<『神田川』の作詞者・喜多條忠さん(74歳)が亡くなったので、8年前に書いた以下の文を復刻します。合掌。 2021年12月1日>
嫁さん(長男の妻)と話していたら、南こうせつが歌う『神田川』の話題になった。音楽に疎い私だが、この歌はもちろん知っている。『神田川』の話になると、大風呂敷を広げたくなるのでいつも皆に迷惑をかけるようだ(笑)。しかし、お許し願おう。
この歌が登場したのは、ちょうど40年前の1973年だ。私はそこに時代の“節目”を感じる。その頃が時代の転換点だったと思う。というのは、60年安保、70年安保と続いた「変革の闘争」がその頃に終止符を打ったのだ。
70年安保闘争は、全共闘運動を中心に大きな広がりを見せた。東大闘争、日大闘争などの学園紛争が全国に渦巻き、赤軍派などの超過激派が登場した。しかし、過激派の闘争も1972年に起きた連合赤軍「浅間山荘事件」を最後に終息に向かったのである。
後に残ったのは大きな“挫折感”である。敗北感と言ってもいい。若者たちは大きな夢、希望、幻想と言ったものを捨てざるを得なかった。そして、嫌でも小市民的、プチブル的生活を送らざるを得なかったのだ。これは“意識”の上でそうなったことが重要で、それが「諦めと慰め」の生活に彼らを誘(いざな)ったのである。
イデオロギーや理想、英雄的精神や夢は世知辛い日々の生活に取って代わられたのだ。これを「日常性への埋没」と呼んだ。若者たちは“現実的”になり、政治よりも経済が重視された。その辺から価値観が変わったのである。
以後40年間、基本的には何も変わっていない。若者たちは小さな幸せに安住し、大きな夢を持たない。しかし、それを責めたりはしない。なぜなら、管理社会がますますそうさせている。その方が平和で幸せなのだ。革命とか変革といった“幻想”は消えたのである。
「三畳一間の 小さな下宿 あなたは私の 指先見つめ 悲しいかいって 訊いたのよ・・・」 ああ、この『神田川』の歌詞。そこに、この40年間の若者たちの意識が凝縮されているのではないか。私はこの歌に、一つの時代の屈折点を見るのだ。だいぶ、大風呂敷を広げてしまった(笑)。『神田川』を聴こう。
しかし、労働基準法第24条では、いまだに「賃金は、通貨で、直接労働者に、その全額を支払わなければならない。」とあります。
もちろん例外規定もありますが、この条文を盾に、弊社では定年近くなっても、現金で給与を受け取っていた者が数名いました。
私がいた横浜市会事務局は、30人ほどの小局でしたが、職員と議員の給与等の担当に、女性二人が付いていました。
月の内、彼女たち2人が忙しいのは支給日前の1週間くらいで、あとは暇のようでした。
しかし、支給日は大変で、庶務課の全員で現金を和数えて袋詰めをするのです。1円違っても駄目ですから本当に大変でした。
支給日は、職員は15日、議員は10日と異なっているのですが、それでも両日は、大忙しで、大体午前中かかりました。
特に、議員は、給与に対して なんとか議員連盟等で差し引くものがいろいろあり、人によって異なるので大変だったようです。
紙一枚で空しい感じもありましたが、合理化では大きな意味があったと思います。
秋吉久美子と林隆三のは『妹』ですね。
本文にもあるように、70年代に日本社会は大きく変貌し、今の下地ができたような気がします。
例えば、給与は完全に銀行振り込みになり、毎月 手元に「紙切れ」1枚が届くだけで、とても寂しい感じがしました。仕方がないですね。
脚本が、松浦健郎のところの中西隆三などと言う年寄りだったからです。
この時、日活の岡田氏が著作社のところに行くと、
「あれは東宝に売りましたが、次のがあります」で、制作されたのが、藤田敏八監督の『妹』です。
秋吉久美子と林隆三、兄妹の話で、これは傑作でした。
1970年代の風俗がよく捉えられていると思います。