さて道成寺の僧たちですが、安珍と押し問答を続けているうちに、だんだん彼を哀れに思うようになりました。特に安珍と顔見知りの数人の僧は、なんとかしてあげようと言い始めたのです。同じ仏道に帰依する身なので、他の僧たちもついに安珍をかくまうことに決め寺の境内に案内しました。
ところがその時、大蛇に化けた清姫が石段をはい上がってきたのです。この異変に気がついた門番の僧は、あわてて皆に報告しました。僧たちはどうしたらいいのか迷いましたが、とりあえず鐘撞き堂の大きな釣鐘(つりがね)を下ろし、その中に安珍を隠すことにしたのです。
彼が鐘の中に隠れてまもなく、口から炎を吐きながら怒り狂った大蛇が現われました。その姿を見て僧たちは恐れおののき、あちこちに逃げ隠れました。大蛇はまず寺の本堂に入り、安珍がいないかと探し回ります。しかし、もちろんそこにはいません。ますます猛り狂った大蛇は、本堂の周りを探し始めました。その口から火の粉が舞い、僧たちは火を消し止めるのに躍起になったのです。
こうして時間がたっていきましたが、ちょうどその頃、日高川を渡ったドン・キホーテらは与謝野晶子らを待ち受けていました。やがて、晶子ら3人が現われ合流すると、皆は急に元気づいたのです。これまでの疲れや苦労がいっぺんに吹き飛ぶようでした。
「みなさん、お久しぶりですね。お元気でしたか。私たちもなんとかやっています。さあ、安珍様とお清をなんとしても助け出しましょう!」
晶子が嬉しそうに声を上げました。
「みなさんと合流できて、われわれも勇気百倍です。清姫殿と安珍を必ず救い出しましょう!」
ドン・キホーテがそう答えると、ハムレットもメフィストフェレスも、ヒュパティアもベアトリーチェも皆が喜びの表情を浮かべました。彼らは2人を救出するために、最後の奮闘を誓い合ったのです。
一方、安珍を探し回っていた大蛇は、寺の境内にある釣鐘を見つけました。大蛇はしばらく鐘の周りを窺っていましたが、そのうち、鐘の下から“わらじ”の紐(ひも)が出ているのに気がついたのです。
「安珍め! こんな所に隠れていたとは・・・」
大蛇に化けた清姫は鐘の上にはい上がりました。そして、竜頭(りゅうず)をがっちりと口にくわえると、長い胴体を七回り半も鐘に巻きつけ激しく締め上げたのです。やがて鐘は炎に包まれ、中にいた安珍はもの凄い熱さに悲鳴を上げました。
「助けてくれ~! 清姫殿、許してくだされ~!」
安珍は熱さにのたうち回りながら叫びますが、その声は誰にも聞こえません。寺の僧たちが耳にするのは、大蛇の唸り声と炎が燃える轟音、それに長い尾っぽを叩きつける音です。僧たちは震え上がりました。“焦熱地獄”とは正にこのことです。
すると、寺のあちこちから期せずして念仏を唱える声が上がりました。僧たちは居ても立ってもおれなくなったのです。また、念仏に混じって何やら“呪文”も聞こえてきました。
「りん ぴょう とうしゃ かいじん れつぜん ぎょう(臨兵闘者 皆陣列前行)・・・」と言っているようです。
また、「おん きりきり~ おん きりきり~」というのも聞こえてきました。こうして、念仏やら呪文が渾然一体となって唱えられたのです。
鐘の中にいる安珍も必死でした。彼も念仏や呪文を唱えました。それしかすることがありません。あとは焦熱地獄に耐えながら、なんとしても清姫の怒りに打ち克つしかありません。
こうして、大蛇に化けた清姫と、安珍や僧たちの戦いが延々と続きました。そうした中、ドン・キホーテや与謝野晶子らの一行は、地元の人たちから道成寺の異変を聞きつけ現場に到着しました。
そして、彼らが目にし耳にしたのは、荒れ狂う大蛇と僧たちの必死の声だったのです。その狂騒ぶりに皆は呆然として立ちすくみました。
「これは地獄だ。どうしようもないぞ・・・」
ドン・キホーテがつぶやきましたが、皆は声が出ません。しばらくして気を取り直したのか、ハムレットが皆に呼びかけました。
「私が呪文を唱えるので、唱和してくだい!」
ハムレットは呪文や念仏に通じているので、晶子ら女性陣にもお願いしたのです。彼が唱え出しました。
「りん ぴょう とうしゃ かいじん れつぜん ぎょう・・・」
皆はハムレットに続いて、一心不乱に呪文を繰り返します。こうして、さらに1時間ほどが過ぎました。すると、大蛇の口から出ていた炎がしだいに弱まってきたではありませんか。そればかりではありません。大蛇は両眼から、血の混じった涙を流し始めたのです。
「もう少しだ。みんな、頑張って!」
ハムレットが一同を励ましました。皆は精魂こめて呪文を唱えます。僧たちも一心不乱に念仏や呪文を唱えます。 やがて炎が静まると、力が尽きたのか、大蛇が釣鐘からずるずると滑り落ちたではありませんか・・・
「やった、やったぞ~!」
ハムレットが叫び声を上げました。一同は目を凝らしますが、大蛇は濛々(もうもう)たる煙に包まれ姿を消したようです。すると その時、煙の合い間から、ふらつく足取りで青白い顔つきをした女性が現われました。もちろん、清姫です。
皆は呆然と見つめるだけで、彼女に近寄りません。清姫は行く当てもないかのように、まるで“夢遊病者”のようにふらふらと前を通り過ぎて行きます。その直後、彼女は“懐剣”を取り出すと、やにわに胸に突き刺しました。
「大変だ~! 清姫殿、何をするのですか!」「お清、やめて~!」
皆が清姫の周りに駆けつけましたが、彼女は崩れ落ちるようにその場に倒れ込みました。清姫の左胸には短刀が突き刺さり、辺り一面に血が飛び散っていたのです。
「この人を寺に入れてもらえませんか。医者を呼んでください!」
ドン・キホーテが大声で修行僧らに頼みます。皆が一緒になって清姫を担ぎ上げ、境内を通って寺の寝所(しんじょ)へ運び入れました。この後、修行僧らも一緒になって、安珍が隠れている釣鐘の所へ駆けつけました。
鐘は焼けただれ見る影もありません。皆が力を合わせて鐘を取りのけ、気を失った安珍を助け出しました。彼の体には火傷(やけど)の跡がいっぱい残っていました。よほど熱かったに違いありません。そして、安珍も寺の寝所に運び込まれました。
こうして、道成寺の事件は終息しましたが、心配なのは清姫の容体です。近くから何人もの医師が呼ばれ、不眠不休の応急手当が施されました。また、清姫の両親も知らせを聞いて、中辺路(なかへち)の真砂(まなご)から駆けつけたのです。
数日間は容体が一進一退でしたが、幸い、短刀の刃先は心臓の急所を外れ致命傷には至りませんでした。およそ1週間後、清姫は一命を取り留めたのです。また、安珍は火傷の痛みにずっと唸っていましたが、こちらも次第に快方へと向かいました。
そうした中で、安珍と清姫の仲間たちはほっと一安心しましたが、善後策については悩ましいものがあります。特に清姫の父・清次は2人の関係に怒り、なんとしてもその仲を裂こうとしていました。
一方、ここへきて友人たちにも微妙な変化が出てきました。安珍の仏道への精進を唱えていたハムレットが、考えを変えてきたのです。ある日、ハムレットは皆に次のように述べました。
「あんな事件になって、僕は安珍の“本心”を尊重すべきだと思う。そうでないと、また不幸な出来事が起きるかもしれない。みんな、どう思う?」
それに対して、ドン・キホーテが答えました。
「ハムレット、お前はいつも迷っているようだな。俺はずっと言ってきたが、安珍は清姫殿と結ばれるのが一番良いと思う。それが安珍の本心、本当の願望だよ」
ドン・キホーテの一言に、皆は納得したような表情を見せました。しかし、安珍本人の考えや周りの人の気持がまだよく分かりません。分かっているのは、清姫の父が2人の関係を断絶させたいと願っていることだけです。また、安珍の師・珍念和尚の意向も重要でした。それを無視するわけにはいきません。
ついにドン・キホーテが提案しました。
「われわれ男性陣は安珍の考えをよく聞き、女性陣は清姫殿の気持をご両親に伝え、その上で最善の策を講じよう」
さて、安珍と清姫は一命を取り留めたのですが、寺の修行僧たちの多くは安珍に反発していました。それはそうでしょう。道成寺が大変な混乱に陥り、貴重な釣鐘を焼かれたのですから当然です。
こうした状況を察知して、住職の道源(どうげん)和尚は安珍に寺と絶縁させることを決意しました。道源は安珍の師である珍念和尚と親しく、また彼を息子のように可愛がっていましたが、ここにきて決断を下さざるを得なかったのです。
ある晩、道源は火傷の跡も痛々しい安珍を呼びつけました。
「安珍よ、汝(なんじ)は二度とこの寺に来るな」
そう告げると、彼は一呼吸おいてさらに次のように述べたのです。
「よいか、お前は“還俗”するのが良い。その方がお前のためだと思う。珍念和尚にもそう伝えるし、清姫殿のご両親にも私の考えを述べよう。俗人にかえって、お前は一から出直すことだ」
道源はそう言い渡すと、さっさと寝所に姿を消しました。残った安珍はただうな垂れてその場から動けません。暫くしてやっと立ち上がると、自分の寝所へと向かいました。安珍は敗北感に似た思いを胸に抱き、自分が事実上“破門”されたのだと自覚したのです。
一方、清姫はようやく大怪我の苦境から脱しました。しかし、彼女は傷の後遺症がひどく体を自由に動かすことができません。しかも、上半身が左に捻じれたような状態になったのです。あの艶やかだった姿態は見る影もありません。清次夫妻は娘の痛ましい姿を見て、暗然とした気持になりました。ようやく、清次が娘を励ますように声をかけました。
「お前はもうすぐ真砂(まなご)へ帰るんだよ。そこでゆっくりと養生しよう。あとのことは私らに任せてくれ」
父親がそう声をかけても、清姫は放心したように返事をしません。それでも暫くして、つぶやくように声を出しました。
「ごめんなさい。ご心配をおかけしました。でも、私は安珍様について行きます」
これを聞いて、清次夫妻は唖然としました。娘は何を考えているのか・・・ しかし、両親は清姫の容体を心配して、それ以上はなにも言いませんでした。清次夫妻が去ったあと、今度は与謝野晶子らが見舞いに訪れました。彼女らは清姫の変わり果てた姿にしばらく声も出なかったのですが、やがて晶子が口を開きました。
「身も心もずいぶん傷ついたのね。お清、もう大丈夫だから元気を出して。みんな、あなたのことを心配してここへ来たのよ。もう一度やり直しましょう」
ヒュパティアもベアトリーチェも励ましの声をかけました。清姫は友人の温かい激励の言葉に、思わず涙ぐんだのです。こうして、彼女は少しずつ回復していきましたが、問題は安珍との今後のことです。
こういう状況になって、人々に最も指針を与えてくれるのは道源和尚でした。彼は清姫や安珍の気持を確かめ、ついでドン・キホーテや晶子ら友人の意見も聞いたのです。その上で、清次夫妻を呼んで次のように述べました。
「ご両親ともよく聞いてほしい。安珍も清姫殿も気持は変わらない。2人は終生 添い遂げるつもりだ。わしは安珍に“還俗”するよう申し渡している。この寺にも二度と来るなと言ってある。その方が安珍のためにもなるだろう。
そこで、わしが知っている播磨(はりま)の国のある人に、2人の身の振り方について相談しようと思う。その人はいつでも受け入れてくれると思うが、あなた方はどう考えるか?」
道源和尚の率直な話に、清次夫妻は返す言葉がありません。結局、あとのことは全て道源に任せることになり、清姫を真砂へ連れ帰るのは諦めました。
一方、ドン・キホーテらは安珍に最後の意思確認を行ないました。今度はハムレットもメフィストフェレスも、積極的に安珍の立場に理解を示したのです。
「僕たち3人は一致して君を応援するよ。安珍、もう全てのことは道源様にお任せして、あとは清姫殿をしっかりお守りし、新しい人生を切り開いていってほしい。それが僕たちの願いなんだ」
ハムレットが珍しく毅然とした態度で声をかけました。これを聞いて安珍は感謝の気持でいっぱいになり、涙ながらに答えたのです。
「ありがとう。 君たちにもう迷惑はかけたくない。一から出直すつもりで、清姫殿としっかり手を携えて生きていきたい」
それから数日して、道源和尚は安珍と清姫、それに2人の関係者全員を寺の本堂に呼び寄せました。全員が御本尊にお祈りを捧げたあと、道源はにこやかに皆にこう告げたのです。
「安珍と清姫殿は本日、播磨の国へ出立する。長い間、ご一同ご苦労さまでした。2人の身は明石(あかし)の庄に預けるが、あとはそこの荘園主に任せてある。そのお方は私と昵懇の間柄なので、なんの心配もいらないだろう。さあ、2人の新しい門出だ。みんなで2人の前途を祈ろう。ご一同、重ねてご苦労さまでした」
道源和尚の言葉に、全員が厳粛な気持になりました。安珍と清姫は、晴れて新しい門出を迎えることになったのです。もちろん、清次夫妻をはじめ全員がこのことを承知していました。そして、旅支度を整えた2人は、出立に際し深々と頭を下げて謝意を表したのです。安珍が口を開きました。
「皆様、本当にありがとうございました。大変ご迷惑をおかけしました。私ども2人は道源様のお計らいで、播磨の国へ旅立つことになりました。これから力を合わせて、新しい人生を切り開いていこうと思います。やがて明石の庄で独り立ちできれば、必ず皆様にご恩返しをさせてもらおうと思います。それまで、どうか温かく見守ってください。私ども2人は、必ず皆様の元へ帰ってきます」
安珍がこう述べると、友人たちが一斉に励ましの声をかけました。また、清次夫妻は涙ながらに愛娘の清姫に寄り添いました。皆が別れを惜しむので、安珍らはなかなか出立できません。そうこうするうちに、ヒュパティアが気持が緩んだのか、思わぬことを口にしました。
「お清、あなたは自分が“大蛇”に化けたことを覚えているの?」
皆が一瞬、冷や水を浴びたような気分になりました。
「えっ、なに・・・ 私が大蛇に化けたんですって? そんなこと、あるわけないでしょ! ホッホッホッホ」
清姫が初めて笑顔を見せたので、一同は胸を撫で下ろしました。
「ヒュパティア、なにを言ってるの? あなたらしくないわね」
与謝野晶子があわててその場を収めましたが、彼女も続けました。「お清、あとで安珍様から詳しいことをお聞きなさい。とにかく、お元気で!」
どうやら清姫だけが、自分が恐ろしい大蛇に化けたことを覚えていないようですね。
そして、皆が別れの挨拶を交わすと、安珍と清姫は道成寺を後にしました。寺の僧たちも2人を見送ります。安珍は大怪我から回復したばかりの清姫を支えるようにして、ゆっくりと歩を進めていきました。彼女の後ろ姿は左に少しよじれているようで、まだ痛々しく見えます。やがて、2人はもう秋の気配に包まれた山里から姿を消しました。
こうして安珍と清姫は、新しく人生を切り開くための第一歩を踏み出したのです。(完・2014年11月6日)