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憂生’s/白蛇

あれやこれやと・・・

実は大久保利通が好きである

2022-10-18 23:21:24 | 続 歴史を齧ってみる

西郷隆盛、西南戦争参戦に「大久保利通が泣いた」訳 日本史上、最後の内戦はなぜ起こったのか (msn.com)

この記事をコピペする気になったのは、

大久保利通が泣いた、というところ。

大久保さん・・どっちかというと、

冷徹とか、で、巷の評価はよくない。

と、いっても、

相手が西郷隆盛だから、

図体はでかいが・・・

日本人の判官びいき(義経君ねー源九朗判官義経ーただし、こっちはほうがん)ににたりで、

西郷の方が人気がある分、大久保の分が悪いところがある。

源義経 みなもと の よしつね (bando-bushi.com)

【判官贔屓=「ほうがんびいき」と「はんがんびいき」】

 

「判官贔屓」という言葉は、源義経の悲劇的な人生やその最期から感じる同情や愛惜の心情のこと。ひいては、弱い立場の人に対しての同情などの心理現象をいう。「判官」は、国語的には「はんがん」と読むのが正しいが、義経の呼称にならっての使い方や歌舞伎などでは、義経の別名「九郎判官(くろうほうがん)」から伝統的に「ほうがん」と読む。

「判官贔屓(はんがんびいき)」という読み方・用法は、「赤穂事件」をモデルにした浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」の主人公の一人「塩谷判官(えんやはんがん)」(現実では浅野内匠頭)に同情を寄せる心情から、同様に悲劇的な主人公や弱者・敗者に対して呼称する。

意味は近いが、感情の基本に両者のどちらを思い描くかにより言い方が変わる。

 

落語の「青菜」にもでてくるが、

この時も、やはり みなもとの(なむ)くろうほうがん(ー)よしつね

に、なっている。

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ところが、

世間の印象と違い

大久保と西郷 幼馴染のようなものだから・・・

西郷の事は、かなり、苦しんだだろう。

だが、その心・・・

私情に流されない。

大義を重んじてこそ。

私情に流されてはいけない。

と、いうところだったろうと思う。

その心情を傍から見れば・・・

燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや

ツバメやスズメのような小さな鳥には、

オオトリやコウノトリのような大きな鳥の志はわからないという

「史記‐陳渉世家」の語句から)

小人物は大人物の大志をさとることができないということのたとえ。

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大志-志というところは、

むしろ、政(まつりごと)・日本の今 を

考えての「大儀」であったろうと思う。

*********

おおざっぱな言い方をすれば

理性の大久保

感情の西郷

と、思えた。

だが、大久保は、

政(まつりごと)-公務にたいしては、

理性を以って・・となるが

感情では、西郷を思い

相当苦しんだだろう。

だが、天下の筋目を狂わしたら

日本そのものが、崩れてしまう。

だからこそ、大久保、苦しかったろうと思う。

泣いて馬謖を斬る

蜀の武将の馬謖が、街亭の戦いで諸葛亮の指示に背いて敗戦を招いた。この責任をとり馬謖は処刑されることになるが、愛弟子の馬謖の処刑に踏み切るにあたり諸葛亮は涙を流した。後に蔣琬から「馬謖ほどの有能な将を」と彼を惜しむ意見もあったが、諸葛亮は「軍律の遵守が最優先」と再び涙を流しながら答えたという。

【泣いて馬謖(ばしょく)を斬る】とはどういう意味? | Domani 「泣いて馬謖を斬る」とは私情を捨てて法を守ること。言葉の由来や例文をご紹介 (shogakukan.co.jp)

私情を捨てて規律を守ることの重要さを説く

「泣いて馬謖を斬る」とは、規律を守るためには私情を捨てなければならないことを教える言葉です。特にビジネスやスポーツの世界など、組織の規律や規則を重視する場面で使われます。

規律を守らない者に対して私情を挟み、許してしまうと組織の秩序を乱すことになりかねません。存続を危うくする可能性もあるでしょう。そのようなことがないよう、諌めるため使われます。

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で、元の記事・・・のコピー

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倒幕を果たして明治新政府の成立に大きく貢献した、大久保利通。新政府では中心人物として一大改革に尽力し、日本近代化の礎を築いた。
しかし、その実績とは裏腹に、大久保はすこぶる不人気な人物でもある。「他人を支配する独裁者」「冷酷なリアリスト」「融通の利かない権力者」……。こんなイメージすら持たれているようだ。薩摩藩で幼少期をともにした同志の西郷隆盛が、死後も国民から英雄として慕われ続けたのとは対照的である。
大久保利通はどんな人物だったのか。実像を探る連載(毎週日曜日に配信予定)第52回は、大久保と西郷が激突した「西南戦争」勃発のきっかけに迫ります。
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<51回までのあらすじ>

薩摩藩の郷中教育によって政治家として活躍する素地を形作った大久保利通。21歳のときに父が島流しになり、貧苦にあえいだが、処分が解かれると、急逝した薩摩藩主・島津斉彬の弟、久光に取り入り、重用されるようになる。

久光が朝廷の信用を得ることに成功すると、大久保は朝廷と手を組んで江戸幕府に改革を迫ったが、その前に立ちはだかった徳川慶喜の態度をきっかけに、倒幕の決意を固めていく。
薩長同盟を結ぶなど、武力による倒幕の準備を着々と進める大久保とその盟友の西郷隆盛に対し、慶喜は起死回生の一策「大政奉還」に打って出たが、トップリーダーとしての限界も露呈。意に反して薩摩藩と対峙することになり、戊辰戦争へと発展した。
その後、西郷は江戸城無血開城を実現。大久保は明治新政府の基礎固めに奔走し、版籍奉還、廃藩置県などの改革を断行した。そして大久保は「岩倉使節団」の一員として、人生初の欧米視察に出かけ、その豊かさに衝撃を受けて帰国する。
ところが、大久保が留守の間、政府は大きく変わっていた。帰国した大久保と西郷は朝鮮への使節派遣をめぐって対立し、西郷が下野。同じく下野した江藤新平は「佐賀の乱」の首謀者となった。大久保は現地に赴き、佐賀の乱を鎮圧する。大久保は「台湾出兵」でも粘り強い交渉の末、清から賠償金を得て、琉球も併合。そして「地租改正」などのさらなる大改革に乗り出していく。

実は鹿児島の士族を優遇していた大久保利通

日本史上、最後の内戦――それが、1877(明治10)年に勃発した西南戦争である。不平士族たちを率いた総大将は、西郷隆盛だ。

「明治六年の政変」によって西郷が鹿児島に帰郷して実に4年目の出来事となる。下野した西郷は「農業」と「教育」に注力。自ら畑仕事をしながら、陸軍将校たちと鹿児島に私学校を設立した。その私学校の生徒ら二十数名が、鹿児島の草牟田にある陸軍の火薬庫を襲撃。銃砲と弾薬を奪ったことが、西南戦争のきっかけとなった。

1874(明治7)年の「佐賀の乱」を始めに、1876(明治9)年の熊本県士族による「神風連の乱」、ついで同年、山口県士族による「萩の乱」と、士族の反乱が立て続けに起きている。

そして鹿児島県士族による「西南戦争」と、士族たちが次々に反旗を翻したのは、明治政府への不満が高まっていたからにほかならない。とりわけ、士族の神経を逆なでしたのが、士族の家禄を廃止したことと、廃刀令の実施である。

いずれも大久保が士族の特権に大ナタをふるった結果だったが、実のところ、鹿児島県だけが優遇されていた。

家禄制度(主君が家臣に与える俸禄)を廃止する代わりに、旧士族に政府は公債を発行。いわば「手切れ金」のようなものだが、公債化した家禄の利息が他府県では5~8%とされていたが、旧鹿児島県士族だけには、それ以上の利息が支給されていたのである。

自分と関係の深い者たちだけ優遇するなど、トップリーダーとしてあってはならない。そんなことは大久保が一番よくわかっていたはずだが、そうせざるをえないほど、鹿児島士族には気を遣っていたのである。

それだけに鹿児島で私学校の生徒らが暴挙に出たのは、大久保からすれば「十分考慮しているじゃないか」という怒りもあったことだろう。

鹿児島県で挙兵がなされたことを知ると、大久保は伊藤博文への手紙で、「もし、一戦を交えることになっても、向こうには何の大義名分もない」と書いている。さらにこんな趣旨のことを手紙では懸命に訴えた。

「天から見ても、のちの時代から見ても、また国外から見ても、その行いは言い訳のしようがない。不正を明らかに、正々堂々とその罪を挙げたうえで、鼓を打って討伐すれば、誰も文句を言うものはいないだろう」

なんだか必死である。人が雄弁になるとき、そこには後ろめたさや罪悪感がある。自分が生まれた育った故郷と一戦を交えることに対して「仕方がないことなんだ」と言い聞かせているように思える。

だからだろう。大久保はこんな過激な言葉も書き連ねて、余裕さをアピールしている。

「このような事態が生じたのは、まことに朝廷にとって不幸中の幸いで、ひそかに笑いを生じるくらいである」

西郷隆盛を最後まで信じていた大久保利通

この手紙を引き合いに出して、「盟友・西郷の決死の行動を冷笑する残酷な大久保」と決めつけられることがある。確かに、かつて大久保が自分の日記に「江藤の醜態は笑止である」と江藤新平をこき下ろしたときの筆致に似ている。

だが、大久保は当初、西郷が鹿児島士族の反乱に加わっているとは考えてなかった。それどころか、周囲にいくら忠告されても、信じなかったのである。内務省で大久保の側近だった千坂高雅は、こう証言している。

「大西郷を信じていたどころじゃない。いよいよ模様が危ないらしいのに、『西郷は大丈夫だ』と言っているので、すこぶる困ったものだ」

元薩摩藩士・高橋新吉も「人が何と言っても、あの男はそんな男じゃないと言って聞かなかった」と証言している。リアリストの大久保らしくない頑迷さだが、それだけ信じたくなかったのだろう。

「西郷はこの乱に加担するはずがない」という信頼のもと、西郷は伊藤への手紙でも「西郷は挙兵についてはまったく不同意」と断言。こんな見通しをつづった。

「ここで西郷が命を落とすことはあっても、仕方なく雷同して江藤や前原と同じ轍を踏むことはありえない」

西郷が命を賭して士族たちを止めようとすることはあっても、「佐賀の乱」を起こした江藤新平や、「萩の乱」で決起した前原一誠のように担ぎ出されることはない……それが、大久保の見立てだった。

それだけに、いよいよ西郷が乱に加わっていることが確定したときのショックは大きかった。大久保は「そうであったか」と漏らし、人前で滅多に見せない涙を見せたという。

私学生の暴発を聞いた西郷隆盛は「しまった」

では、信頼を裏切ったのは、西郷のほうだったのかといえば、そうともいえない。大久保の見立て通り、西郷は私学生たちの襲撃には賛成していない。暴発が起きたとき、西郷は大隅半島の最南端に位置する小根占で猟を楽しんでいた。知らせを聞いた西郷は「しまった」と口にしたという。

立て続けに士族の反乱が起きていることに対して、西郷が「愉快な報告」と喜んでいたことはすでに書いた(『近代税制の礎「地租改正」農民が泣いたエグい中身』参照)。「天下が驚くようなことを成し遂げる」と決意も語ったが、その真意は不明である。明治政府への反乱ともとれるし、他国への外征を考えていたともいわれている。

いずれにしても確かなのは、西郷はこのタイミングでの挙兵は考えていなかったということである。「自分がいれば、こんなことには……」と西郷は悔やんだことだろう。

だが、そんな西郷も不平士族たちのリーダーとして担ぎ上げられていく。西郷が結果的に西南戦争の総大将となったのは、ただの成り行きではない。

大久保が自分を亡きものにしようとしている――。決起したのは、そんな自身の「暗殺計画」を耳にしたからであった。

(第53回につづく)


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