ポケットの中で映画を温めて

今までに観た昔の映画を振り返ったり、最近の映画の感想も。欲張って本や音楽、その他も。

『法廷遊戯』を観て

2023年12月12日 | 日本映画
1週間前になるが、『法廷遊戯』(深川栄洋監督、2023年)を観てきた。

弁護士を目指してロースクールに通うセイギこと久我清義(きよよし)と、同じ学校で法律を学ぶ幼なじみの織本美鈴、
2人の同級生でロースクールの学生たちが行う「無辜(むこ)ゲーム」と呼ばれる模擬裁判を司る天才・結城馨は、
共に勉強漬けの毎日を送っていた。

無事に司法試験に合格し、弁護士となった清義のもとに、ある時、馨から無辜ゲームをやろうという誘いがくる。
しかし、呼び出された場所へ行くとそこには血の付いたナイフをもった美鈴と、すでに息絶えた馨の姿があった。
この事件をきっかけに、3人をめぐる過去と真実が浮かびあがっていき、事態は二転三転していく・・・
(映画.comより)

結城馨はすでに司法試験に合格しているのに敢えてロースクールに残り、なぜ模擬裁判「無辜ゲーム」を執り行ったのか。
その目的が、後々で徐々に掘り起こされていく。

久我清義と織本美鈴は、親からの虐待により同じ児童養護施設で育ち、支え合ってきた仲だった。
そんな美鈴が、そこの施設長から性的暴行にあう。
それを目撃した清義は、ある時行動に移す。

高校生の頃、電車の中で痴漢された美鈴は、なかったことにして欲しいと相手から金を掴まされる。
それをキッカケとして清義と美鈴は痴漢のゆすりを働いていく。

ある日、美鈴が痴漢を仕向けた相手は現役の警察官だった。
しかしその警官は、痴漢をしたと社会的に葬られ、挙げ句は精神を病み自殺する。

この警官が他でもない馨の父親だったという事実。
だから馨が何を目的として、「無辜ゲーム」以下を行なったのかが明らかにされていく。

しかし物語は、平坦な単純化にはされない。
もう一癖あって、成るほどそうなのか、と最後になる。

この作品の原作本は読んでいないが、それにしてもよく出来た見応えのある満足できる映画だった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

清水宏・9~『蜂の巣の子供たち』

2023年11月21日 | 日本映画
最近、DVDを鑑賞して感想を書こうとしても下書きのままになってしまう。
そんな中、先月、隣県で名作映画鑑賞会として上映された作品『蜂の巣の子供たち』(清水宏監督、1948年)を観てきた。

復員兵の島村は、下関の駅で晋公たち戦災孤児に出会った。
子供たちは叔父貴と呼ばれる男の手下となって盗みなどをしていたが、働くことの大切さを説く島村と一緒に旅するようになった。

一行は、知人を訪ねて島に渡るという夏木弓子を船着き場で見送った。
その時、義坊が彼女と一緒に船に乗っていってしまった。
島村と子供たちは塩田で働いた後、広島で弓子と義坊に再会。
島村は、自分がいた“みかへりの塔”で子供たちに勉強させてやりたいと弓子に語った。
弓子は東京へ行くと言い、義坊も涙ながらに彼女と別れた・・・
(「映畫読本 清水宏」より一部抜粋)

その後、島村と子供たちは、四国の山で木の伐採を手伝い、そんな中、義坊が病気になる。
熱にうなされる義坊が母の思い出につながる海が見たいと言うので、豊は義坊を背負って山を登る。
が、頂上に着いた時、義坊は息絶えている。

島村と子供たちは、叔父貴にだまされようとしていた弓子と再会し、旅を続ける。
最後に、非行児童の救護施設“みかへりの塔”に着いた彼らは、先生や子供たちに温かく迎えられた、というのが筋である。
戦後の世相を反映しオールロケで作成されたこの作品は、出来そのものもさることながらその時代の風景にも興味深い。

出演者はすべてシロウトであり、そこに登場する子供達は監督・清水宏が引き取った戦災孤児たちだと言う。



その子供たちが演じる内容はシロウトぽさがありながらも、実体験に裏打ちされた朴訥とした行動から目が離せない。
特に、病気の義坊を背負った豊が急な斜面を、これでもかこれでもかと山を登る長いシーンは胸を打つ。

偶然に上映会を知って、この作品を観に行った。
そのようなチャンスに巡り会えて幸せだったと思う。
そしてこのような作品を地道に上映される方々に頭が下がる思いがした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『シチリア・サマー』を観て

2023年11月17日 | 2020年代映画(外国)
初めてオンライン試写会に当選したので、早速観てみた。
題名は、『シチリア・サマー』(ジュゼッペ・フィオレッロ監督、2022年)。

1982年、初夏の日差しが降りそそぐイタリア・シチリア島。
バイク同士でぶつかり、気絶して息もできなくなった17歳のジャンニに駆け寄ったのは、16歳のニーノ。
育ちも性格もまるで異なる2人は一瞬で惹かれあい、友情は瞬く間に激しい恋へと変化していく。
2人で打ち上げた花火、飛び込んだ冷たい泉、秘密の約束。
だが、そんなかけがえのない時間は、ある日突然終わることに──。
(公式サイトより)

観た後で感じたのは、甘い同性愛の感じを受ける公式サイトのストーリーの違和感。
実際の内容は、ニーノの家族絡みの話であり、片やジャンニの家庭の内情。
そこの辺りが十分に描かれている上での、ゲイであるジャンニに対する周囲にいる若者たちや世間の反応。
そんなジャンニと偶然知り合ったニーノ。
新しい仕事を求めるジャンニとそれに関わるニーノの、二人の心の交流。
だから決して、公式サイトのストーリーにあるような、あからさまな感じの関係ではなく、秘めたままの友情以上の心情と言ったところ。

最近は同性愛者に関する作品もたくさん作られるし、世の中もまだまだと言え、その事に以前より理解が進むようになってきた。
だから、この作品も主人公であるニーノとジャンニに対して肯定的な作りとなっている。
ところが公式サイトでは、“2人の美しい少年が死んだ──。”と、おっぴらげに披露しているから、これは作品に対するルール違反でないかと思う。
そのことがわかるのは、映画が終わってからの字幕である。
そして実際にあった話ということも。
そのことは本来書いてはいけないと思うけれど、公式サイトがバラしているから、まぁいいかとも思う。

いずれにしても、作品としてはよく出来ていて一気に観れたけど、最後の字幕にあった二人の死に至る実情が知りたいと、心残りもした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『CLOSE/クロース』を観て

2023年07月26日 | 2020年代映画(外国)
『CLOSE/クロース』(ルーカス・ドン監督、2022年)を観てきた。

花き農家の息子のレオと幼馴染のレミ。
昼は花畑や田園を走り回り、夜は寄り添って寝そべる。
24時間365日ともに時間を過ごしてきた二人は親友以上で兄弟のような関係だった。

13歳になる二人は同じ中学校に入学する。
入学初日、ぴったりとくっついて座る二人をみたクラスメイトは「付き合ってるの?」と質問を投げかける。
「親友だから当然だ」とむきになるレオ。
その後もいじられるレオは、徐々にレミから距離を置くようになる。

ある朝、レミを避けるように一人で登校するレオ。
毎日一緒に登下校をしていたにも関わらず、自分を置いて先に登校したことに傷つくレミ。二人はその場で大喧嘩に。

その後、レミを気にかけるレオだったが、仲直りすることができず時間だけが過ぎていったある日、課外授業にレミの姿はなかった・・・
(オフィシャルサイトより)

思春期のころ、誰にでも経験がありそうな、端から見て兄弟以上にみえる二人の友情。
と言うか、精神的には友情よりもっと深い恋愛に近い関係か。
それを中学に上がり、周囲から冷やかされる。

そのことをレオは意識し出すが、レミとしてはレオの態度に納得がいかない。
通常は、若かったころの一時期の二人の関係で終わりそうなものを、この作品ではそのようにはならなかった。

傷つくレミ。
そして、レミがいなくなった後のレオの後悔。
取り返しがつかなくなってしまった喪失感。
それを引きずって行かなければならなくなってしまって深く傷つくレオ。

ラスト、花畑でこちらに振り返るレオの顔。
その表情は、こちらの胸に深く染み入り、今後忘れることができないではないか。
重く響いてくるこの作品に出会ったことに感謝したい。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『子供たちは見ている』を観て

2023年07月20日 | 戦前・戦中映画(外国)
『子供たちは見ている』(ヴィットリオ・デ・シーカ監督、1943年)を、県図書館からDVDを借りてきて観た。

中流家庭のアンドレアとニーナは、息子プリコと共にローマ郊外のアパートに住んでいた。
家庭は一見幸福そうにみえたが、実はニーナにはロベルトという愛人がいた。

その日もニーナは、プリコと散歩がてら公園に行き、プリコが人形芝居などに夢中になっている間を利用してロベルトと密会した。
ニーナはそこで、ジェノヴァ行き列車で駆落ちしようとロベルトに迫られ、夜、アンドレアの留守を見計って家を出た。

プリコを残されて困ったアンドレアは、取りあえず洋裁店を経営しているニーナの姉の許にプリコをあずけ、翌日、田舎に住む自分の母のところへ連れて行った。
母は娘パオリーナにプリコの世話をいいつけたが、ある晩パオリーナが恋人と密会している時、それを垣間見たプリコは誤って彼女の頭上に植木鉢を落してしまい、
その結果、またアンドレアの許に戻されてしまった・・・
(映画.comより修正して一部抜粋)

その後、プリコが高熱を発したためかそれを知ったニーナは、再びプリコと夫の元に戻ってくる。
アンドレアはプリコのためにニーナとよりを戻し、三人の生活は平穏となってリゾート地へ海水浴に出かけた。
ところが、どこで知ったのかそこへロベルトが現われる。

ロベルトは再び執拗にニーナを口説く。
社用でアンドレアが先に帰ったのを利用し、ロベルトとニーナは束の間の逢瀬を楽しんだ。
それを見てしまうプリコ。
母親が自分から去って行くのではないかと考えるプリコは、ローマの父の元へ帰ろうと一人、鉄道線路をとぼとぼと歩きつづける。

まだその先は続くが、プリコが母親とロベルトの仲を目撃する場面は先の公園でもあり、要は大人の事情で、頼るべき親から見放される子供の状況が映し出される。
子供の視点から大人の世界ないし社会を見たデ・シーカの名作『靴みがき』(1946年)、『自転車泥棒』(1948年)の原点はこの作品からかなと、やや甘い出来としても納得できる内容だった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『悪魔の発明』を観て

2023年07月09日 | 1950年代映画(外国)
DVDで『悪魔の発明』(カレル・ゼマン監督、1958年)を観た。

科学者のトマ・ロック教授とその助手アールは、新型爆弾の開発をしていた。
しかし、完成まであとわずかなところで、彼らは何者かによって拉致されてしまう。

事件の黒幕は大富豪のダルティガス伯爵。
彼はロックの開発した爆弾を使って世界征服の野望を燃やす。
ロックに爆弾の完成を急がせるダルティガス。
一方、監禁されていたアールは世界中にSOSを発信するのだが・・・
(DVDパッケージより)

ロック教授の助手アールの冒険談として、物語は進む。
場所は、大西洋航路にあるダルティガス伯爵の根拠地である死火山バックカップ島。
ここにロック教授とアールが拉致されてくる。
相手は伯爵のほかに、海底都市の設計者の科学者セルコと船長スペードたち。

伯爵たちは、所有する潜水艦によって南大西洋で最大の商船アメリアを撃沈する。
そして大破し海底に沈んだアメリアから財宝を運び出す。

片や、偉大な発明が悪魔の手に渡るのを阻止しようとするアール。
幽閉されている小屋から、早く世界に知らせようと手紙を書いて気球を飛ばす。
と、言うように話は進んでいく。

この作品は、チェコ・アニメの三大巨匠のひとりカレル・ゼマンがジュール・ヴェルヌの原作を
ストップモーションアニメ、切り絵、銅板画、実写を合成して作り上げた特撮冒険SF映画という謳い文句のしろもの。

確かに実写とアニメ、銅板画が見事に溶け込んでいて仮想空間というより、もっと現実感により近いと錯覚したりする。
今は冷静にそのような感想を述べたりしているが、例えばこの作品を10代前半に観たのならば、
そのインパクトにより後々まで私に何らかの形で影響を与えた作品だったのではないかと思える。
そんな貴重な体験を今回のDVDで得たりした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『青いカフタンの仕立て屋』を観て

2023年06月30日 | 2020年代映画(外国)
『青いカフタンの仕立て屋』(マリヤム・トゥザニ監督、2022年)を観てきた。

モロッコの海沿いの旧市街、サレ。
失われゆく当国の伝統を守る路地裏の小さな仕立て屋夫婦。

父から受け継いだ仕立て屋で、極上のカフタンを制作する職人のハリム。
昔ながらの手仕事にこだわる夫を支えるのは、接客担当の妻ミナだ。
25年間連れ添った2人に子どもはいなかった。

積み上がる注文をさばくために、2人はユーセフと名乗る若い男を助手に雇う。
余命わずかなミナは、芸術家肌の夫を1人残すことが気がかりだったが、
筋がよく、ハリムの美意識に共鳴するユーセフの登場に嫉妬心を抱いてしまう。
湧き出る感情をなだめるように、ミナは夫に甘えるようになった。
ミナ、ハリム、そしてユーセフ。
3人の苦悩が語られるとき、真実の愛が芽生え、運命の糸で結ばれる・・・
(公式サイトより)

寡黙で職人肌のハリムと、仕上がり期間の不満を述べる客に健気に応対する妻のミナ。
そのハリムの仕事は、布を選んで糸を撚り、緻密な刺繍を施して唯一無二の製品とすること。
そこへ雇われた若い男、ユーセフ。

注文の青いカフタンを仕立てていく中での日常風景。
それは生活空間での数少ない会話だったりする。

前段、起伏の少ない物語の流れに、ひょっとしたら着いていけなくなって眠くなるかなと不安になる。
だが、観ている中でわかってくるミナの不治の病。
ハリムの同性愛の性向とユーセフにもある同じ性向。

モロッコでは、同性愛はタブーであり犯罪でもある。
だからハリムはそれを表に現わさないように内向する。

3人が、それぞれの立場でそれぞれの相手を思いやる。
人が人を愛するとはどのような意味なのか。
この作品は、そのことを静謐ともいえる画面と相まって教えてくれる。

じんわりと余韻を残し、心の深いところに静かに突き刺さってくる、見慣れないモロッコからの作品。
当女性監督の前作品、『モロッコ、彼女たちの朝』(2019年)は是非観なければと強く感じた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『怪物』を観て

2023年06月09日 | 日本映画
『怪物』(是枝裕和監督、2023年)を観て来た。

大きな湖のある郊外の町。
息子を愛するシングルマザー、生徒思いの学校教師、そして無邪気な子どもたちが平穏な日常を送っている。
そんなある日、学校でケンカが起きる。
それはよくある子ども同士のケンカのように見えたが、当人たちの主張は食い違い、それが次第に社会やメディアをも巻き込んだ大事へと発展していく。
そしてある嵐の朝、子どもたちがこつ然と姿を消してしまう・・・
(映画.comより)

上のあらすじは、本編を観たイメージと随分かけ離れていると思うが、自分であらすじを書き始めるのも面倒なのでそのまま載せた。
要は、シングルマザーの麦野早織には小学5年2組の息子・湊がいて、二人は仲睦まじい親子である。
その湊の言動で早織は、担任教師の保利から息子がいじめ、体罰を受けているとの疑念を抱き、小学校へ事情を聞きに行く。
だが、校長以下、学校の対応はのらりくらり。
早織は納得できずに次第にいら立ちを募らせていく。

と、学校における教師から生徒に対する社会問題化の作品だと納得して観ていると、保利教師の立場からするとどうも違うらしい。
保利先生は子ども想いのいい先生なのである。
ではなぜ、湊は事実と違うウソをつくのか。
そこにはクラスメイトの星川依里(より)との関係が横たわっている。

この作品、物語に飽きを来させず一気に最後まで見せる。
ただ、意表を突くような感じの箇所もあって、その解釈は観客に任せたりする。
特にラスト場面の明るさは、十分に意味合いを持たせてあるはずである。
湊がよく「生まれ変わり」のことを口にしていたから私なりの想像はするが、上映し出したばかりの作品だから自分の解釈は言わないでおこうと思う。
もっともっと具体的な内容に即して書きたく心残りもあるが、残念である。
それにしても、見応えのある作品だったと満足した。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『トリとロキタ』を観て

2023年04月01日 | 2020年代映画(外国)
『トリとロキタ』(ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ兄弟、2022年)を観てきた。

ベナン出身のトリとカメルーン出身のロキタ。
ふたりはアフリカからベルギーへたどり着く途中で出会い、強い友情の絆で結ばれていた。
ロキタは、すでにビザが発行されているトリの姉と偽り、ビザを取得しようとしていた。

トリとロキタはイタリア料理店の客に向けてカラオケを歌って小銭を稼いでいる。
しかし、それは表向きで、実はシェフのベティムが仕切るドラッグの運び屋をしている。
今日もベティムに指示され、ドラックを客のもとへと運ぶ。
警察に目をつけられたり、常に危険と隣り合わせだ。
ときに理不尽な要求もされる。それでも受け入れるしかない。
人としての尊厳を踏みにじられる日々だが、トリとロキタは支え合いながら生活していた。

ある日、ベルギーへの密航を斡旋した仲介業者から、祖国の母親へ送金する金を奪われて落胆するロキタ。
夢は、誰にも邪魔されずに祖国に仕送りをして、ふたりでアパートを借りて暮らすこと。
一刻も早く、ビザを手に入れてヘルパーとして働こうと、偽造ビザを手に入れるためにロキタはベティムが提案する孤独で危険な仕事を引き受けていく・・・
(パンフレットより抜粋)

アフリカ中央部西側の国から不法移民としてベルギーにやって来た少年、少女のふたり。
ビザを取得するためにロキタは、トキを弟として姉弟ぶり、努力するが一向に認可されない。
だから、まともな仕事に就けず違法行為をしながらしか食べていけない。
映画は、背景となる社会性はぼかしながら、ふたりの現実そのものを切り取っていく。
その手法はさすがダルデンヌ兄弟であると唸らせるし、シロウトでありながら主役ふたりの生き生きとした姿が素晴らしい。
そして、深い友情の絆。その深さは、そうでなければ社会から潰されてしまう、という危うさも漂わせる。

それに加えてサスペンスの要素も十分に加味しながら、一気に最後まで見せる。

ダルデンヌ兄弟が意図すること、そのことは観る者すべてに明白に伝わってくる。
何もベルギーに限ったことではない、世界は、無数の子ども達にこのような負の世界を背負わせているのではないか。
そのような訴えがみえてくる。
この作品は久々にみる近年にない傑作だと感じた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「大江健三郎」 氏の逝去の報に接し

2023年03月13日 | 本(小説ほか)
「大江健三郎」 氏が亡くなったという。
3月3日、老衰だとのことである。まだ88歳だったというのに。
そう言えば、もう何年も近況の情報が聞けなかった。
今現在、どのように過ごしてみえるのかと気にはなっていた。

このブログ記事は書かないでおこうと思った。
しかし、後々、大江はいついなくなってしまったのだろうと振り返ってみた場合のためにメモしておきたい。

私が大江健三郎の作品に衝撃を受けたのは、家にあったそれこそ初期の全集の中の『奇妙な仕事』、『死者の奢り』を読んだのがきっかけだった。
なぜ、学生がこのような作品を書けるのか、そのテーマの捉え方にとてもではないが想像を絶するものを感じた。
私は大江よりそれこそ『遅れてきた青年』だったとしても、同じ20歳前後の人間として共感以上のものを感じた。
それ以後、『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』(1969年)からは同時代の人間として、新刊が出るたびにそれを手にした。

20代後半には講演を聴くチャンスにも巡り会え、あの四国の森の谷間の村についての歴史や伝承は、いつしか私の確固たるイメージ世界となって行った。
その世界ばかりでなく退職をしたら未読となっている作品を余生の糧として、ノンビリすべて読もうと考えていたが現実は案外と難しくて、
あの多大な作品数の中で、まだ3分の1ぐらいは未読のままとなっている。
でありながらも、大江健三郎は私にとって常に身近な存在としてあり、ものの見方、考え方はそこから吸収してきたと思っている。

今回の訃報を機に、今後もこの作家の作品を少しずつでも読み続けていきたいと心を新たにした。
ご冥福をお祈りいたします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする