インターネットに感じた可能性は何だったか。
1)時空間の制約からの解放
時間的、経済的、その他の理由から現場には行けない場所の情報が得られる。
世界のどこからでも(今は政治的理由からダメな国もあるけれど)日本のサイトへアクセスすれば日本語でニュースが見られる。
メールや何らかのチャットアプリで日本語のリアルタイムのやり取りができるし、Zoomもあるから顔を見ながらの話もできる。
海外留学や海外転勤しても今はそれほど心細い思いはしなくて済むのでは、と思う。
行く方も、残る方も気分的に全然違うだろう。
海外との心理的な距離はかなり縮まった。
Googleマップで、世界のあの辺りってどんな景色?
とかも見ることができる。
もう、最高!
私のように旅行、特に海外旅行は億劫で行かない、という人間も
とりあえずの興味は満たされてしまう。
(ただ、リアルはまた情報量が全然違うんですけどね)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/28/2194e141b56e0250db930de9b699e61c.jpg)
2)人々の生の声が聞こえる
こっちが今や政治問題化してきている点。
ただ、これも当初は相当にエキサイティングだった。
インターネット以前の記述の伝達媒体は紙がメイン。
グーテンベルグに始まる(それ以前から東洋ではあった、かも?)印刷技術によって、紙に印刷して、広く人々に広める。
ところがコストがかかる。
そうなると当然「コストに見合った内容のもの」が印刷に値するものになる。
検閲とまではいえないけれど、内容についてはかなり精査される。
全然手軽ではない。
人々が「ツィート」するような内容をダラダラ紙に印刷するなどはあり得ない。
だから、人々の生の気持ちや考えていること、は到底活字にはならなかった。
それは、どちらかといえば美術や音楽で表現されてきた。
現代美術(いろんな手法あり)、写真、自主映画、ビデオとか。
フォークソング(反戦歌とか放送禁止用語のはいった歌とかありました)
とかロックとかメッセージ性の高いものもありました。
それが、今や、活字でもビデオでも素人が何てことなく配信できてしまう。
何の検閲もなく(か、どうかは問題のあるところ)。
(誰の決裁も必要ない、って状況は社会を生きる大人にとってはとても重要!)
裏を返せば、公共の電波や伝達経路でコストをかけて制作配信されているものは
「何らかの意図のもとに行われている」
ということ。
だからこそ、個人の生の声がより「真実」のように見えてしまう。
特に「隠されていた真実」なんて言葉に私も含め人は弱い。
これが逆説的に怖い。
どういう個人か、どれだけの情報(裏付けも含め)を持った個人か、
全くわからない「匿名」の人が発信するのだ。
(もしかしたら個人ではないかもしれない。。。(悪の組織とか?!))
本当かデマか、釣りか。わからない。
(だから、いくつかの国はそれを人々の目に触れさせないよう必死だ)
本当に玉石混交なのだ。
混沌とした情報の渦の中、私たちは何が本当に重要で、真実かを見極めなくてはならない。
重要なのは「リテラシー」。
この間の中学校長の怪しい情報の全校配布問題の時にも書いたが、
驚くような内容の情報に接したとして、そこからどうするか。
今を生きる私たちは情報に対して、もう素朴ではいられないのです。
もう少し続きます。
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