それから時はたつ。
相変わらず、きのえは黒龍に背をもたせかけている。
柔らかな後れ毛が黒龍の目に映る。
かぐわしい少女の香にふと黒龍は瞳をとじてしまいそうである。
「あいかわらずだの」
ぬっと現われる白峰もいつもの来客を通り越し二人の友人のごとくである。
黒龍の胸にはぐくまれてゆくきのえへの情愛を見ぬふりをして、
きのえと黒龍の間に立ち入る隙を作ってきた白峰である。
「白峰。することがないかのようじゃの?」
黒龍の元へ来る、三度いや、二度に一度かもしれない。
兎に角、よく、顔を合わせる。
黒龍の唯一の友であるらしいと、考えるときのえも白峰をいやなめでみることもない。
「きのえ」
呼ばれてきのえは白峰をみなおす。
「なんじゃ?」
薄い笑いを下に隠しそっときのえの耳元で小さくたずねる。
「まだ、嫁にしてくれぬか?」
「うん」
頷いたきのえに安堵しながら、白峰はこそりとつぶやく。
「良い法があるのじゃがの」
あくまでも、きのえの味方を演じるが、
白峰はきのえが思い余って黒龍を説き落す法を知りたがる事をもくろんでいる。
「黒に聞かれては、法にならぬに、しりたければ、こそりとわしのところにこや」
「うーーん」
何度かきのえが一人で白峰の元にくるように、さそいをいれた。
だが、其の度にこの長い返事である。
きのえにすれば、法に縋って黒龍を振り向かせるは虚義でしかない。
だから、いつも、考え込む。
黒龍の嫁にしてやるという言葉を聴きたいはやまやまである。
どんなにそう、いわれたいか。
なれど、法ときくと黒龍の真意からではないと、いつもためらわれる。
かといって、ことわるといえぬところが、女心の妙である。
「まあ。よい・・・おまえのこころしだいだ」
きのえが誰をすこうがしらぬ存ぜぬだが
当の本人がどうしてもと沿いたい云うなら教えてやってもいいがと、
みかねた末の助言でしかないとあくまでも、興もないふり。
「う・・・ん」
黒龍がふりむかぬ限りきのえはいつかしびれをきらして、白峰の元を訪れる。
そこは白峰の聖域である。
何人たりとも、白峰の許しを得ずに入ることは叶わぬ場所である。
その場所にきのえをいりこませれば・・・。
白峰の心のままにふるまうことができる。
ゆくりとその時をまつだけである。
きのえをみそめて、三年。
もぎ取らねば惜しい色をなしはじめた少女の香が黒の意識をくるわさぬとも限らぬ。
(もはや・・・限界か)
白峰の欲情を抑えておくのも、
黒の目にきのえをふれさせておくことも・・・。
動かねばおけぬ、絶好の機会が廻ってこぬまま、時が満ち始め、
水時計から、艶やかな雫がしたたりおちそうである。
「困っておるんじゃ」
きのえがそっとうちあけはじめた。
黒龍は白峰の側ににじり寄り、なにおかはなしこむきのえをみていたが、
話にくわわらぬほうがよいらしいと、腕を枕に転寝を決め込んだ。
(せいぜい、ふかいりせぬことと避けるが良い)
白峰は黒への一瞥で黒龍の思いを読み取ると黒の底の決めにほくそえんだ。
「なにに困っておる?」
「う・・・ん」
いくばくか言い渋るのは言うてもせんないと思わす黒龍の拒絶のせいである。
いくら、黒龍にいうても、きのえを嫁にしてやるとはいわぬ。
それだけならいつものことである。
藤太の所へ行けもいつものことである。
だが、
「ばっさまがいうておるうちはよかったに」
「どうしたという?」
「父さままでが、とうとう・・・」
藤太の所へとつげといいだした。
これを黒龍に言えばいっそう、
「それみたことか」
と、ばかりに黒龍もくちずっぱくきのえを拒絶するだけなら、まだしも、
「もう。ここにきてはいけない」
とまで、いわれそうである。
黒龍に相談してみても、らちがあかぬを通り越し、
きのえの恋の窮地を招く役にしかたたない。
「あんばかたれが・・・」
黒龍をなじるきのえの瞳から涙が落ちてくる。
『ばかたれだな』
確かに黒龍はきのえのいうとおり、ばかたれだ。
欲して止めさせぬ女子への情に目を瞑るおおばかたれだ。
薄桃色の少女の心を柔らかな肌ごと包む至福に惑わされぬはおおばかたれだ。
思うてみるだけで、喉は飢えにひりつく痛みを知らせ、
この場で少女を抱きよせてしまいたい誘惑に抗うがどんなにくるしいことか。
だが、黒の馬鹿さ加減できのえは黒のものにならずにすんでいる。
このうえもなき、おおばかたれである。
「きのえ。藤太のところへいくはいやか?」
何度も言ってきた事である。
だが、何度言っておっても、心底の思いはきのえをすなおにうなづかせた。
「いやじゃ」
「そうか。ならば、行かぬですます法があるが、どうする?」
白峰の問いにきのえは今度はうなづいた。
「おしえてくるるか?」
「ああ・・だが」
白峰はちらりと黒龍をぬすみみた。
『黒龍にしられてはいけない』
白峰がそういったと思ったのはまた。きのえも同じ事を思ったからである。
父勝源のいいつけにそむいてまで、運命をかえてまで、
黒龍の側に居ようとしたと知られたら、やはり、黒龍はもう来るなというだろう。
くるなといっているうちはいい。
きっと、黒龍がもうここにいなくなる。
自分の勝手で父にまで逆らうきのえとなれば、
それを黒龍は自分のせいだと考え、自分さえいなくなればと、
ここから、きのえの前から姿を消す。
「明日。おまえがとこにゆく」
そこでこっそり、嫁に行かぬですむ法を教えてくれときのえは自ら白峰に懇願した。
「わかった」
きのえがことは神の嫁女にする。
こうすれば、たしかにきのえはもう、藤太のところへいかずにすむ。
だが、きのえを藤太の所に行かぬで済ます法を敷けるのは、白峰ばかりでない。
けして、きのえを騙すわけでない。
きのえにいわれたとおり、藤太の所へ嫁に行かぬ法を教えるにすぎない。
それが黒龍でも出来ると言う事を伏せ、
白峰の其の体と心できのえを藤太の所に嫁に行かずにすまさせる。
『どのみち・・・』
白峰は胸のうちできのえにつぶやいた。
『おまえが黒を諦めて、藤太のところにいくというたら、宣託するばかりだったわ』
―その娘。白峰大神が所望する、差し出せー
そして、苦悩する黒龍との争いが始まる事だろう。
人としていかせしめたいきのえを何故神格のおまえがてにかけたいか?
この黒龍が諦めてねじ伏せて見ないようにしたきのえへの恋はなんだった?
ただ、ただ、きのえを人としていかせしめたいためだけでないか?
こんなことなら、いっそ。
白峰は黒龍をもう一度見詰めなおした。
腕を枕に転寝の黒は白峰を疑う事もせず、軽い寝息を立てる。
白峰を信じている黒の姿を目に焼き付けると
『これが最後だ』
と、おもった。
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