恐ろしい?
私にとっても意外すぎる答えは当の教授には、意外を通り過ぎ、大きな衝撃だろう。
仲のよい父娘の会話からして、瞳子が父親を恐ろしいと否定する感情をもっていたとは、とても、思えない。
だが、現実、瞳子は父親を認識しようとしない。
否認する要素として、「恐ろしい」があるのは、確かに瞳子の言葉通りだろう。
だが、何をもってして、「恐ろしい」と思ったのか?
瞳子の姿は私には幼い子供のようにも思える。父親にこっぴどく叱られたか?
幼い頃の記憶が芯に残り、この境界異常のさなか、ときはなたれてきているのか?
「恐ろしい」という思いは、むしろ、暴行事件、そのものに対してだろう。
瞳子は事件と、同じように「恐ろしい」と思った父親像もろとも、記憶から葬り去った。
「恐ろしい」を、受け入れまいとする心の働きにより、事件の傷も記憶のなかからけしさり、同じように、「恐ろしかった父親」も消し去ってしまった。
精神科の医師が言った意味合いが私にようやく理解できた。
瞳子が正常を取り戻すプロセスの中に、「恐ろしい」を受け入れ、認識する必要が生じる。
どこまで、受け入れることが出来るだろうか?
できないからこその、この狂気でしかない・・・。
だが、本当に恐ろしかった事件だけ、隔離して、教授に対して感じた「恐ろしい」をきちんと受け止めさせることが出来たなら、それもまた、瞳子の中で抗体になっていくのではないか?
「恐ろしい」のせいで、事件を忘れ、教授を父親として認識できなくなったのは、ほぼ間違いがないが、「恐ろしい」への免疫力をいっさいなくしてしまう、では、瞳子は回復できない。
「恐ろしさ」が教授を父親と認識することを妨げている以上、まず、教授を「恐ろしい」と、思ったその内容を知った上で、瞳子の「恐ろしさ」を解きほぐす必要があると私は考え、瞳子への質問を変えてみた。
瞳子自身が「恐ろしさ」から逃げず、自分の口で「恐ろしい」と思った内容をしゃべることが出来れば、これも、回復に導くことが出来るかもしれないとも思った。
「瞳子さんは、お父さんのどんなところが、こわかったのかな?」
急激すぎるとも思った。瞳子が自分の中に閉じこもり始めているのも私には見えていた。
無理にこじあけちゃいけない。私は別に精神科の医者でもないし、治療法などというマニュアルさえ理解していなかった。
だけど、閉じこもった世界から外部の人間に内的世界を語ることができるということは、瞳子が内的世界を自分の外に押し出し、客観視できるということだ。
客観視ができるということは、客観側の人間との共通理解をもとうとする、意識が働くということだ。
少なくとも内的感情だけの瞳子からぬけでる可能性があるということでもある。
だけど、それでも、無理にこじあけちゃいけない。
自分から外に出てこようとしなきゃいけないのは、無論だが、内的世界に閉じこもることで、瞳子は自分で自分を庇護している。
その世界から出ることは、恐怖と向かい合うことに等しい作業になる。
うっかりすると、瞳子が狂的発作を起こす可能性もある。
どこまで、私に安心感をいだいてるか、瞳子が外にでてくる意志をもとうとするか、このふたつをたしかめてみるためにも、私は、その質問を選んだ。
「あ・・あ・・」
瞳子は頭をおさえた手をのど元にすべらすと、喉をぐっとおさえつけた。甲高い声がもれそうになる。その声を発っしたくなる「恐怖」に負けて、叫び声をあげたら、本当に、なにもかもを認識できない狂人になる。
瞳子が喉をおさえ、叫び声を抑えている姿をみて、私はすくなくとも、瞳子は自我を見失っていないと判断した。
「いいんだよ。はなしたくなかったら、なにもいわなくてもいいんだよ」
まちがいなく、瞳子は私に応えようとしている。
私は、それだけわかれば十分だった。
ゆっくり、時間をかければ、回復するとしても、私への好意と信頼が瞳子の中になければ、そこから、築き上げなければならない。
だが、恐怖と対峙しながら、瞳子は私の質問に答えようとした。
「いいんだよ・・」
繰り返した私の言葉に瞳子の瞳から涙があふれた。
「ごめんね・・」
謝る私のそばに瞳子がにじりよってきた。
瞳子の中で自分を庇護してくれる人間として、私の存在が認識されたのだろう。
だが、やはり、瞳子は異常の中にいた。教授の言うことに一致しているとも考えられる。
ー言われたら、動くー。
私への好意の表れともとれるが、瞳子はやはり、そのまま、私に言われたことを実行しようとしていた。
そのプログラムに従うことは瞳子の精神を波立たせ、凪の海が一変していく。
だが、私に応えなくてもよいといわれたことで、脅迫観念で応えようとした心理から開放され、瞳子の意志で答えをしゃべろうとしだしていた。
だが、やはり、恐怖が瞳子にまとわりつく。
瞳子はしばらく、畳のへりを見つめ続けていた。
そして・・・
「あれ・・のせいよ・・」
と、畳の縁を指差した。
「あれ?」
瞳子が指し示すものが私にはわからなかった。
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