⑮ 「君が代」は国歌にふさわしくない。新国歌の制定を! なまっちょろい国・日本。 エリザベス・テイラー逝く。 若草物語。
「君が代」は国歌にふさわしくない。新国歌の制定を!
大阪府の橋下知事が、国歌斉唱などの際に起立しない教員は免職にすべきだと発言し物議を醸している。たしかに、公務員は国歌や国旗に敬意を払うべきだろう。
しかし、問題は国歌「君が代」にあると思う。「日の丸」は問題ないとしても、「君が代」が今の民主主義国家・日本にふさわしいものだろうか。私は全く違うと思う。
このことはずっと以前から言ってきたのだが、日本が戦前のように君主制の国なら「君が代」が国歌であって良い。しかし、日本は戦後「民が代」、つまり民主主義・国民主権の国家になったのだ。それならば、それにふさわしい国歌があって当然ではないか。
もちろん、大勢の日本国民が皇室を敬愛し、尊崇していることはよく分かる。私も皇室に敬愛の念を抱いている。天皇・皇后両陛下が大震災の被災地を慰問されるのを見ると、胸にジ~ンとくるものがある。多くの日本国民は皇室を敬愛しているのだ。
しかし、歌詞の内容から言って「君が代」は国歌にふさわしくない。それは先にも述べたが、「君が代」は皇室を敬愛し、尊崇する歌として残せば良い。きっと歌い継がれていくだろう。
したがって、私はこの際、国会に「新国歌制定委員会」(仮称)なるものを設置し、国民主権国家にふさわしい国歌を制定するよう訴えたい。日本の民主主義は国民の間に定着しているのだ。
「新国歌制定委員会」は首相や文科相が主宰するとしても、その下に立派な歌人、詩人、作曲家らが委員となり、国民から国歌を公募すれば良い。きっと大勢の人が応募するだろう。その中から、最もふさわしい作品を軸に、委員らが手を加え歌詞を練り上げれば良い。実は私だって、新国歌の歌詞草案を持っている。まだ出せないが・・・(笑)
それはともかく、一つだけ注文したいのは、新国歌は生き生きとした躍動感にあふれるものにして欲しい。「君が代」は荘重で厳かな雰囲気があるから、皇室を称え敬愛するにはふさわしい歌である。
しかし、新国歌は日本の明るい未来を目指し、希望に満ちたものにしてもらいたい。歌詞が決まれば、あとは作曲家の出番である。これも先ず曲を公募し、委員の作曲家らが手を加えていけば良いのではないか。
新国歌の制定は思いつきで言っているのではない。私はずっと以前からそれを訴えてきたのだが、保守的な論客の中にも、「君が代」は日本国憲法の基本原理に反すると言っている人もかなりいるのだ。
橋下知事の発言に触発されて、新国歌制定を提唱する次第である。日本は前向きに明るく進んでいこう!(2011年5月19日)
なまっちょろい国・日本
日本は恵まれた豊かな国だと思う。北朝鮮(以下、朝鮮と記す)旅行から帰国したら特にそう思った。しかし、何となく生(なま)っちょろい感じがしてならない。日本の民主主義社会は全体主義の朝鮮より良いと思う。しかし、自由はあるものの、どこかいい加減でルーズなのだ。
訪朝の間、日本の政治や行政のことをすっかり忘れていたが、大震災や原発事故の対応もノロノロ、モタモタしている。例えば日赤などに2500億円を超える義援金が届いているのに、まだ15%しか被災地に配られていないという。震災から3カ月も経つというのに、行政は何をやっているのだろうか。
民主主義社会は良いが、こんなことは朝鮮などでは考えられないことだ。もっと早く果断に被災地に届けられるだろう。原発事故の対応も、避難区域の設定など実にモタモタしていた。パニックを起こしてはいけないと、放射能汚染のデータを隠していた面がある。社会主義や全体主義の国なら、もっと早く対応していたはずだ。何もかも遅い。
民主党政権の動向も見ていると嫌になる。菅の退陣は決まったようだが、これもズルズル、ノロノロしている。8月一杯で退陣するそうだが、これもどうなるかまだ分からない。とにかく、やることがルーズで遅い。
だいたい「不信任案」が否決されたら、その内閣は続投するのが当然だ。ところが、指導力も人気もないから退陣するという。変な政治ではないか。不信任案を否決したのに退陣する。論理に合わない。もちろん、菅を支持しているわけではないが、これが議会制民主主義なのかと思ってしまう。どこかおかしい。
話は変わるが、過日、「生活保護世帯」で妻が夫を焼き殺す事件が起きた。家庭内暴力が絶えなかったという。そこで調べてみたら、約200万人が生活保護費を支給されているそうだ。その数はこれから更に増えるという。
本当に生活に困っている人は生活保護費を受けて当然だが、そうでもない人もいるようだ。これも問題ではないか。働こうとしないのだ。しかも、国民年金の給付額を上回る保護費を受けているという。これじゃ馬鹿馬鹿しくて、国民年金の負担なんか止めてしまいたくなる。皆が生活保護を受ければ良いのだ!
これもおかしいではないか。私は左翼的な人間だが、こうしたデタラメを認めるわけにはいかない。どこか狂っている。生っちょろい日本の現実だ。
「AKB48」が若者に人気があるそうだが、あれもおかしい。金のなさそうな若者が同じCDを何万円も何十万円も買っている。中には箱ごと買っている者もいた。そんなことは普通あり得ない。
AKB48のメンバーはそれぞれプロダクションに所属しているようだが、プロダクションが若者たちに金をばら撒き、CDを買わせて人気を煽っているのではないか。そう疑いたくなる。
AKBは可愛い子が多くし、青春時代に夢中になっておかしくはない。私も若い頃は、吉永小百合や栗原小巻に夢中になった。しかし、その想いは純粋だった。
ところが、最近のアイドルグループを見ていると、どうも仕組まれている感じがしてならない。テレビを利用し、またそれに利用されつつ組織的に売り込んでいる感じだ。純粋でも何でもない。
まあ、言いたいことは他にも色々あるが、金日成の国・朝鮮から帰国すると、日本は生っちょろい感じがしてならない。 (2011年6月10日)
エリザベス・テイラー逝く
(以下の記事は、2011年3月24日に書いたものです。)
ハリウッドの大女優エリザベス・テイラーさんが死去した。79歳。謹んで哀悼の意を捧げたい。
小学生の頃、彼女の映画を初めて観て、その美しさに茫然自失とした。アメリカにはこんなに美しい人がいるのかと思ったものだ。戦後、アメリカの栄光を象徴するかのような大女優であった。
以下の文は一昨年7月に書いたものだが、“永遠の美女”エリザベス・テイラーを偲んで原文のまま復刻しておきたい。リズよ、いろいろ楽しませていただきありがとう! ご冥福をお祈りします。(2011年3月24日)
<永遠の美女>エリザベス・テーラー
1) ユーチューブ(You Tube)を検索していたら、エリザベス・テーラーやマリリン・モンローらの映像が沢山あるのを発見した。嬉しくなっていろいろ見ていたら、つい最近だろうか、すっかり老けこんで車椅子に乗ったエリザベス(リズ)・テーラーの映像が出てきたので少しがっかりした。絶世の美女と言われたリズのこのような映像は見たくない! しかし、アメリカ人というのはオープンな性格なのだろうか(それも良いのだが)、77歳の年老いたリズでも平気で映すようだ。
日本だと例えば、原節子(今でも御健在のようだ)のような美人女優は、年を取れば決して人前には現われない。また、周囲も気を使って老醜を撮るようなことは控えるだろう。その点がアメリカと日本の文化やデリカシーの違いかもしれない。
それはともかく、若き日のエリザベス・テーラーの様々な映像を見ていると、私はどうしてもリズのことを書きたくなってきた。そうは言っても、実は3年ほど前に一度記事にしたことがあるので、一部を復刻しながら再度「エリザベス・テーラー」に“挑戦”しようと思う。末尾にリズの映像(最近の老醜の姿は除く)をたっぷりとリンクしておくが、とにかく彼女のことを書くと元気が出てくるのだ。
2) エリザベス・テーラーに“衝撃”を受けたのは、55年以上も昔の小学生時代だった。初めてリズの映画を見たのは小学5年の時だったと思うが、当時、静岡市に住んでいた私はある日、父に連れられて洋画館へ行った。 上映されていたのは『可愛い配当』という映画で、これは後で分かったのだが『花嫁の父』という映画の続編というものだった。
“可愛い配当”とは孫のことで、嫁いだ娘(エリザベスの役)が赤ちゃんを産んだので、祖父役のスペンサー・トレーシーが大喜びして可愛がるのだが、乳母車に乗せて散歩している間にある失敗をおかして孫を見失い、大騒ぎになるというドタバタ喜劇であった。
一緒に見ていた父は、私の姉のところに生まれた孫を思い出してか大笑いして映画を見ていたが、小学生の私はその時、エリザベス・テーラーの美しさに茫然自失としていた。 こんなに美しい人が世の中に存在するのかという思いだった。その美しさは表現の仕様もないほどだった。あえて言わせてもらえば、溢(こぼ)れんばかりの美しさだった。
彼女は当時19歳だったが、その頃が青春の最も美しい輝きを発していたのだろう。 私は父からエリザベス・テーラーの名前を初めて教わったのだが、その後、リズの映画を事あるごとに見るようになった。アメリカにはこんなに美しい人がいるのかと思うと、アメリカ自体がますます豊かで素晴らしい国であるかのように感じた。
当時は、第二次世界大戦でアメリカに完敗し連合国の占領下に置かれていた日本が、ようやく独立を回復したばかりの時期だけに、とにかくアメリカが強大で素晴らしく見えたのである。 従って、エリザベス・テーラーだけでなく、ジョン・ウェインやゲイリー・クーパーらハリウッドの大スターは皆輝いて見えた。
その後も、グレゴリー・ペックやバート・ランカスター、カーク・ダグラスといった俳優の他に、女優ではマリリン・モンロー、オードリー・ヘプバーン、グレース・ケリーらが銀幕に続々と登場し多くの日本人を魅了したのである。 フランスやイタリアの映画も人気を博したが、ハリウッドに代表されるアメリカ映画が圧倒的な影響を日本に与えたことは間違いない。
3) エリザベスの映画は『陽のあたる場所』『ジャイアンツ』『熱いトタン屋根の猫』などと続いていくが、彼女が31歳の時に出演した『クレオパトラ』は特に印象深い。すでに大スターになっていたが、クレオパトラの役柄は当時はリズ以外の女優では荷が重かったと思う。
丁度その頃、私は某テレビ局への就職が内定し職場で研修を受けていたが、ある日、『クレオパトラ』で彼女が身に着けていた衣装や首飾りがスタジオに展示されたため、同僚と共に見に行ってそれに触れたことを思い出す。その時、憧れの大女優に接したかのような“錯覚”を味わったのである。
しかし、その頃から(あるいは、それより少し前から)、エリザベスは太り気味になっていた。銀幕を通して見る彼女は明らかに豊満な体つきになり、20歳前後の頃の清楚なイメージは失われていったのである。どこか妖艶な雰囲気を漂わせるようになっていた。 同じ妖艶でも、その頃亡くなったマリリン・モンローとは趣が違うが、要するに“熟した”といった感じなのである。
果たせるかな、妖艶なエリザベスは次々に結婚と離婚を繰り返していく。すでに親友の夫と“略奪結婚”をしていたが、、『クレオパトラ』で共演したリチャード・バートンとも不倫の恋の末に結婚、そして離婚、またバートンと再婚して離婚、そして結婚、離婚、結婚、離婚・・・都合、8回の結婚と離婚を繰り返した(夫が不慮の死を遂げたのもある)。こういう人は滅多にいないだろう。
このため彼女は“スキャンダル”に彩られた人生を送ったことになる。リズを悪く言う人は大勢いる。やれ傲慢だ、名声に驕り高ぶっている、男を食い物にしている、鼻持ちならない等々・・・ しかし、絶世の美女というのは昔からそういうものだろう。美人だからいつも注目され、男から言い寄られる。さんざん誉められ、さんざん貶(けな)されるのだ。
どうやら、私はエリザベス・テーラーを弁護しているようだが、ギリシャの伝説に出てくる稀代の美女(傾国の美女)・ヘレネもそう描かれている。 ゲーテの『ファウスト』に登場する彼女は「さんざん誉められたり、貶されたりしたヘレネです」と挨拶するのだ。“現代のヘレネ”も多分そうなのだろう。
4) リズは気品面では、同じ美人女優のイングリッド・バーブマンに及ばなかった。また、妖艶さや色気ではマリリン・モンローに敵(かな)わなかったと思う。彼女は身長が162センチだから、外国の女優の中ではプロポーションが抜群というわけではない。 しかし、小学生時代にたとえようもない衝撃を受けた私としては、地球上でエリザベス・テーラーが最も美しい人に見えてしまったのだ。だから、リズの映像はDVDで子役の頃のものを含めて数多く持っている。
彼女の顔の美しさは抜群である。目も鼻も唇もなにもかも花のように輝いている。あまり具体的なことを記すとペダンチックと受け取られかねないが、リズの瞳は何か神秘的でさえある。彼女の虹彩(こうさい)が世にも珍しいバイオレット(すみれ色)だからだろうか、あの瞳に見つめられたら大抵の男はフラフラっときてしまうだろう。
若い頃、形容しがたいほどの美女だったエリザベス・テーラーも、今や車椅子に乗る老女と化した。長生きすればどんな美人も老醜をさらけ出すことになる。これは仕方のないことだ。人生の最終コーナーにきて、永遠の美女の自重自愛を祈るしかない。(2009年7月1日)
エリザベス・テーラーの各種映像
http://www.youtube.com/watch?v=qBonKdy7t4o(3分33秒)
http://www.youtube.com/watch?v=s0l6gfn54-E&feature=related(バイオレットの瞳・3分13秒)
http://www.youtube.com/watch?v=wVupzIUmcwo&feature=related(映画「陽のあたる場所」・3分38秒)
http://www.youtube.com/watch?v=L8ShhFMvbCM&feature=related(幼少時からの映像・7分34秒)
http://www.youtube.com/watch?v=0qIEoGrSY8M&feature=fvw(幼少時からの映像・9分16秒)
http://www.youtube.com/watch?v=IWiF3uF0B1Q&feature=related(5分30秒)
若草物語
この題名を聞くと、ほのぼのとした気持になる。昨日、大女優エリザベス・テイラーが死去した記事を書いたら、ある方が映画「若草物語」(1949年)を観たとのコメントを寄せてくれた。
そこで、家にあるエリザベス(リズ)出演のDVDの中から、久しぶりにこの映画を選んで観た。実に温かみのある内容で、ほのぼのとした気持になった。主演のジューン・アリソンが次女のジョーに扮していたが、リズは三女(?)のエイミーを演じる“脇役”である。わがままで気取った女の子の役でよく似合っていた。
後で妻に話したら、「エイミーは四女よ」と言う。えっ? 四女(?)のべスはマーガレット・オブライエンが演じているではないか。エイミーの方がべスより大柄だし、調べたらリズはマーガレット・オブライエンより5歳も年上なのだ。三女と四女を入れ替えたのだろうか。
しかし、原作ではエイミーが四女になっているという。どうでもいいことだが、私はオルコット原作の「若草物語」を読んだことがない。この小説や「赤毛のアン」などは、女の子向けだと思っていたから読んでいない。子供の頃、男の子は「トム・ソーヤー」とか「ハックルベリー・フィン」などの冒険小説を読んだもので、少女小説には関心がなかった。
ところが、映画を観るかぎり「若草物語」は決して“少女小説”ではないようだ。4人の姉妹がいろいろな経験を積み重ねていく物語で、べスは早世するが、残りの3人はそれぞれ大人へと成長していく。
原題は「リトル・ウィミン」(Little Women)と言うが、これは著者オルコットの父親が娘たちをそう呼んでいたらしい。もう幼い女の子ではなく、可愛らしい娘たちといった意味なのだろうか。これを日本語の表題で「若草物語」としたのは素晴らしい。若い芽がすくすくと成長していくようで、実にういういしい感じを受けるのだ。
余談だが、私は中学時代、1年後輩の女の子に好意を持って純情な交友を重ねたことがある。その日記を「若草物語」と名付けた。もちろん、日本語の表題をいただいたのである。
私の「若草物語」はその後、大学時代に“学生運動”の苦悩や挫折から焼却してしまった。しかし、今でも「若草物語」の清々しい思い出は残っている。長い人生の中で、あの中学時代が自分にとって最も輝いていたのではないか。それは「若草物語」があったからだろう。(2011年3月25日)