ポケットの中で映画を温めて

今までに観た昔の映画を振り返ったり、最近の映画の感想も。欲張って本や音楽、その他も。

『ぼくが生きてる、ふたつの世界』を観て

2024年09月29日 | 日本映画

『ぼくが生きてる、ふたつの世界』(呉美保監督、2024年)を観てきた。

宮城県の小さな港町。
耳のきこえない両親のもとで愛情を受けて育った五十嵐大にとって、幼い頃は母の“通訳”をすることもふつうの日常だった。
しかし成長するとともに、周囲から特別視されることに戸惑いやいら立ちを感じるようになり、母の明るさすら疎ましくなっていく。
複雑な心情を持て余したまま20歳になった大は逃げるように上京し、誰も自分の生い立ちを知らない大都会でアルバイト生活を始めるが・・・
(映画.comより)

聴覚障がいの人が身近にいないためか、聞こえない親のもとで育った聞こえる子の生活、ひいてはその精神的な負担について考えたこともなかった。
そのことを作品は気付かさせてくれた。
主人公の五十嵐大は、この作品の原作者の名そのもので、自伝的エッセイとして書かれているという。
だから内容的にリアルさがあり、大は小さい頃から、手話による親と世間の橋渡しが当然のように行動していた。
しかし、徐々に自分の家族と世間の家族のギャップを知り、中学生の頃には、親に距離を置くようになっていき反抗的な態度を取るようになる。

大は、自身の家族のことの悩みを打ち明ける機会も相手もほとんどいない。
だから孤独だと思う。
そのためだろう、それを振り払うように東京へ。

この作品で、聞こえない親のもとで育った聞こえる子のことを“コーダ”と言うことを初めて知った。
以前『コーダ あいのうた』(シアン・ヘダー監督、2021年)を観ていても“コーダ”の意味を考えずに通り過ぎていた。
このような“コーダ”が日本には2万数千人いることを今回教えてもらった。

作品の作りそのものも素晴らしく、素直な気持ちで感動させてもらった。
そして、今年のベストワンと言える秀作だと言い切れるほどだなと思った。

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『ソウルの春』を観て

2024年08月31日 | 2020年代映画(外国)

『ソウルの春』(キム・ソンス監督、2023年)を観てきた。

1979年10月26日、独裁者とも言われた大韓民国大統領が、自らの側近に暗殺された。
国中に衝撃が走るとともに、民主化を期待する国民の声は日に日に高まってゆく。
しかし、暗殺事件の合同捜査本部長に就任したチョン・ドゥグァン保安司令官は、陸軍内の秘密組織“ハナ会”の将校たちを率い、
新たな独裁者として君臨すべく、同年12月12日にクーデターを決行する。

一方、高潔な軍人として知られる首都警備司令官イ・テシンは、部下の中にハナ会のメンバーが潜む圧倒的不利な状況の中、
自らの軍人としての信念に基づき“反逆者”チョン・ドゥグァンの暴走を食い止めるべく立ち上がる・・・
(オフィシャルサイトより)

9代大統領の朴正煕が暗殺された後の、イ・テシン首都警備司令官とチョン・ドゥグァン国軍保安司令官がメインの政治劇。
フィクションなのだが歴史的実話を基にしているので、首都警備司令官は張泰玩(チャン・テワン)であり国軍保安司令官は全斗煥(チョン・ドゥファン)となる。

そして、12月12日の夕方からの“ハナ会”を率いての全斗煥の軍事反乱。
正規軍と反乱軍によるソウル攻防。その時間は9時間ほど。
それをこの作品は、アクションシーンをほとんど使わずに緊迫した会話劇で一気に突き進む。

映画の中で、チョン・ドゥグァンの「失敗すれば反逆罪!成功すれば革命だ!」という言葉。
皮肉なことに歴史は、全斗煥の革命が成功したということになって行く。

当時、全斗煥のクーデターニュースを耳にしても韓国の深い実情は知らず、今回、このようなことが起きていたのかと改めて勉強になった。
当然その後、1980年5月の学生・市民の民主化要求に対する武力弾圧“光州事件”となって行くわけだが、そのことも詳しくは知らない。
それらに関する韓国映画もあることだし、これをキッカケに韓国の現代史を知ってみたいと感じた。

この作品に関して欲を言えば、クーデターを起こすほどのチョン・ドゥグァン保安司令官なのでその役ファン・ジョンミンが、もっとドス暗い内面を秘める演技をすると、
ヒシヒシと迫る威圧感と凄みが表現され、圧倒的な存在感が醸し出されるのではないかと感じた。

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グザヴィエ・ドラン・3~『わたしはロランス』

2024年08月26日 | 2010年代映画(外国)

『わたしはロランス』(グザヴィエ・ドラン監督、2012年)を観た。

カナダ・モントリオール。
国語教師をしながら小説を書いているロランスは、35歳の誕生日を迎え、交際相手のフレッドにある告白をする。
それは、自分の身体の性に違和感を持っており女性になりたいと思っているということだった。
この告白にショックを受けたフレッドは、これまでに二人が築いてきたものが偽りであるかのように思えてしまい、ロランスを非難する。
しかしかけがえのない存在であるロランスを失うのを恐れ、フレッドはロランスの良き理解者となることを決意。
ロランスに女性の立場からメイクなどについてアドバイスするが、モントリオールの田舎町では偏見を持たれ、彼らに対する風当たりは強かった・・・
(MOVIE WALKER PRESSより)

カミングアウトするということ。
女性になりたい願望のロランスはフレッドにそのことを打ち明ける。
ただ、ロランスはその願望があっても男性を好きになるわけではなく、女性のフレッドを深く愛している。
ショックを受けるフレッドはロランスを愛するがうえに理解者として努力する。
しかし、女装したロランスに世間の目は冷たい。
それが故に、ロランスは職を失い、やがてフレッドはうつ病となっていく。

やがて二人は別れ、ロランスは理解者シャルロットを得、フレッドは彼氏アルベールと結婚しレオを産む。
そんなロランスとフレッドだが、内心の愛は変わらない。
再会した二人の、雪積もるケベック州の小島“イル・オ・ノワール”への逃避行。

ロランスは自分に正直でありたいのに、フレッドはロランスを男として愛したい。
その葛藤故にまたしても別れ。
数年後、再びバーで再会する二人だったがそこでも口論になり、それが決定打となり、秋の気配の中、完全に別々の道を歩み出す。

ラストでの、1987年の二人の出会いのシーン。
あれから時は経ち、もうすぐ21世紀、その長きに渡るロランスとフレッドの愛の軌道。

作品は2時間50分近くの長さがあるが、その間退屈さを感じさせない。
要所要所に現れるビジュアル化された映像とか、二人の言い合いにおける素早いカメラの動き。
二人が感情を露わにするロランス役のメルビル・プポーとフレッド役のスザンヌ・クレマンの心情表現の凄さ。

監督のグザヴィエ・ドランは、自身が“ゲイ”であることを自認していることもあってか、感情の機微の表し方がとても20代前半の人間とは思えないほど卓越している。
この作品はとても重要だと感じるので、再度機会を見つけて観てみたいと思う。

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『フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン』を観て

2024年08月03日 | 2020年代映画(外国)

『フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン』(グレッグ・バーランティ監督、2024年)を観てきた。

1969年、アメリカ。
人類初の月面着陸を目指す国家的プロジェクト「アポロ計画」の開始から8年が過ぎ、失敗続きのNASAに対して国民の関心は薄れつつあった。
ニクソン大統領の側近モーは悲惨な状況を打開するべく、PRマーケティングのプロフェッショナルであるケリーをNASAに雇用させる。
ケリーは月面着陸に携わるスタッフにそっくりな役者たちをメディアに登場させて偽のイメージ戦略を仕掛けていくが、
NASAの発射責任者コールはそんな彼女のやり方に反発する。
ケリーのPR作戦によって月面着陸が全世界の注目を集めるなか、「月面着陸のフェイク映像を撮影する」という前代未聞の極秘ミッションがケリーに告げられる・・・
(映画.comより)

60年代末までに人類初の月面着陸を成功させると、ケネディ大統領が掲げたアポロ計画。
映画は、そのアポロ計画中のアポロ11号にまつわる事柄を、実は極秘でフェイク映像も撮影していたという内容に置き換えたコメディタッチの作品。
そして、ケリーとコールを中心とした二人のラブストーリーは、よくあるアメリカ映画そのものらしい雰囲気。
クライマックスにあたるフェイク映像で行くか実映像で行くかとなる肝心な重要場面では、少し手抜き過ぎているんじゃないかと思うけど、
まあそれもいいかと認めてしまう、そんな中々面白い作品だった。

それにしても実際問題として不思議なのは、当時ソ連と宇宙飛行競争をしていたとしても、現在の段階で再度月面着陸して月の調査をしようとしないことの疑問。
勿論、莫大な国家予算が必要だとしても、あれから50年以上経った今では飛躍的に科学技術は進歩しているはずである。
それを行なおうとしないから、アポロ11号の月面着陸は、この作品を含めフェイク映像でどうのこうの、あれは嘘で、捏造されたと主張される所以だと思う。

これに関連して、映画『カプリコン・1』(ピーター・ハイアムズ監督、1977年)を思い出す。
有人火星探査宇宙船にまつわる話で、ロケットの打ち上げ寸前に故障が発覚。
関係当局は大掛かりなセットを組んで、人類初の火星着陸の中継映像を捏造するというもの。
随分と昔に観たが、あの作品は傑作で面白かったと今でも認識している。

 

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グザヴィエ・ドラン・2~『胸騒ぎの恋人』

2024年07月20日 | 2010年代映画(外国)

『胸騒ぎの恋人』(グザヴィエ・ドラン監督、2010年)を観た。

ゲイのフランシスとストレートのマリーは姉と弟のような親友同士。
ある日、2人は友人らとのパーティで1人の明るく社交的な美青年ニコラと出会う。
フランシスもマリーも口では好みでないと言いながらも、ニコラに一目惚れする。
そんな2人とニコラは友人として親しくなり、3人で遊ぶことも増える。

フランシスもマリーもそれぞれセックスの相手には不自由していなかったが、
無邪気なニコラと親しくなるに従って、ニコラへの想いを募らせて行く。
マリーがニコラに対して積極的なのに対し、フランシスはマリーを気遣ってニコラに対しては遠慮がちであったが、
3人で小旅行に行った先で、ニコラと楽しげに戯れるフランシスに嫉妬したマリーは、フランシスと取っ組み合いの喧嘩を始めてしまう。
その様子を目撃したニコラは、この出来事以降、2人と距離を置くようになる。
そんなニコラへの想いを抑え切れなくなったフランシスとマリーはそれぞれニコラに告白するが、ニコラはきっぱりと拒絶する・・・
(Wikipediaより)

ニコラに想いを寄せるフランシスとマリー、その三角関係の進み具合は、内容的にさして深みがある感じがしない。
でも、飽きなく見せる手腕は評価できるんじゃないかと思う。
映像が時にアートぽかったり、進行テンポも手際よかったりするためだろうか。

映像自体は目新しそうで、いつかどこかで観たような記憶が蘇る。
1960年代のジャン=リュック・ゴダール辺りだろうか。それも昔のことで定かではないが。
そうだ三角関係と言えば、『突然炎のごとく』(フランソワ・トリュフォー監督、1962年)があった。
青年ジュールとジムがジャンヌ・モロー扮するカトリーヌに同時に恋する話だった。
その作品を観たのは10代の時だったので、記憶もあやふやになっている。
ジャンヌ・モローが歌う「つむじ風」ももう一度聴いてみたいので、是非、再度観てみたい気がする。

そんなことを思わせるグザヴィエ・ドランの第2作目作品だった。

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グザヴィエ・ドラン・1~『マイ・マザー』

2024年07月17日 | 2000年代映画(外国)

『マイ・マザー』(グザヴィエ・ドラン監督、2009年)を観た。

17歳の少年ユベール・ミネリはカナダ・ケベック州の何の変哲もない町でごく普通に暮らしていたが、
ここのところ自分の母親が疎ましく思えてどうしようもなかった。
洋服やインテリアを選ぶセンスのなさ、口元には食べカスをつけ、口を開けば小言ばかりと、母親の一挙手一投足が癪に触っていた。
母親を受け入れ難く思う一方、理由もなく苛立ってしまう自分にも嫌気がさしていた・・・
(MOVIE WALKER PRESSより)

観たことがないグザヴィエ・ドランの監督作品を今後観て行こうと思う。
まずは、19歳の時の初監督作品で脚本、主演も兼ねた半自伝的な内容という本作。

青年期特有の現象と言っていいのか、二人暮らしをしているユベールの過剰な母親への反撥。
その鬱屈した母親に対する態度の中には、幼かった頃に注がれていた愛情たっぷりの生活の裏返しが潜んでいたりする。
ユベールは独立して一人生活をしたいのに、まだ子供としてしか認めて貰えず、挙げ句の果ては寄宿学校へ行かされてしまう。
そんなユベールは同性愛者であったりするので、それを他から教えて貰った母親は動転するより仕方がなかった。

親との不和、愛情と嫌悪、それに対するユベールの苦悩が目いっぱいに描かれていて、筋としてはほぼそのことで終わっている。
だから内容の起伏は貧しいとしても、19歳の青年がこれぼどまでに出演者の人間性を生かし切っている現実に感心させられる。
それ程才能がほとばしっている、と言っていいのではないかと納得した。 

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『ホールドオーバーズ』を観て

2024年07月05日 | 2020年代映画(外国)

『ホールドオーバーズ 置いてけぼりのホリディ』(アレクサンダー・ペイン監督、2023年)を観てきた。

1970年12月の、ボストン近郊にある寄宿制の名門バートン校。
誰もが家族の待つ家に帰るクリスマス休暇が近づく。
しかし、学校に残る者たちもいた。

生真面目で融通が利かず、皆に嫌われている古代史の教師ハナム。
彼は冬休み返上で、帰れない生徒の面倒をみることに。
学校に残る生徒の一人は反抗的なアンガス。
ベトナム戦争で息子を失ったばかりの料理長メアリーも一緒にクリスマスを過ごすこととなる。
孤独な彼らにはそれぞれ心を開かぬ理由があった・・・
(パンフレットより)

最初は学校に居残っていた他の4人の生徒もいなくなり、ただ一人だけ楽しみを奪われてしまったアンガス。
心を開かず反抗的な態度をとるアンガスと、偏屈で堅物のハナム。
それに、料理の世話をするメアリーを加えた2週間のクリスマス休暇。
いやが上でも疑似家族のように過ごすはめになる3人。

そんな3人にも、個々にそれぞれの心の奥にしまい込んでいる事情がある。
そんな事情はおいそれと簡単には他人に開かせられない。
それでもクリスマスの夜のころには、少しずつ結びつきが生まれて来ている。
そしてアンガスには特別の意味合いがあるボストンへ3人で行き、そこでの行動がお互いの絆をより一層深める。

ハナムの心の内を知ることによって彼の人生を垣間見、この2週間の間にアンガスの成長に多大な影響を与えただろうと、誰もが想像する。
そして、ハナムは何も偏屈だけではない彼の行動を見て、より一層感動する。

この映画は心温まるという通り一遍の言葉を遙かに超えた真に優れた作品だと言い切れる力を持っていると、私は確信している。

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『モヒカン族の最後』を観て

2024年07月02日 | サイレント映画(外国)

『モヒカン族の最後』 (モーリス・トゥールヌール/クラレンス・ブラウン監督、1920年)を観た。   

英仏双方で大規模な植民地戦争が続いていた1757年のアメリカ。
フランス軍に荷担するヒューロン族のために滅亡寸前に追い込まれたモヒカン族の酋長サーペントは部族存続のためイギリス軍と手を組む。
折からのフランス軍の侵攻を告げるためサーペントは息子アンカスをエドワード砦に走らせる・・・
(allcinemaより)

エドワード砦ではマンロー連隊長の娘コーラや妹アリスたちがダンスなどをして何不自由なく暮らしている。
そこへアンカスが危険を知らせにやって来る。
アンカスを見て、コーラは若き酋長に恋心を抱く。

ウイリアム砦ではマンロー連隊長率いるイギリス軍がフランス軍の攻撃に対して激しい防戦を繰り広げていた。
マンローは、エドワード砦にいるウェッグ将軍に3000人以上の兵員補充を願い出るため、インディアンのマグアを伝令として送る。

参謀たちの会議で兵員補充が決定し、ウイリアム砦に向かって連隊の大移動が始まる。
コーラとアリスも父親と再会するいいチャンスだと一行と共に出発し、途中、森を抜ける近道を知っているマグアに従い別行動をとる。
実はこのマグア、イギリス軍側のインディアンではなく、ある時勝手に雲隠れしてしまう。
コーラらが道に迷っていると、アンカスら3人と出会って誘導してもらうが、そこにマグア一味のインディアンが襲ってくる。

と言うような、一難去ってまた一難のアクション。
特に、ウイリアム砦からのイギリス軍の家族共々の撤退、それを襲うフランス軍側ヒューロン族による大虐殺。
ラスト近くのクライマックス、大絶壁の上でのアンカスとマグアの格闘等。
これが本当に100年前の作品なのか、と唸らずにはおられなかった。 

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『関心領域』を観て

2024年06月21日 | 2020年代映画(外国)

『関心領域』(ジョナサン・グレイザー監督、2023年)を観てきてから1週間が経ってしまった。

第2次世界大戦下のポーランド・オシフィエンチム郊外。
アウシュヴィッツ強制収容所を囲む40平方キロメートルは、ナチス親衛隊から関心領域と呼ばれた。
収容所と壁を1枚隔てた屋敷に住む所長とその家族の暮らしは、美しい庭と食に恵まれた平和そのもので・・・
(映画ナタリーより)

きれいな屋敷と庭園。
アウシュビッツ強制収容所所長・ルドルフ・ヘスと妻、そして乳飲み子を含めた5人の子供にとっての居心地のよい生活環境。
時には、家の近くのソラ川の川沿いで、家族揃って乗馬やピクニックをする。
穏やかな日々。
ただ、家のすぐ横の塀の向こうにあるのは強制収容所という事実。
そこから何か聞こえてくるのは、微かな怒鳴り声や叫び声らしきもの。
そして青く澄み切った空の向こうからの黒っぽい煙。
そんな状況の中でも、家族にとって塀の向こう側のことは関心がなく、ただただ幸せ一杯の日常である。

作品は、アウシュビッツ強制収容所の実態は描写せず、ルドルフ・ヘスの家庭の幸福な一面を見せることによって、その悲惨な状況格差を表現しようとする。
ただ、そのような暗示的表現が観客にとって心にストンと落ち込んできて情動化されるのかというと、少し疑問も残る。
それは多分、塀の向こうの暗喩を表現するために、こちら側の家庭の幸福を強調しようとする監督の奇をてらう方法が見えてしまうためではないか。

この作品によって、また一つアウシュヴィッツ強制収容所関係ものを観たという思いと共に、少しシックリ来なかった後味も残った。

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『人間の境界』を観て

2024年06月08日 | 2020年代映画(外国)

『人間の境界』(アグニエシュカ・ホランド監督、2023年)を観た。

「ベラルーシを経由してポーランド国境を渡れば、安全にヨーロッパに入ることができる」という情報を信じ、
幼い子どもを連れて祖国シリアを脱出した家族。
やっとのことで国境の森にたどり着いたものの、武装した国境警備隊から非人道的な扱いを受けた末にベラルーシへ送り返され、
さらにそこから再びポーランドへ強制移送されることに。
一家は暴力と迫害に満ちた過酷な状況のなか、地獄のような日々を強いられる・・・
(映画.comより)

中東やアフリカからの移民・難民たちがベラルーシ・ミンスク空港に降り立つ。
その中の、幼い子供2人と乳飲み子、年老いた父親もいるシリア人夫婦の一家。
そして、飛行機の中で知り合ったアフガニスタンの女性。

時は2021年10月。
シリア人一家を含めた難民たちがベラルーシ西側にある森林の鉄条網からポーランド側に入る。
しかし、ポーランドに来た喜びの難民たちの前に立ち現れる国境警備隊。

強制的に再度、ベラルーシ側に送り返される難民たち。
その扱いは非人道的で物扱いである。
そしてベラルーシ側も見つけた者を片っ端らにポーランド側に送り込む。
凍てつく国境付近の森の中を右往左往する難民たち。
食べ物もなく水さえ手に入らない。
国境警備隊員にお金を差し出し、やっと手にできると思ったペットボトルの水は、その警備隊員が目の前で地面に流す。

この作品は4つの章に分かれていて、まず「難民」側、そして「国境警備隊」側、次に「難民支援者」、
続いて「難民と遭遇した女性精神科医が支援者」として自覚していく様子。
そしてラストに「エピローグ」が付く。

このように多角的視点からの物語を、メリハリの効いたモノクローム映像で表出されるため、正しくドキュメンタリーそのものと錯覚するほどの緊迫感を醸し出す。
そして驚くのは、このような完璧な作品を僅か1ヶ月以内の撮影で行なったということ。
私がこの作品に衝撃を受けるのは、難民の苦悩は当然のこととして、国境警備隊員の自分の任務に対する疑問、苦悶。
人道支援者が難民を救助しようとしても、その立ち入り禁止区域内に入れば自分が逮捕されるため十分に活動ができないということ。

ポーランド政府は、このような国境近くに立ち入り禁止エリアを設けることによって、難民を宙ぶらりんの状態に置く。
それをこの作品はえぐり出し、問題提起する。
そして痛烈な政権批判として、「エピローグ、2022年2月26日」で、政府が人道支援として隣国ウクライナから2週間で200万人もの難民を受け入れ、
国境警備隊員たちはウクライナ難民に対して良き人たちだった事実を描く。

ではなぜ、ベラルーシが大量の難民を受け入れると見せかけポーランドに送り込んだのかの現実問題は、勿論背景があるがここでは省略したい。

『太陽と月に背いて』(1995年)、『ソハの地下水道』(2011年)の題名は聞いて知っていても、これらがこのアグニエシュカ・ホランド監督作品とは知らなかった。
覚えておこうと思う。

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