<古い記事ですが、以下の文を復刻します。>
1) つい先日、逸見政孝君のことを思い出した。逸見君と言えばフジテレビの元アナウンサーで、その後フリーになってテレビで大活躍した人物である。覚えておられる方も多いだろう。その彼が48歳の若さで、胃癌で亡くなった時は驚いた。もう20年以上も昔の話である。
私もかつてフジテレビの社員だったから、逸見君のことはよく覚えている。一緒に仕事をしたこともある。そこで彼の思い出話などをしようということだが、彼が私の4年後輩だったから、逸見君とか逸見などと気安く言うことをお許し願いたい。
私が彼に出会ったのはたしか1971年頃である。逸見君がまだ駆け出しのアナウンサーの頃、当時「野党記者クラブ」担当だった私は、社会党本部で彼に出会った。私が取材をし逸見がレポートをする役割だったと思うが、彼の第一印象は、礼儀正しく明るい風貌だった。受け答えがハキハキしていて、好感を持ったのを覚えている。
その後、何度か出合っているうちに1979年頃、私が夕方の「ローカルニュース」を担当した時に、キャスターの逸見と一緒に仕事をすることになった。34歳ぐらいだった彼は若手キャスターとして頭角を現わし、コンビを組んだ田丸美寿々(みすず)君と共に人気を博していた。この逸見・田丸のコンビはとてもフレッシュで、今でも鮮やかな印象が残っている。
田丸君はその後、女性キャスターとして大成したが、私は担当デスクとしてやりがいがあり楽しかった。仕事が終わって同僚と一杯飲む時に、酒もタバコも全くやらない逸見が最後まで付き合っている。私が「早く帰ればいいじゃないか」と言うと、彼は「いや、一緒にいるのが楽しいんですよ」と答えていた。
そういう逸見君がますます好きになったが、彼は酒やタバコをやらないかわりに、ギャンブルは好きだったようだ。後輩のS君らが誘うと、局内の別の部屋に行ってよくトランプゲームを楽しんでいた。また、はっきり言わなかったが、女性遊びも好きだったようだ。
そんなある日、彼の最愛の弟さんが31歳の若さで胃癌で亡くなった。逸見はもの凄いショックだったと思うが、葬儀にも出ないで仕事を続けていく。キャスターとして企画の仕事がいろいろあったが、あの時は呆れてしまって「休めよ!」と叫びたくなった。しかし、彼は休まず働く。私は感心するよりも本当に呆れてしまった。
このように、逸見君が仕事熱心だったことは分かるが、相当に無理をしていたのだろう。人気が上がるにつれて、休日に結婚式の司会などアルバイトにも精を出していたようだ。このためか、胆石などで入院したこともあり、私も同僚と赤坂の前田外科病院に彼を見舞ったことがある。後日、逸見が胃癌の手術を受けた所だが、彼が弟さんと同じ病いで他界するとはまだ予想もしていなかっただろう。
2) 逸見君は親切だったが、けっこう好き嫌いの激しい人だった。同僚のアナウンサーに対してもそれがはっきりしている。コンビを組んでいた田丸美寿々には優しかったが、その後を継いだKに対しては無視したり、露骨に嫌な態度を取ったりした。そういうのは自然にテレビ画面に出てくるので、私は一度注意したことがあるが、彼はあまり気に留める様子でもなかった。
これは竹を割ったような正直な性格で、逸見は田丸に対しては一目も二目も置き、彼女の能力を高く評価していたと思う。田丸の方は逸見をどう思っていたか知らないが、彼が好感を持っていれば悪い気はしなかっただろう。良いコンビだったので、夜の飲み会ではみんなで2人をはやし立て、強引に接吻させたりしたものだ。
報道現場への執着、熱意も2人はとても強かった。現場の取材や突撃インタビューなど目覚しいものがあったと思う。その結果、田丸などはよく相手を怒らせたり、みずから失言や放言をして物議を醸したが(笑)。 しかし、視聴者から見れば痛快だったと思う。2人はどんな取材でも、生き生きした印象を与えたのではないか。
逸見・田丸コンビのローカルニュースは楽しかったが、やがてそれぞれが自分の道を進んでいく。逸見はその後、夕方のメインニュースのキャスターを経て退社、フリーのアナウンサーになった。そんなある日、彼がフジテレビの何かの番組の司会をした後、偶然 エレベーターの所で出会ったことがある。
私が「君はいいな~。送り迎えともハイヤーなのか」と聞くと、逸見はにっこり笑って、「矢嶋さんも早くフリーになりなさいよ」と答えた。後は少し雑談をして別れたが、私は彼のように能力も度胸もないので、独立してやっていくのはとても無理だと分かっていた。“寄らば大樹の陰”でフジテレビにぶら下がっていくしかない(笑)。しかし、この時は逸見をうらやましいと思った。
逸見政孝君はフリーへの転進後、亡くなるまでの5年余りの間に驚くべき成功を収めた。これほど見事に花開いた“テレビマン”を私は見たことがない。『平成教育委員会』を始めとしてヒット番組は数多くあるが、それをいちいち挙げる必要はないだろう。当時、彼の右に出る司会者はいなっかたと思う。
ところが、病いは彼の肉体を蝕んでいった。1993年9月、逸見は自分が癌に侵されていることを告白、全ての仕事を休止して闘病生活に入ったが、その年の12月25日、ついに帰らぬ人となった。享年48歳。若すぎる死である。
いま思うと、全盛期の早すぎる死ではあったが、逸見は“太く短く”生きたのだと思う。今でも元気に存命していたら、テレビ界の「大御所的存在」になっていたに違いない。それほど人に愛され、慕われる存在だった。
つい先日、彼のことを思い出し一文を書くことになったが、今でも逸見君の明るく清々しい笑顔がそこにある感じがしてならない。(完)
二木様のブログで入魂のコメントを拝読しております。
昨日は「琵琶湖周航の歌」貴コメントに泣きました。
華やかなテレビ界で過ごされた由、即にも何篇かの小説ができそうですね。
このブログでの「曽野綾子女史」の章には甚く共感。
昨今の芥川賞、直木賞など安直で興味も持てず、従って殆ど知識もありません。お互い様というには余りにも寂しい。とは言え曽野綾子女史の小説は殆ど面白くなく読むたびに失望のりんごです。昨今といえ直木賞作品には時折興味をそそられ読んでおります。まとまりのないコメントをお許しください。
追記
逸見さんのエピソードも頬笑しく拝読いたしました。
二木さんのブログへのコメントはだいぶ前だったので、もう忘れていました。ご指摘を受け、もう一度読んだ次第です。
昨今の小説類は老眼もあって、ほとんど読んでいません。
こちらこそ まとまりがなく失礼しました。
ただし、その前にフジテレビを辞め、フリーに転身していたのです。