⑪ 松永安左エ門翁曰く「官僚は人間のクズだ!」。 カネ、カネ、カネの中国社会。 「検察審査会」のデタラメは許さない! 検察審査会のオソマツ。 アジア大経済圏構想。 パーキンソンの法則と役人。 マルキストなら感動する場面 。
松永安左エ門翁曰く「官僚は人間のクズだ!」
タイトルの「官僚は人間のクズだ!」というのは、私が言っているのではない。しかし、内心そう思っているかもしれないが(笑)。
この言葉を吐いたのは(年配の方なら知っていると思うが)、かつて日本の『電力王』 『電力の鬼』と言われた松永安左エ門翁である。先日、ある記事を書いた時に松永翁を紹介したことがあるが、よくぞ言ってくれたと今さらながら思うのである。
今の日本は「政財官」の癒着がよく問題視されるが、これは事実上、官僚が国政を牛耳っているということだろう。だから2年前、民主党政権が出来た時は「脱官僚・政治主導」という言葉が盛んに使われた。ところが、その後、民主党政権はほとんどの面で官僚に牛耳られてきた感じがする。これには異論もあるだろうが、私はそう思っている。脱官僚どころではない。官僚支配がますます強まってきた感じがするのだ。
ここで、TPPや消費税、普天間問題などを詳しく論じるつもりはない。要は「官僚支配」がどういうものなのか、松永安左エ門の例を挙げながら説明していきたいのだ。私は松永翁が大好きだから、お許し願いたい。
松永安左エ門は1875年(明治8年)に長崎県の壱岐で生まれたが、福沢諭吉の「学問のすすめ」に感激し慶応義塾に入ったという。あまり詳しく述べる時間がないので要約するが、その後、彼は日本銀行などを経て1909年(明治42年)に、福岡の市電を運営する会社の設立に参加した。そこから、彼の実業家としてのスタートが切られたのだろう。
市電とは“路面電車”であり、電力がなければ動かない。それもあってか松永は翌年、九州電気会社を設立する。そこから、彼の“電力人生”が始まるのだ。エネルギーは国家の基本である。松永はその後、ガス会社の経営にも乗り出す。
やがて彼は、ある大手電力会社の社長に就任し実力を振るっていくが、日本は次第に軍国主義の道を歩みだす。1931年(昭和6年)の満州事変がその好例だろう。軍部が国内最大の勢力となり、日本は中国との戦争に突入していった。日中戦争である。
このため軍部は、戦時体制では電力(エネルギー)の国家管理が絶対に必要だと主張するようになった。そこで「電力国家統制法案」というのが出てくるのだが、松永はこの法案に断固として反対した。彼はまた、戦争に訴えなくても日本は生き延びる道があると考えていたのだ。
ところが、当時の内務省や逓信省の官僚たちはひたすら軍部に迎合し、電力の国家管理に邁進する。むろん、中には国粋主義者もいたのだろうが、軍部に阿(おもね)りへつらう官僚を見て、松永の怒りは爆発した。「官僚は人間のクズだ!」と叫んだのである。
松永翁はもともと官僚が嫌いだったが、時の権力(軍部)に追従するだけの官僚が許せなかったのだろう。ところが、官僚をクズと呼んだことが大問題になる。いやしくも、天皇の勅命を頂いている者への最大の侮辱だというので、官僚や軍部はもとより激しい非難が松永に浴びせられる。ついに、彼は新聞に謝罪広告を出さざるを得なかった(1937年・昭和12年)。これを機に、松永は軍部から“危険人物”としてマークされ、やがて引退に追い込まれた。
時に松永翁は67歳だったから、昔ならこれで人生は終わりである。彼は茶道三昧の日々を送らざるを得なかった(小田原三茶人の一人だという)。
ところが、日本が太平洋戦争に敗北すると、再び松永翁の出番が回ってくる。詳しい話は省くが、彼は国家管理の電力会社の民営化に踏み切り、現在の9電力体制の礎を築いた。
長くなるのでもうすぐ止めるが、松永翁は徹底した現場主義者で、電力などの作業現場では第一線で働く人たちと粗末な小屋に泊り込んだり、ドラム缶の風呂に入るなど苦労を共にしたという。その辺が、高級官僚らの現場視察とは全く違っていた。
また、1963年(昭和38年)に復活した生存者叙勲の際の話は有名で、最初の勲一等瑞宝章には松永翁しかいないと誰もが認めた。そこで、当時の池田勇人首相が松永翁に会ってその旨を伝えると、彼は「人間の値打ちを人間が決めるとは何ごとか!」と怒鳴って帰ってしまったという。
困った池田は、ある著名な実業家Nに松永の説得を依頼した。Nは松永に対し「あなたが叙勲を受け入れなければ叙勲制度の発足が遅れ、勲章を貰いたい人たちに迷惑がかかる。あなたは死ねば嫌でも勲章を贈られることになる。それなら、生きているうちに貰った方が人助けになるではないか」と説得したので、松永翁はしぶしぶ受け入れたという。しかし、彼は抗議の意思を示すため、叙勲式典を欠席した。叙勲などの栄典がよほど嫌いだったのだろう。この後、松永翁は死後も含め一切の栄典を拒絶した。
こういう話を聞くと、私は松永翁がますます好きになる。『電力王』だった彼がもし今生きていたら、原子力発電について何と言うだろうか。福島原発事故をどう見るだろうか。発送電分離についてどう思うだろうか。
日本の電力体制を水主火従(水力発電を重視、火力を従とする)から火主水従(火力発電を重視、水力を従とする)に切り替え、新時代を築いた松永翁なら、きっと原発から離れ自然エネルギーの開発に踏み切るのではないか。
それは分からないが、絶えず新しい時代を切り開いてきた松永翁に対し、あの世へ行ったら必ず“取材”したいと思っている。今日は松永翁礼讃の記事になってしまったが、最後に一言云っておきたい。
日本の官僚は、松永翁や小沢一郎、橋下徹のような人物が大嫌いなのである。 (2011年11月11日)
松永安左エ門翁の墓(埼玉・新座市の平林寺)
参考記事
松永安左エ門・・・http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B0%B8%E5%AE%89%E5%B7%A6%E3%82%A8%E9%96%80
東邦電力・・・http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E9%82%A6%E9%9B%BB%E5%8A%9B
日本発送電・・・http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%99%BA%E9%80%81%E9%9B%BB
カネ、カネ、カネの中国社会
4日前の朝日新聞(10月30日付)に、中国社会について興味深い記事が載っていたので、ぜひ紹介したいと思う。まだ読んでいない人にとってはきっと参考になるだろう。
中国は一言で云えば「金まみれ」の社会である。まず驚いたのが、「教師の職もカネ次第」というタイトルの中身だった。これは中国東北地方に住む30代の高校教師Aの話だが、数年前に教師採用の責任者になった。そして数人の男女を面接したら、ある男性から「絶対採用してほしい」との連絡があったので飲食店で会うと、1万元(約12万円)や高級酒、高級タバコの入った封筒を渡されたという。これは教師の初任給の4~5カ月分に当たるそうだ。
また、他の女性は「お望みなら何でもします」と言ってきたので、彼女とは“一夜”を共にし、5千元(約6万円)を受け取った。他の受験者の方が優秀だったが、Aはこの2人の採用を決めたという。以上の話を聞いただけでも唖然とするが、全てがそんな感じなのだ。
スペースの関係で、朝日新聞の記事を要約する形になるがお許し願いたい。Aはかつて日本に留学した後、希望に燃えて帰国した。きっと、青雲の志があったのだろう。そして、臨んだ教師採用試験は手応えがあったのだが、大学の友人から「5万元(約60万円)で話をつけてあげる」と言われたという。それを断ると、採用通知は来なかった。
以後、Aはようやく教師の職に就いたが、教育現場も全て「カネ次第」ということを知る。そのうち自分も金まみれになり、教え子が大学進学目前になると、父母から次々に高額の金品を貰うようになる。その子たちには丁寧に教えるが、他の生徒は放ったらかしにした。さすがに良心がとがめたが、教員の友人に相談したら、「みんなやっている。やっと(君も)大人になったね」と諭されたというのだ。
こういう話を聞いただけでも、中国の教育現場がいかに腐敗堕落しているかが分かる。これに比べれば、まだ日本の方がマシかと思えるほどだ。こういう「金まみれ」の体質は中国社会の隅々に行き渡っており、「全てはカネとコネ次第」というムードが社会全体を覆っているそうだ。
さすがに中国共産党も危機感を強め取り締まりに乗り出しているが、どこまで効果を挙げられるだろうか。こういう話を聞くと、中国ほど「資本主義」の体質を持っている国は他にないと思う。カネが全ての「拝金主義」社会なのだ。
他にもいろいろ記事があったが、要約して紹介しよう。 数カ月前だったか、汚職まみれの副市長2人が死刑になったという報道があったが、そのうちの1人が杭州市の元副市長Bだ。Bは恵まれない家庭に育ったものの短大を卒業した。その後、中学教師になったが、25歳である“公職”に抜擢された。初めは真面目な役人だったのだろうが、やがて昇進するにつれて「金まみれ」の社会に感化されていく。
「自分と大して能力が変わらない人たちがどんどん豊かになるなんて、不公平だ」と思ったという。そして、役人の権限を最大限活用し、土地開発の利権に手を染めるようになった。また、他の幹部とも人事や利権で密接に絡み合い、かばい合うようになった。そして、さらに地位が上がるにつれ汚職の規模が膨らみ、1995年からの15年間で、2億元(約24億円)もの賄賂を受け取ったという。
日本とは貨幣価値や物価が違うと思うから、24億円とは物凄い賄賂だ! Bは死刑になる前に「初心を忘れ、カネに勝る物はないと思うようになった」と話したという。中国では特に、昔から「袖の下」つまり賄賂の歴史が名高い。小説や物語でよく聞く話だ。今の中国もそうだという噂は聞いていたが、これほどまでに腐敗堕落した役人も珍しい。いったん金まみれになると、とどまる所を知らなくなるのか。
最後に、報道する記者たちも腐敗の例外ではないそうだ。ある記者は地方都市で起きた立ち退き問題の取材を始めたが、これを嗅ぎつけた地元当局者が「記事は書かないで」と説得、第三者を通じて“口止め料”を渡してきたため、この記者は取材を止めたという。
こういう例はいくらでもあるそうで、逆に「記者」に成りすまし当局から多額の金をせしめた男たちもいるそうだ。中国では記者会見に来た記者に、紅包(ホンパオ)というご祝儀を配ることが多く、記者側も受け取るのに抵抗感は少ないという。こうなると、ろくな記事しか書けないのは目に見えているだろう。
とにかく、中国全体が「カネ、カネ、カネ」の社会なのだ。いくら改革開放路線が成功したとはいえ、これではどんな社会、どんな国になっていくか見当もつかない。中国共産党も腐敗防止に躍起になっている。しかし、もともと賄賂体質の国だ。中国は恐るべき“資本主義”国家になっていくのだろうか・・・
以上、朝日新聞の記事を要約する形で紹介させてもらった。(2011年11月3日)
「検察審査会」のデタラメは許さない!
小沢一郎氏を強制起訴した「検察審査会」という制度がどんなものなのか、皆さんはご存知だろうか。いや、失礼。私よりはるかに知っている方も大勢いるかもしれない。なにせ、私は司法や裁判が大嫌いだから、よほどの事がない限り調べようとはしない。
だから、無知を承知の上で述べるが、私から見ればこの「検察審査会」というのは、民主主義社会で最悪の制度だと断言する。もちろん、検察を監視したりする制度は必要だろう。それは民主主義社会だからだ(笑)。
しかし、民主主義に名を借りて、やれ「国民」の代表だとか「市民」の代表などと、言える資格があるだろうか。検察審査会は全国に165も置かれているそうだが、それぞれ11人のメンバーから成る。一般の国民から無作為にクジで選ばれるから、もちろん日当や旅費、宿泊費も支給される。これは当然だ。
問題は、国民や市民の代表と言われながら、氏名も何も公表されないのだ。完全に匿名であり責任を問われない。また、審査の議事内容も秘密である。これでは、全く“闇の中”ではないか。暗黒裁判と同じだ!
いかに民主主義社会とはいえ、こんな無責任な制度があるだろうか。それに比べれば、ソクラテスを処刑した古代アテネの法廷や、反革命分子を次々に処刑した大革命時代のフランスの「革命裁判所」の方が、はるかに公明正大だったと言える。なぜなら、起訴する人も裁く人もはっきり分かるからだ。
いわゆる「人民裁判」が悪いと言っているのではない。人民裁判でも起訴する人などの名前が分かっていれば、まだ公明正大である。ところが、検察審査会は全く闇の中、暗黒のうちに人々を起訴していくのだ。こんな馬鹿げた制度があるだろうか。 私と同じように、法律も訴訟もほとんど知らない“シロウト”が他人の運命を決めていくのだ。だから、これまで「冤罪(えんざい)」を数多く引き起こしてきた。冤罪の温床になる検察審査会など、百害あって一利なしだ! 直ちに廃止するか、制度を改めてもらいたい。私は腹の中が煮えくり返るようだ。
今日はここまでにしておくが、検察審査会がとんでもない冤罪を引き起こした「甲山(かぶとやま)事件」について、ある方の記事を参考に紹介しておく。(2011年10月8日)
<甲山事件>
これまで検察審は、取り返しのつかない「冤罪」をいくつも引き起こしてきた。
たとえば、1974年に兵庫県の児童施設で園児2人が死亡した「甲山事件」だ。兵庫県警は施設の女性保育士を逮捕したが、神戸地検は嫌疑不十分で「不起訴」とした。強制起訴がない旧制度下の事件だったが「不起訴不当」と議決したため、神戸地検が78年、殺人罪で「起訴」した事件だ。
「甲山事件は典型的な冤罪事件でした。検察がどんなに調べても証拠はなかった。シロウト集団の検察審が『不起訴はおかしい』と議決したので、神戸地検は女性保育士を再逮捕し、無理やり起訴してしまった。そのために、最終的に無罪が確定したのは、事件発生から25年後のこと。事件当時22歳だった保育士はこの年には48歳になっていた。5回の裁判を通じて一度も判決は下されませんでした」(司法事情通)
検察審による「冤罪」は甲山事件だけじゃない。「岡山遊技場放火事件」など、冤罪につぐ冤罪の歴史だ。検察審の議決を受けて起訴された事件の「無罪率」は、なんと通常の6倍以上である。
<参考> 検察審査会・・・http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%9C%E5%AF%9F%E5%AF%A9%E6%9F%BB%E4%BC%9A#.E5.85.A8.E5.9B.BD.E6.A4.9C.E5.AF.9F.E5.AF.A9.E6.9F.BB.E5.8D.94.E4.BC.9A.E9.80.A3.E5.90.88.E4.BC.9A
検察審査会のオソマツ
検察審査会がいかに“闇の中”の制度かということは昨日述べたが、非常にデタラメでオソマツだということも言っておきたい。
検察審査員の名前は一切公表されないが、なぜか11人の平均年齢は発表されたりする。どうせ“闇の中”でやっているのだから、年齢なんて発表しなくても良いじゃないかと思うが、変な所で「公正さ」をアピールしたいらしい。余計なことをしなくても良いのに・・・馬鹿だね(笑)
その平均年齢が問題になったのが、1年前、小沢一郎を再び起訴相当と議決した「東京第5検察審査会」だった。第5審査会の事務局は昨年10月4日、審査員の平均年齢が「30,9歳」と発表した。ところが、この年齢は裁判員制度の裁判員に比べると異常に若い。これはおかしいじゃないかという騒ぎになった。
すると、事務局は12日に「33,91歳」と訂正して発表、さらに翌13日には「34,55歳」に再訂正した。疑問を抱いたあるフリージャーナリストが第5審査会の事務局に問い詰めたら、いろいろなミスがあって“計算間違い”をしたということだった。それ自体がオソマツだが・・・
それはともかく、審査員11人の平均年齢は「34,27歳」が正しいということが分かった。ところが、この34,27歳というのは、1回目の審査員の平均年齢と完全に一致したのだ! これでは、2回目も同じメンバーで議決したのか!?
どういうことかと言うと、検察審査員というのは6カ月ごとに半数のメンバー(5~6人)を入れ替えねばならない。これは法律で決まっている。4月の1回目の審査会で小沢を起訴相当と議決し、5月に『6人のメンバーが交代』(?)して10月に2回目の審査会が開かれたのだ。
だから、平均年齢は違っているはずなのに、34,27歳でピッタリ一致したのだ。これはメンバーを入れ替えなかったのか!? もしそうなら、法律違反だ! 6人のメンバーが替わっても平均年齢が一致するというのは、天文学的な確率でしか起こり得ない“超奇跡”だ。そんなことは普通100%あり得ない。推定有罪である。 どうせ年齢をごまかすなら、最初から45歳ぐらいにしておけば良かったのに・・・それなら疑われなかっただろう。(過去の審査員の平均年齢は、だいたい40代後半から50代前半なのだ。)
検察審査員はクジで無作為に選ばれることになっているが、第5審査会の事務局は法律に違反し、1回目も2回目も同じメンバーで取り仕切ったと思わざるを得ない。私が裁判官なら、そのように判断し職権乱用罪で「有罪判決」を下す。裁判官でないのが残念だ(笑)
とにかく、検察審査会というのは“闇の中”で、何も信用できない。今日はここまでにしておくが、参考記事を末尾にリンクしておく。興味のある方はぜひ読んでいただきたい。(2011年10月9日)
検察審査会のナゾ・・・http://blogs.yahoo.co.jp/yajimatakehiro2007/37773367.html
一市民が斬る!!・・・http://civilopinions.main.jp/2010/10/1015.html
アジア大経済圏構想
今日の新聞に、ASEAN・東南アジア諸国連合(以下、アセアンと表する)の首脳会議が17日、アセアンに日中韓など最大6カ国が加わる「広域自由貿易圏」づくりを進めることで合意したとの記事が出ていた。日本政府はこれに積極的に参加する意向のようだが、私も大賛成である。
21世紀は“アジアの時代”と言われるが、例のTPP(環太平洋経済連携協定)もアジアの成長を取り込もうという狙いがある。TPPの是非は別として、日本がその交渉に参加する構えを見せたことから、アセアン各国が刺激を受けたとすればかえって結構なことである。
アセアン10カ国に日中韓、インドなど6カ国が参加すれば、そのGDPの総計は全世界の27%を占める“巨大経済圏”となる。まだこれからのことだから、具体的には何も言えないが、少なくとも2010年代半ばまでには実現化の方向が見えてくるだろう。
経済に素人の私がとやかく言える立場にないが、ここで鳩山元首相が提唱していた「東アジア共同体」の構想を思い出した。鳩山氏はたしか、この地域の安全保障の他に、地域的な通貨統合、つまり「アジア共通通貨」の実現を目指すべきだと主張していたと記憶する。
ただし、これはあくまでも経済の話であり、「東アジア共同体」構想にはもっと政治的な安全保障の意味合いがあったはずで、私はそちらの方に関心を持ってしまうのだ。
いずれにしても、アジア大経済圏構想はまだ“大風呂敷”の段階である。各国の思惑が交錯するほか、中国やアメリカなどのアプローチも気になる。しかし、悪いことではない。EU・欧州連合は今やユーロ問題で大変だが、広域自由貿易圏自体が間違っていたわけではない。それ以上に、昔はしょっちゅう戦争を繰り返していたヨーロッパ諸国が、今や戦争を起こさずにやっていく時代になったのだ。
そう考えると、アジア大経済圏構想は、平和と安全保障の問題に深く関わってくる。各国間の平和条約などは別にして、この地域の平和と安全を確保しながら経済的繁栄を目指そうというものだ。
古い話を思い出したが、日本は戦前、この地域に「大東亜共栄圏」を樹立しようとして失敗した歴史がある。なぜ失敗したのか。理由は簡単だ。この地域の大半が欧米の“植民地”であったから、アメリカ、イギリス、オランダなどと戦争に突入、結果として敗北したのだ。
しかし、今は全く違う。それぞれが独立した国家となり、欧米の植民地から解放されているのだ。大いに経済協力や友好関係を進めていくべきだ。
戦前の話を思い出して失礼したが、今や日本はアジア諸国から期待されているのだ。日本は平和国家だしもう軍事侵略などはしない。 今回のTPP騒動で、アジア諸国は、日本をアメリカに奪われてしまうのではと焦っているらしい。日本はそれだけ“モテモテ”の国なのだ。
国内では色々な問題を抱えているが、日本人はもっと自信を持とう。 21世紀は“アジアの時代”であり、日本はアジア諸国から大いに期待されていることを自覚すべきだ。最後は珍しく景気の良い話になってしまった(笑)。(2011年11月18日)
パーキンソンの法則と役人
学生時代に「パーキンソンの法則」というのを教わったことがあるが、最近、官僚制度について考えているうちにこれを思い出し、実に正しいものだと思うようになった。
この法則(主張)は、イギリスの経済学者シリル・パーキンソンが1957年に発表したものだが、要約して言うと「役人は常に部下の増加を望むが、競争相手を持つことは望まない」 「役人は相互の利益のために仕事を作り出す」というものだ。私はこの言葉を聞いて、日本の官僚制度も正にそうではないかと思った。
パーキンソンは第2次大戦後のイギリス社会を研究したのだが、多くの植民地を失った大英帝国なのに、「植民地省」の役人の数は逆に増えたことに気が付いたという。アジアなどで多くの植民地を失えば、植民地省の仕事は減るのが当然である。ところが、役人の数は逆に増えたのだ。これはどう考えてもおかしい。その辺から彼はいろいろ調べ研究したのだろうが、上記のような法則に達したということだ。
今の日本でも、必要もない無駄な施設や○×法人などが次々にでき、役人がどんどん天下りしている。また、行政の縦割り組織という“縄張り”が強くなって、競合しないように複雑に絡み合っている。一つのテーマでも幾つもの省庁が絡んでくることがある。もちろん、省庁を横断するテーマはあって当然だが、問題の解決に非常に手間がかかる。
つまり、役所というのは“自己増殖”を続けていくのだ。放っておくと、癌細胞のようにどんどん広がっていく。その結果、国民の税金だけが湯水のように使われていくのだ。
これではいけないと、おととし誕生した民主党政権は「脱官僚・政治主導」の旗のもと、事業仕分けなどを行なった。しかし、どのくらい上手く行っているだろうか。あれは“パフォーマンス”に過ぎなかったのではとか、結局、官僚の手玉に取られて不発に終わったのではといった批判が出ている。
それはともかく、パーキンソンが言うように、役人というのは必要もない仕事をどんどん作っていくのだ。放っておくと無駄な仕事や人数だけが増えていく。
こういうのを「必要悪」と呼ぶのだろうか。いや、必要悪というのは、悪ではあるがやむを得ず必要なものを言うのだろう。必要でもない無駄なものは、それこそ「不必要悪」ではないか。
どうも理屈っぽい話になったが、国家や政治そのものを必要悪と呼ぶ人がいる。それは思想的、政治的立場の違いで異なってくるが、国家がある限り、役人(官僚)は必要である。役人がいなければ、国家機能は果たせないからだ。
だから、国家が“必要悪”なら役人もそうだ。しかし、不必要な悪は排除しなければならない。放っておくと増殖するだけである。癌細胞のように広がっていくのだ。
原子力発電所も今や、必要悪から「不必要悪」に転化したのではないか。あの高速増殖炉「もんじゅ」などは1兆円以上も金をかけて何の役にも立っていない。事故ばかり起こしている。こんなものは直ちに廃炉にすべきだが、文部科学省などの役人が絡んでいるから、なかなかそうはいかない。役人の利益のためにあるようなものだ。しかも、維持費だけで年間200億円以上もかかるという。馬鹿馬鹿しいにもほどがある。
話が悪名高い「もんじゅ」に移ってしまって申し訳ない。要は、パーキンソンの法則が今の日本にも生きているということを言っておきたい。(2011年11月24日)
マルキストなら感動する場面
以前書いた記事をふと思い出した。それは有名な小説『氷点』(三浦綾子作)の映画についてだが、その中で日本舞踊の師匠(森光子役)である女性が、主人公の義父(船越英二役)に対し、自分の秘密を打ち明けるシーンがあった。
彼女は「実は子供を産んだことがあるのよ。すぐ死んだけど」と言って、相手の男性についてこう述べる。
「その人はマルキストでね。節を曲げずに戦時中、牢屋で死んだの。惜しい人だった。あんな男とはもうご対面できなくなっちゃった。でも、生き甲斐はあったわ」というものだ。
森光子がきっぷの良い爽やかな役柄を演じていたから、この告白は余計に素敵な印象を受けた。 義父が「ふ~む、ロマンチックな秘密ですね~」と語ると、彼女は「言わなかったのよ、大事にして。絶対 だれにも」と答えた。
私はこの場面を見て、かつて反戦・平和のために戦った共産党員だったら、きっと胸にジ~ンと応えただろうと思った。 「あんな男とはもうご対面できなくなっちゃった」というくだりは、あんな素晴らしい男とはという意味だろう。
彼女の愛人は獄中で死んだが、彼の思い出は踊りの師匠の心にずっと生き続けていたのだ。愛の冥利に尽きる。 私は感動して映画(DVD)のこの場面を何度も見直したから、セリフは一字一句間違いはない。こういう場合はDVDは便利だ。
戦場で殺し合いをして戦死するのも、徴兵令があったからやむを得ないが、反戦・平和のために獄中で死ぬのも意義があるのではないか。
私はマルキストではないし、作者の三浦綾子さんもクリスチャンだった。当時の共産党とは関係がなくても、ものを感じる人間には変わりがない。 (2012年2月2日)
<参考映像>
映画『氷点』の予告編・・・http://www.youtube.com/watch?v=w1HeuDJev6I
松永翁には詳しくありませんが、平林寺の墓にお参りしたことがあります。
気骨のある人ですね。「青春の歌」の翻訳は知りませんでしたが、こういう人が数少なくなったような気がします。
これからも気軽にお越しください。