながら、瞳子の様子を確認しても、いっこうに変わらない私の決心を教授の耳にを宣告していた。
「あ・・」
夫人は私の宣告に声を上げてなきそうになる自分を抑えていた。
「私は籍こそいれていないけれど、瞳子を伴侶だと思っています。瞳子に何があっても私の心まで変わることはありえないのです」
畳み掛けた言葉に泣き伏しそうになる自分を制しながら夫人は声を絞りだした。
「だけど・・あの娘は・・あなたと生活することはできない・・」
たとえ、瞳子と暮らせても、瞳子が日常の生活を支えることができないと夫人はいう。
「私は家政婦がほしいわけじゃないんですよ。瞳子がいてくれたらそれだけでいいんです。
こう、考えてくれませんか?私と瞳子はもうすでに結婚していて・・事件がおき・・
それで、瞳子は実家で養生している。そう考えてくれませんか?」
私の話を黙って聞いていた教授の顔を伺う夫人に、教授がおもむろに口を開いた。
「瞳子の異常な行動も「好意の表れ」だといってくれているんだ。そして、その好意を実行に移せる相手も彼しかいない。
だけど、瞳子が彼を認識するか、恐れはしないか、そんな瞳の状態だからね。彼も将来ある人間だ。
そんな瞳子に関わらなくても、ほかによい人がいくらでもいると思うんだ。
だから、瞳子をあきらめてもらうためにここにつれてきたんだけど・・瞳子は何かを覚えてるよ。
彼のことをお兄さんだと思うって、そういったんだ」教授の説明を聞いて、夫人の顔色がわずかなれど、明るくなったように見えた。
「なおるかも・・しれない?」
余計な期待を持たないほうがよいと言い聞かせながらそれでも、一縷の望みを見出せた夫人は、私に手を合わせた。
「おねがい。あの娘を助けてあげて、あの娘を救えるのは・・」
夫人の懇願を教授がさえぎった。
「初子、そんなことをいっちゃいけない。彼の気持ちも言い分もわかるけど、実際瞳子はまだ、嫁にだしたわけじゃないんだ。
決定したことでも、くつがえせる。くつがえさなきゃならないときのために婚約破棄とか、離婚とかこういう方法が成り立っているんだ。
彼の人生を第一にかんがえなきゃいけない」
光明が一瞬で暗澹荷変わると夫人は合わせた手をそっと解いた。
「ごめんなさい・・・親の身勝手な・・」
教授にいくら話してもらちがあかない。
普段、瞳子の世話をしているもっとも身近な人間の情をからめとっていくしかないと私は思った。
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