<以下の記事を一部修正して復刻します。>
最近、古い日記を読んでいたら、昔の「フジサンケイグループ」というのは、日本の左翼はもとより、中国や北朝鮮など共産圏諸国から徹底的に嫌われていたのを思い出した。
それは当時、フジサンケイグループを取り仕切っていた鹿内信隆(しかない・のぶたか)氏が、日経連出身の根っからの“反共主義者”だったからだろう。例えば、中国と台湾の位置付けについても「台湾一辺倒」だったから、中国側から猛烈に反感を持たれていた。
そこで嫌な思い出として残っているのは(45年以上前になるが)、フジテレビの私が野党クラブの記者をしていた頃、野党議員らが中国や北朝鮮を訪問するのに同行取材しようとすると、フジテレビと産経新聞の記者だけは必ず拒否された。つまり、中国や北朝鮮から入国は「絶対ノー」と言われるのだ。それでどれほど“煮え湯”を飲まされたことか。
当時は日中国交回復の直前だったから、社会党や公明党などの野党党首らがしきりに訪中していた。国交正常化はもはや時間の問題となっており、日中間の往来が頻繁になっていた。
そこで、社会党の成田委員長、公明党の竹入委員長らの訪中に同行しようとすると、フジサンケイグループの記者だけが拒絶されるのだ。それが又、実に嫌らしいのである。野党の党首らが出発する直前まで、中国側は入国イエスかノーかを言わないのだ。したがって、私らは一応出発の準備をして待機しなければならない。
すると、前日ぐらいになって「フジテレビと産経新聞の記者の入国は不可」という通達が中国側から出されるのだ。こういうことが何回もあったから、そのうち、どうせまた直前まで中国側から“嫌がらせ”を受けるだろうと覚悟するようになった。野党議員からは同情されたが、相手のあることだから仕方がない。こうして、私は何回も訪中の機会を逸した。それほど、フジサンケイグループは中国などから徹底的に嫌われたのである。
いつも入国を拒否されていたから、すっかり忘れていたが、1972年(昭和47年)5月には公明党の竹入委員長に同行して北朝鮮へ行けそうな感じだった。当時の日記を読むと、4月には「行けそうだ」と書いてあるから感触が良かったのだろう。しかし、5月7日には「行けなくなった」と記してある。
竹入委員長は5月19日には訪朝したはずだから、この時は「ノー」の返事が比較的早く届いたことになる。出発直前までの嫌がらせはなかったが、この時も“落胆”したことは間違いない。日記のトーンにはそれがありありと出ていた。当時は初の訪朝取材に胸をふくらませていたのだろう。
このように“反共主義”のフジサンケイグループは共産圏から徹底的に忌避されていたが、同じ1972年9月の田中角栄首相の中国訪問、そして歴史的な日中国交正常化の時は全く違った。
いくらフジサンケイ嫌いの中国でも、この時ばかりは“度量”のあるところを見せたかったのだろう。私は野党クラブの記者だから行けなかったが、官邸クラブの同僚記者らが何人も田中首相に同行して北京入りしたのである。日中国交回復という歴史的な出来事だからそれは当然だったろう。この時はテレビも毎日特番、特番の連続で、日中新時代の幕開けを報道していたのを思い出す。
その後も、共産圏からの嫌がらせは続いたが、徐々に緩和されていったと思う。他にも何回か煮え湯を飲まされたことがあるが、話すと長くなるので止めよう。当時の中国は「原則」を重んじる国だから、今では考えられないような話だが、反共メディアに対しては徹底的な敵意を貫いていたのだ。
あの頃は国内のデモ取材などの時も、フジテレビや産経新聞はデモ隊から特に狙われ、投石や嫌がらせを受けたものである。因果なテレビ局に入ったものだなあ~と嘆いたことがある(笑)。
私が中国へ取材で初めて入ったのはそれから数年経ってからだが、その頃には嫌がらせもほとんど無くなっていた。ただし、宿泊したホテルの部屋には盗聴器を仕掛けられていただろう。本日はどうも嫌な思い出話になってしまった。
田中首相の訪中による日中国交正常化の衛星中継は素晴らしかったですね。
私もテレビ中継にくぎ付けになりましたが、多くの日本人もそうでしたでしょう。
歴史的な衛星中継は末永く語り継がれると思います。