無知の知

ほたるぶくろの日記

自律神経について

2010-11-28 13:12:33 | 日記

穏やかな天気の晩秋です。このあたりとうとうイチョウが黄金色になって本当に美しいです。いろいろありますが、なんとか乗りこえています。おかげさまです。

さて、○ー○マス研究所について、少し調べてみました。基本的には自律神経訓練機器のようです。○○シンクのようなひどい健康被害はないかも知れません。ただ、背景に流れている思想がちょっと。。。

このような機器に対する違和感とは、本来「自律」神経によって自然に制御されている領域に、無理矢理顕在意識を働かせコントロールさせるということです。日常生活に支障が出るほどにひどい方はともかく、普通に生活が出来ている方には不要な技術なのではないかと思います。自律神経は意識(顕在、潜在にかかわらず)と密接な関係にあります。心の動きに伴って、自律神経によって制御されている臓器は刻々と変化していきます。とくに血管、汗腺、立毛筋、瞳孔などですが、全身に影響を及ぼします。普通は意識しなくても心に応じた身体の体勢を整えるよう、自律神経が働いています。心理状態が身体に反映する仕組みは危機管理には重要な反面、過去の記憶(とくに悪い記憶)に縛られてしまい、新しい事柄への対応力が低くなってしまうこともあります。このとき、私たちは神経症などを患うことになります。

問題はこの状況からどのように抜け出すか?です。本質的な解決は、こだわりの原点にある記憶や心理状態を「溶かす」ことなのだと思います。「溶かし」「消化する」必要のあることをそのままにして、自律神経訓練機器を使って自律神経をだますような形で身体を働かせていますと、いつかは必ず破綻するのではないでしょうか。


晩秋の夜長に

2010-11-24 23:14:15 | 日記

約3年前私はどうにかして故人のご供養をしたいものだ、と思っていました。身近な故人を思い出すことも多かったのですが、その度にどうすることもできず溜め息をついて過ごしていました。今は供養場所もありますし、心置きなくお世話になった故人、気になる故人の方々に感謝をしながらお線香を上げることができます。それだけでも、胸のつかえがとれた感じがします。


かつての私は、どのような既存の宗教にも「帰依」することができず、かといって無神論ではなく、どのようにその気持ちを持っていったらよいのかが不明である。そんな状況は大変中途半端であり、ひとたび尊崇する対象を見出すと一心にそちらに向かってしまいかねない危険な状態でした。

さらに私にとって、厄介なことがありました。ある種のプロパガンダのようなものでしょうか。

曰く、「自分を主張しなくてはいけない。売り込まなくてはいけない。」「欧米では・・・」

これも幼稚な思い込みの一種ですが、普遍的な価値=欧米というものがあったと思います。日本を認めていなかったというより、知らないことが多すぎたということでしょうか。

南方熊楠さんの書簡集を相変わらずぼちぼち読んでいるのですが、その中で彼は19世紀末頃日本に入ってきて、さかんになりつつあった比較宗教学なるものに対する批判をしています。もっぱら、欧米人が文献学的に仏教、ヒンズー教、道教などを研究し始めたものが最新の学問として流入していたのだと思います。とくにキリスト教神学の影響から文献学が盛んで、仏教教典などもその内容よりもいつ頃書かれたか、誰によって書かれたか、が研究されたようです。そして、大乗仏教教典は釈迦の書いたものではなく、従って仏教ではない、という原典偏重主義のおおもとを築くことになりました。この「大乗非仏教説」に南方熊楠は大変憤り、本質を理解しない、全くの暴論であると論理を尽くした批判を土宜法竜氏に書き送っています。

彼にはのちのちすべて欧米をお手本とし、自分を破壊せんとして苦悩する未来の日本人が見えていたのかもしれません。そして、残念ながらその通りになってしまいました。私も若いときからそのような風潮を感じていましたし、嫌だなとも思っていました。しかし、案に相違して全てが欧米を規範とする自然科学の道に入ってしまったのでした。いや、もしかしたら深層心理的にわざとそのような選択をしたのかも知れません。自然科学を東洋的に乗っ取ってしまうために。


冬の気配

2010-11-21 12:52:26 | 日記

だんだん寒くなってきました。やっと冬を感じます。この辺りのイチョウも徐々に黄色くなってきています。お隣が氏神様なのですが、こんもりとした神社の杜がきれいに色づいてきました。そんな日々変化する秋の景色を眺めながら、自分の日々を思っていました。紅葉した木の近くによって葉の一枚一枚をみると、きれいに色づいているものもあれば枯れているもの虫食いがあるものなどいろいろなのですが、遠望するとこんもりときれいに色づいています。自分の人生もこんな感じかなと思います。ひとつひとつは失敗もあったりしますが、総体として美しい色合いになれたらいいなとおもいます。

先週はいろいろあり、自分の足りないところに気づかされました。これからひとつひとつたんたんと実行していかなくてはいけません。環境や周囲はともかく、心の指し示すところに従ってやっていきたいと思っています。

serendipity =気づく能力は重要です。目を凝らして対象を観察しているときに、目の端に映っている何かにふと気づくことがあります。それがひどく重要なことがあったりします。注意散漫ではなく、広く視野をもつ。余裕を失わない。ということかと思います。それもこれも自分の精神が落ち着いていませんとできないことではあります。やるべきことをやって淡々としていることが、こういうところにも重要になってくるのではないでしょうか。


組織という生き物

2010-11-20 11:40:44 | 日記

以前にも書いたかもしれませんが、国内の政治状況により科学研究費の予算配分など時々刻々と変わっていきます。しばらく前には、スーパーコンピューターの件が話題になっていましたし、今話題の「はやぶさ」もそうです。私の所属する分野ももちろん大きな影響を受けています。しかし、これは今に始まったことではありません。ずっとそうなのです。あまり詳細を書くことはできないのですが、さまざまな産業分野と同様、研究の分野でも政治との関わりは切っても切れないものがあります。

組織の上の方にいきますと、必然的にそのようなことにタッチせざるを得なくなるのです。私は幸いそれほど上ではありませんので、直接かかわることはありませんが、これまで所属してきた場所の上の方から様々なことを伺い、あるいは見聞してきました。そうしますと、何かとてつもなく恐ろしい気配を感じることがあるのです。

組織の中枢には何かそのようなものがあるように思います。そしてそれに飲み込まれ、人は変わっていきます。自分の意志に反し、何かをしなくてはならないこともあったりするでしょう。その方の中ではかなりの葛藤があり、大変悩むことになると思います。よくドラマの中では描かれる様相ですが、それは現実のことです。組織の中にあって、自神を見失うことなく歩んでいくことは地雷だらけの道を行くような緊張感があります。一歩間違えば吹き飛ばされかねません。気を抜くことなくやっていきたいと思います。


私のお題

2010-11-19 09:23:34 | 日記

以前から書いていますが、仕事場のある部署では人が次々に辞めていかれます。先日一人去ったのでしたが、またもや同じ部署で一人いなくなるとのことでした。もうあと数人しか残らないことになります。こうなってきた原因の一つは先日書きました方のことでしょう。その方が部下に何かを言った、などの単純なことではありません。その部署は二頭立ての馬車でした。御者も二人でそれぞれの馬をそれぞれの方向に向けて叱咤激励しているのでした。馬車は二つの方向にぶれ、よろよろふらふら。そして乗車していた人は一人去り、二人去りしている状況です。

その二頭立て馬車の御者の一人が件の方なのですが、これにかぎらず組織の上の方同士での関係性においてもいろいろの政治的手法を駆使するばかりで、心根がどうであるのか、よくわからないことがあります。おそらく、彼の心底が正しいものであれば、多くの方が賛同し道は開けていくものだと思います。これだけ八方ふさがりになっていくということは、推して知るべしということなのでしょうか?

その方、見た目は「ガマガエル」。声の大きいところなどからすると「ウシガエル」でしょうか。異様な気を発しています。

私はいろいろなことでこの方に縁がありました。まあ、なんとなくこの方の下に来ることになり今に到るわけで、典型的な因果だと思います。つまり、この方と対峙し何かを学ばなくてはいけないのです。逃げても無駄だということです。実はこちらに来ることになったのも、別なガマガエルから逃げてのことだったのです。今や腹をくくってこの現実を歩んでいくしかなさそうです。