<2004年3月に書いた以下の記事を復刻します。>
1) 以前(調べてみたら、1993年だった)、NHKテレビの大河ドラマ「琉球の風」(原作は陳舜臣さん)を見た時に、私は強烈な衝撃を受けたことを覚えている。 もとより私は、沖縄(琉球)の歴史については素人であり、知っていないことが多い。
しかし、かつてそこに「琉球王国」があったことぐらいは知っていた。 その「琉球王国」が17世紀初頭(江戸時代初期)、薩摩藩の軍勢によって無惨にも征服されていく過程が、ドラマに実に印象的に描かれていたのである。 要するに、琉球は日本人(和人)によって侵略され制圧されたのだ。
私は個人的に、仕事や観光で何度も沖縄に行ったことがある。何度行ったか覚えていないくらいだ。 沖縄にいると「ここは日本なのだろうか?」と、よく思ってしまう。特に石垣島など八重山列島に行くと、気候も風土も何もかも、本土とはまるで異なるのだ。 日本にも、こんな所があるのだと実感する。
言葉の違いも著しい。 現地の人が琉球語(琉球方言)を話すのを聞いていると、何がなんだかさっぱり分からない。本土でも東北弁など分かりにくい方言は多いが、琉球語に比べればまだ理解しやすいだろう。
沖縄の人はよく、自分達のことを「ウチナンチュウ」と言い、日本本土の人を「ヤマトンチュウ」と呼ぶ。 同じ日本国民でありながら、そこには微妙な心理が働いているようだ。かつて琉球が、日本人によって征服されたという屈折した思いが潜んでいるのだろうか。 それとも、単なる識別の意味なのだろうか。
2) 1972年の「沖縄返還・祖国復帰」の時にも、現地にはごく少数とはいえ、「沖縄独立」を求める人達がいた。 最近、インターネットで調べてみると、今でも沖縄独立を唱える人がいることを知り、やや意外な感を覚える。
しかし、沖縄の歴史を知り、あの「琉球の風」というドラマを思い起こす時、沖縄独立という想いを“妄想”と決め付けるのは、ヤマトンチュウの驕り(おごり)ではないのか。 もとより、沖縄独立を本気で願う人は極めて少ないと思うが。
民族学的に、沖縄の人達を“琉球人”と呼べるのかどうかは分からない。 しかし、先程も述べたように、沖縄の言語(琉球語)を始め民俗、風習などは独特のものがある。要するに、文化と伝統が本土とは異なるのだ。その点を忘れてはならない。
沖縄の話しが続いてしまったが、日本には北海道を中心に“アイヌ人”がいる。彼らも文化と伝統においては、日本人と大きく異なる。 かつて、中曽根総理大臣が「日本は単一民族である」と誤って発言した時、アイヌの団体が激しく抗議して大問題になったことがある。 さらに言わせてもらえば、朝鮮人や中国人などで日本国籍を取得した人達(帰化人)も相当数いるのだ。日本は「多民族国家」なのである。
3) さて、民族主義の立場から国家というものを考えてみよう。なぜなら、国家はおおむね民族を原則として成り立っているからである。 琉球人(一つの民族として見た場合)やアイヌ人は、日本においては少数民族ということになる。他方、日本人は圧倒的な多数民族ということだ。
どの国家でも、少数民族の処遇は重要な課題である。民族紛争で揺れ動く国家は、世界中に枚挙にイトマがない。 幸いにして日本では今、この“民族紛争”というものがほとんどないに等しい。 しかし、紛争がないからといって、民族問題が解決されているとは限らない。
先程も触れたように、ごく少数とはいえ沖縄の独立を志向する人達がいる。また、アイヌや日本国籍を持つ朝鮮人らの人権問題等、考えるべき点が少なからずあるのではないか。 そこで、日本における民族問題を考えてみよう。日本には民族問題など存在しないと、思っている人が多いだろう。果たしてそうだろうか。ここからが、21世紀を見据えた私の“勝手な”推測となる。
『民族自決』という権利は、今や普遍的な原理となっている。しかし、この原則がスムーズに生かされないため、多くの国で民族紛争が起きているのだ。 仮に将来、“琉球人”が民族自決にのっとって独立を求めたらどうなるのか(沖縄県民の直接投票など)。
そんなことは予想も出来ないと思う人が多いだろうが、私は真剣に考えたい。なぜなら、私は民族主義者(自称・左翼的民族主義者)だからである。 もちろん現時点では、沖縄独立を本気で考える人は極めて少ない。しかし、夢想や妄想と思われるものが、50年後、60年後に現実になることは幾らでもあることだ。
もとより私は日本人として、『琉球共和国』や『アイヌ自治国』などを望んでいるわけではない。 琉球人やアイヌ人の日本人への同化は進んでいると思うし、経済的、政治的、社会的な諸条件から、彼らのほとんどは「日本国民」であることに納得していると考えたい。
しかし、民族の夢・ロマンというものは、その民族でなければ分からないものである。 仮に将来、彼らが『共和国』や『自治国』といったものを望んだ場合、日本人としてはそれを承認するかしないか、決断を迫られるだろう。なぜなら、民族自決の原理は普遍的で、侵してはならないものだからだ。
どうやら私は、民族の夢やロマンに傾倒し過ぎているのかもしれない。しかし、あのドラマ「琉球の風」を思い起こす時、平和な“海洋国家”で豊かであったろう「琉球王国」のイメージが、はっきりと脳裏に浮かぶのである。
民族の栄枯盛衰は歴史の必然である。 日本人(和人)による征服や制圧によって、琉球人やアイヌ人は「日本国民」になった。それが善かろうと悪かろうと、歴史的必然だったのだ。 ただし、われわれ日本人は、“民族の心”が不変であることを決して忘れてはならないと思う。(2004年3月11日)