○マ○シ会、という農業共同体があります。
戦後間もなく設立され、今まで70年余り続いている、不思議な集団です。
これがまた三重にある、というのも何とも言えない。
私もかつて学生だったころ、この共同体について少しだけ耳にしたことがあります。
まあ、ユートピアを構築しようとして、閉じた共同体を作っていて、内情を漏れ聞くに、思想統制、洗脳と思しき「余計なお世話」的、個人的思想への介入があるようで、ぞっとしました。
今回なんと某電子図書サイトを検索するうちに、その共同体の中で生まれ育った方が描いたマンガの紹介に出会い、久しぶりにその名を聞いてびっくりしました。
「まだ続いていたんだ。」
というのが正直なところ。そして、レビューから推測される、子どもたちの『虐待』ともとれる育てられ方に心底驚きました。また、レビューを書いている、マンガを読んだ若い方たちの感想が、大変興味深かった。
これって虐待?と拒絶反応を示す方もあれば、淡々としたマンガ著者のスタンスに興味を感じている方も結構いる。
虐待の中で生きてきた著者が、淡々とその虐待の状況を語る、のはそうならなければ生きて行けなかったから、という事実に気付いてください。
この共同体については「大人に対する『研鑽会』と称する会の実態は『洗脳』である」と某精神科医師も指摘している。私も過去にいろいろ聞いていたがその通りだと思っている。人間の個性を「癖」等と称して徹底的に破壊矯正しようとする。そして人々の情緒を破壊し、ロボットのように「淡々と目の前の事柄に対応して行く」人間を作ろうとしている。
擁護するわけではないが、おそらくは真に宗教的に「人の生きる、とは修業である」と観じ、「淡々と目の前の事柄に対応して行く」とは理想ではある。
だが、その両者の「淡々と目の前の事柄に対応して行く」精神的境地は全く逆である。前者は破壊された精神の行き着いた『果て』、であり、後者は積極的な『到達点』である。
最終地点の人間の有り様が似ているとは、皮肉なものである。
某宗教学者は著書の中で、「○マ○シ会の実顕地を作りだしたのは日本人であり、そこには個人を集団と融合させることに価値をおく日本的な価値観が生きている」とか「○マ○シ会は日本企業の究極形?」とか主張しているらしい。これは彼としては肯定的な主張なのだが、私はこの主張は否定的な意味で的を得ている、と思っている。
この「個人を集団と融合させる日本的な価値観」や「日本企業の究極形」が、まさに日本を衰退に導いている。もちろん「個人を集団と融合させる」ことは宗教的には大変高い到達点であり、境地であることは分かっている。
しかし、他人をそのような境地へ追い込むことは、虐待である。
許されない悪魔の所行なのである。どんな綺麗ごとや言い訳もあり得ない。
「基本的人権」は人間社会の叡智である。