「おかあさん。私に私の人生があるように、瞳子にも瞳子の人生があるんですよ。
瞳子の人生を無明にして、私がこの先自分の人生を歩めると思いますか?
救うという言い方はおこがましいものの言い方ですが自分の伴侶になる人を救い出すこともできない人間がこの先ほかの人間とうまくやっていけるわけがないでしょう?
何かあるたび、逃げる、この繰り返しになる、そんな人生は・・空虚なだけです。
私自身が瞳子を支えることで私が救われるのです。
ここで、瞳子を見放したら、私の人生は敗北そのものでしかなくなる。
私にとって、瞳子はもう、私の分身なのです。どうぞ、そこを、ご理解・・」
くださいと言い切る言葉をとめたのは、台所から瞳子が姿を現したからだ。
「コーヒー、居間におもちしましょう。皆様いらして・・」
一見はいつもの瞳子でしかない。
だが、教授がかたくなに-私の人生を考えろ-というのは、まだまだ瞳子の狂いがどこまでのものかわかってないせいだろう。
居間への廊下を歩きながら私は教授に決心を告げなおした。
「おっしゃるとおり、婚約は白紙に戻しましょう。そして、改めて、一からやりなおして、今の瞳子の心をつかみなおします」
教授が唖然と口をあけ、夫人が胸元で手を合わせありがとうとつぶやいていた。
そして、居間に入った私は今後の対策を話し合うことになった。
居間に入ると瞳子は教授にすがりつくようにもたれかかる。そのさまは恋人同士のそれに見える。
だが、瞳子には、対人関係がいっさい認識できていない。
異性として意識した男性に妻という存在があり、その目の前で臆面なくすがりつくという行動をおこせるものだろうか?
通常、自分の立場を考え、相手の立場や夫人の感情に配慮する。
それが、瞳子にはいっさいない。
すなわち、瞳子の感情は恋愛感情とは異質なものに違いない。
むしろ、瞳子の行動は擁護してくれる父親を求めている。
だが、「父親」をもとめながら、なぜ、教授を「おじさま」と呼ぶのか?
夫人に対しての内的感情は「おかあさま」であり、私に対しては「おにいさま」である。
これを親近感のあらわれだとするのなら、なぜ、教授だけ、「おじさま」なのだろう。
逆に「おじさま」と呼びながら庇護されるひな鳥のように教授にすがりついていくのも、矛盾を感じる。
瞳子の意識構造を理解できる材料があまりに少なく、私は瞳子にたずねてみることにした。
どこまで、引き出せるか、いっそう、混迷の中におちいるか、それより、以前に瞳子が「おじさま」と、すりかえる原因に触れたがらないかもしれない。
「瞳子さんのおとうさんはどんなかたでしょうか?」
瞳子が「おとうさま」を埋めてしまう原因がなにか、浮上してくるかもしれないと瞳子の父親への感情をひきだそうと私は質問を選んだ。
私の質問にわずかながら、教授がぎょっとした。
おそらく、教授も夫人も教授を「おじさま」と呼びながら、すがりついていく瞳子に度肝をぬかれ、「その状態」を受け入れるだけしか出来なかったと思う。
教授が「おじさま」ならば、「おとうさま」は誰なのか?どんな人なのか?
教授も夫人も「教授が父親なのに、それさえ認識できない瞳子」の姿にうちのめされ、一歩踏み込んだ質問はつらくもあり、質問する目的も見出せないでいただろう。
瞳子さんとよばれ、きょとんとしていた瞳子はやがて、自分の中の父親を探しはじめた。
畳のへりあたりをみつめながら、じっと、かんがえこんでいたが、やがて、ぽつりとつぶやいた。
「お父様はおそろしい人よ・・」
小さな声で私の質問に答えると、これ以上、考えたくないと瞳子はかぶりをふった。
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