今週末は隣町の神社のお祭りです。昨日は各町内会の御神輿が出発するのを子供と一緒に観に行きました。あいにくの曇り空、ひんやりとした空気、ときどき小雨すら降っているのですが、大勢の方がいらしていました。大人の御神輿に混じって子供だけで担ぐ子供神輿もありました。子供神輿とはいえ、作りのよい立派な御神輿でした。お祭り衣装にみをつつみ、真剣な顔をして重い御神輿を担いでいました。何だか懐かしい感じがしましてみとれてしまいました。今までその神社の存在は知っていたのですが、なぜか一度もお参りしたことがありませんでした。千年以上の歴史のある神社だそうです。良い機会なのでそのままお参りさせていただくことにしました。そのあと氏神様にもお参りして、帰ってきました。
私がまだ赤ん坊の頃、母の背中におぶわれて近所の八幡さまの縁日に行ったそうです。その後越したところの氏神さまも八幡さまで、そこの縁日にもよく行ったそうです。お祭りが好きでねぇ、と言っていました。長じてからその話しを聞いたのですが、その頃はすっかり神社には縁がなくなっていまして、そういう話しを聞いてもなんだかピンとこないものがありました。ほんとう?と問い返すくらい深い記憶で、思い出すことも難しかったです。
その後神社のお祭りに出会うたび、お囃子の太鼓と笛の音はなんとなく懐かしい気がしたものですが、お参りをするようなこともなく生きてきました。大体宗教について考えるときに、神道、神社、というものが何故かすっぽりと意識から抜け落ちていました。どこかで神道は宗教ではない、と思っていたのかもしれません。東洋について考えているときももっぱら仏教について調べ、そして荘子にひかれていました。
そうして、ご縁があってこの地域に引っ越してきたのは、ちょうどこの神社の例大祭の日でした。御神輿が大きな道路を渡るため、しばし通行止めになりますが、丁度そこに居合わせたのでした。それ以来でしょうか、なんとなくこの地域の神さま、神社が気になりました。そうして氏神さまにお参りに行くようになったのでした。
宗教の何に違和感を感じていたのでしょうか。祈り、トランス。正気を失うということにでしょうか。禅にも思想哲学としての興味はありましたが、とうとう座禅などには参加することなく、今日まできました。何度となく座禅会などに参加してみようかなあ、と思ったのですが何となくそういう機会がありませんでした。「頭で理解するのではなく、心で感じるもの」というのもかなり微妙なことです。悪くしますとうっかり夢の世界へ引き込まれかねません。いろいろ議論はありましょうが知能をもった人間としてうまれたのです。それが何を意味するのか自分なりに考えてみたいと思います。
ところでこのヒエログリフに関する記述を読んで、白川静先生のお仕事を思い出しました。シャンポリオンが解読に成功したのは、彼が文字そのものを暗号のように考えていたのではなく、古代エジプトの文化全般に興味をもち、ありとあらゆる古代エジプトに関する知識を基礎として蓄えていたためでした。文字の生成はその時代の文化、人間の営み、自然のありようと密接に関係しています。もう少し踏み込んでいうならば、文化そのものの表出であるかもしれません。そのことをシャンポリオンも白川静先生も「知って」いたのだと思います。
話しは少しずれていきますが、このようにある仕事を遂行するために人は様々な経験をすることになっているように思います。一見なんの関係もないと思われることが、何らかのかたちで仕事のある場面に生きてくる。そんな経験を皆さんお持ちではないでしょうか。人生で経験することに何一つ無駄はないのだ、と強く思います。
現在、たとえ自分の本当にやりたいこととかけ離れたようにみえることをやっているとしても、それはいつかどこかで、思いもかけない場面で役に立ってくるのだと思います。おおらかな気持ちで様々なことを経験し、大いに楽しみ、生きていきたいと思います。
最近、ロゼッタストーンに書かれた古代エジプト文字の解読を成し遂げたジャン=フランソワ・シャンポリオンの生い立ちと解読が成し遂げられる経過について書かれた本を読んでいます。(『ロゼッタストーン解読』新潮文庫、レスリー・アドキンズ、ロイ・アドキンズ著、木原武一訳)ロゼッタストーンとはエジプトのロゼッタで採集された石碑で、古代ギリシャ語ヒエラティク、エジプト語デモティク(民衆文字)、エジプト語ヒエログリフ(神聖文字)の3種類の文字によって書かれた文章が刻まれていました。これがきっかけになり、古代エジプトの神聖文字ヒエログリフ(絵文字のようにみえます)がシャンポリオンによって解読されました。その経過は大変にドラマチックです。時代はフランス革命後、ナポレオンの帝政、ブルボン復古王政、、と政治体制がめまぐるしく変化していた時です。ローマ教会も絶大な権力をもっていたときであり、聖書の世界観が(例えば世界の創造は6000年前である、とか)支配的だった時代です。彼は大変に遠回りとおもわれるような沢山の苦労を乗りこえ、解読に成功しました。
読んでいて大変印象的だったことは、シャンポリオンの試練の連続です。彼は幼い頃から語学の才能を示していたのですが、家はあまり裕福ではなく、政治的にも不安定な時代であったため、立場も恵まれず、落ち着いて研究をすることがなかなかできない環境でした。しかし、それにも拘らず、彼は常にヒエログリフ解読への情熱の火を心に燃やし続けていました。そして断続的に、そして言語だけでなく、エジプトという文化全体に目配りをしながら少しずつ古代エジプト言語へと近づいていきました。なんとも縁としか言いようのない重要人物との出会い、重要な資料との巡り会いもありました。一見迂遠にみえ、無駄足を踏んでいるようにみえる様々なことが、最終的なゴールへの鍵束として機能していることが感動的でありました。どの経験も無駄ではなかったのでした。彼の魂の旅は、巧妙に仕組まれた幾多の課題を正面突破した立派なものでした。
話しは少しかわりますが、この本の中で古代エジプトの言語、文化が何度となく説明されるのですが、そのなかで一つ気になったことがあります。ヒエログリフの決定詞の一文字に小鳥の形象があり、「悪の小鳥」と呼ばれるものがあります。これは小さなもの、弱いもの、悪いものを表すそうです。これら3つのものは古代エジプトでは緊密に結びついた概念であったということです。小さなもの、弱いものはわかるとして、それが悪いものと結びつくというのは日本文化的には考えられないことです。全く異なる文化であることを改めて認識した次第です。
今を楽しめない私です。特に10代、20代の頃は未来への恐怖があって、何を手に入れることも恐ろしかったです。大事なものを所有すると、それを喜び楽しむことよりも、失った時のことを恐怖して自ら手放しておりました。
形は大事、ということも本当だと思います。最近なるべく笑顔を「つくって」いるのですが、周りが反応してくださるのです。なんとなく人が寄ってくださって、あれこれやっているうちに「つくっていた」笑顔が本当の笑顔になっていくことに気がつきました。形をつくることは重要なことですね。
問題は、どのように流通させるかにあると思います。ウイルスがどこにいるか、といいますと牛の体液、分泌物、糞便です。つまり血液、よだれ、汗などにもウイルスがいます。したがって生肉では感染可能なウイルスをまき散らすことになりますから、直ちに加熱するなどの加工をする必要があります。そして加熱処理した肉を清潔を保って搬出する経路の確保が重要です。その辺りの技術的な問題が解決されれば、流通させることは可能です。何とかなればよいなと思いますが。。。
ともかく牛の体液、分泌物、糞便がついた塵などが風で運ばれ、数十キロ先に感染をひき起こす可能性もある、という点を考慮する必要があります。対策が遅れますと、まさしく日本の畜産業が壊滅する危険性さえありましょう。
今回の件ではいわゆる風評被害などはないと思います。ヒトにとって病原性がほとんどないことは当初から報道されています。宮崎県に限らず畜産業を営む方々はその辺りを心配なさる必要はありませんでしょう。それよりもご自分のところの動物を感染から防ぐべく、よくよく消毒の薬液、方法などを確認されて効果的な方法を実行されるのが重要だと思います。pHの変動に敏感なウイルスであるようですから、酸、アルカリを用いた消毒が有効なようです。アルコール、エーテル、クロロフォルムは効果がありません。
それよりも動物の免疫系減退は気になります。今年の手足口病は例年より重症例が多いという報告があります。もちろんウイルス自体の問題も考えられるのですが、子供の免疫力が落ちていることも考えられ心配です。身体を冷やさないようにすることが免疫力アップの第一歩です。気温の上下も激しいですし、気をつけたいと思います。