ポケットの中で映画を温めて

今までに観た昔の映画を振り返ったり、最近の映画の感想も。欲張って本や音楽、その他も。

マルセル・カルネ・8~『港のマリィ』

2018年06月11日 | 戦後40年代映画(外国)
『港のマリィ』(マルセル・カルネ監督、1949年)を観た。

愛人オディルの父親が亡くなったために、シャトラールは車で、シェルブールからポールの村へオディルを送ってくる。
村あげての葬式。
時間潰しにシャトラールはカフェへ立ち寄る。

葬儀が終わり、オディルの妹マリーに叔父が、弟たちと共に田舎へ行くよう提案するが、マリーはここのカフェで勤めたいと言う。
働くための願いに来たそのカフェで、マリーとシャトラールが出会う。
しかし、声を掛かけて出ていくシャトラールから“義理の妹”と言われても、素っ気ない素振りをするマリーだった・・・

シャトラールは、シェルブールで映画館併用のレストラン付きホテルを経営している。
オディルはシャトラールに対して倦怠期の兆候があり、元々夢見ていたパリに行きたいと思っている。
18歳のマリーには、恋人として理髪師のマルセルがいるが、のぼせているマルセルほどには感情が動かない。

シャトラールは、マルセルの父親の船をオークションで購入したため、その修理を含めポールに頻繁に来るようになる。
そして必然的に、カフェでマリーと顔を合わせることになる。
そんなマリーが恋人のマルセルに、シェルブールに行きたいと言ったりする。

シャトラールにとってマリーは、愛人の妹である。
だから、シャトラールがマリーを気に入っても、そこは中年の大人でもあるし、微妙な雰囲気だけであからさまにはしない。
マリーだってわかっている。
シャトラールに親しみ以上の感情がどこかにあっても、やはり姉の情人ということで警戒心も拭えない。
それでも、この閉塞した漁村からシェルブールに連れて行ってくれる希望も捨てない。

そんな二人の、時が経過してもギクシャクした関係は続く。
中年男の分別と、それに寄り添っていいのか、冷ややかな面持ちで戸惑う大人になる手前のマリー。
それらの場面を、会話の妙で繋いでいく。
そして、今まで笑顔がなかったマリーが、ラストで、幸せの予感の笑みを浮かべる時には、心底感動させられる。

そもそもこの作品の魅力として、シャトラール役を演じているこの時期のジャン・ギャバンの自然体が、とっても素晴らしい。
また、相手役のニコール・クールセルが何と言っても魅力的である。
このニコール・クールセルについては、後に『シベールの日曜日』(セルジュ・ブールギニョン監督、1962年)で、主人公ピエールに寄り添う看護師マドレーヌの思いが印象的で、これまたいつまでも忘れられない。
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ジャン・ルノワール・10~『浜辺の女』

2018年06月06日 | 戦後40年代映画(外国)
『浜辺の女』(ジャン・ルノワール監督、1946年)を観た。

乗船していた船舶を機雷で撃沈された経験がトラウマの、沿岸警備隊のバーネット中尉は、相思相愛の造船所の娘イブと、一刻も早く結婚しようと約束し合う。

靄の立ち込めるある日、馬に乗ったバーネットが浜辺を進んでいくと、古い難破船のところで薪を拾う謎の女ペギーと出会う。
薪運びを手伝うバーネットは、ペギーの家に一緒に行く。
バーネットがその家から帰ろうとした時、丁度、ペギーの夫トッド・バトラーが外出から戻ってきた。

トッドは画家だったが、今は盲目の身になっている。
トッドから歓迎を受けたバーネットだが、勤務のためと言い残し帰っていく。
大雨の日、バーネットの勤務先に現われたトッドを、バーネットは家まで送って行って・・・

盲目のためにペギーに対する所有欲が強くなっている夫のトッド。
それを厭うペギー。
バーネットとペギーの間柄は、急速に接近する。
ペギーはバーネットに言う、「彼の目が見えることを証明したら、別れる」と。

トッドの目は見えるのではないかと疑うバーネットは、浜辺の崖っぷちへとトッドを誘う。
観ているこちらとしても、どうもトッドが盲目らしく見えない。
だから、わざと見えないふりをして、ペギーを拘束し、それを絆にしているのだなと感じてしまわない訳にいかない。
だが、どうだろう。
トッドはどうやら本当に目が見えないらしい、という設定。

真面目に観ていると、何だかだんだんと、いい加減なシナリオがあからさまに見えてくる。
その後ラストまで、明らかにこれはB級作品。
嵐の中を、バーネットとトッドが釣りに出掛け対決するシーンや、ラストの結末なんかは、ふざけているを通り越してそんな設定も傑作のうちだと感心してしまう。

ジャン・ルノワールがこの作品を監督していると言われなければ、とてもルノワールの作品とは思えぬほどの作家性のない、在り来たりの出来である。
要は、単なるハリウッド映画という感じである。
そんな作品を、“allcinema”のように「ミステリアスな水や炎の表現に優れており・・・」と、平然と持ち上げている評もある。
何でもかんでもルノワールの作品だったら神様の作品と考えて、キーワードを当てはめればいいと考えているのか、私には理解のできない評である。
と、このようにこき下ろしても、不思議なことにこの作品は、最後まで興味深く観れた。
なぜか、全く退屈しないのである。
思うにこれは、ペギー役のジョーン・ベネットに陶酔させられてしまったからに違いないためだろう。
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ジャン・ルノワール・7~『南部の人』

2018年04月06日 | 戦後40年代映画(外国)

『南部の人』(ジャン・ルノワール監督、1945年)を観た。

アメリカ南部の移住農業労働者、サム・タッカー一家の物語。
綿花の摘み取り作業中に倒れた叔父の死をきっかけに、サムは独立しようとボスから河岸近くの土地を借り受ける。
希望に燃え、妻ノーナと幼い子供2人、それに年老いた祖母で到着した場所は、荒れ果てた地にある廃屋だった。
それを見た気難しがり屋の祖母が愚痴をこぼす。
サムは早速応急処置に掛かり、ノーナはどうにか住めそうになった家で、コーヒーを入れるのだった・・・

自立しようとする希望と努力、それに対する現実。

まず、肝心の井戸が使えない。
そのために、隣人のデイヴァーズに井戸を使わせてもらうよう頼むが、隣人は偏屈な態度をとる。
デイヴァーズのその態度は、子供のジョディーが栄養失調になり牛乳を分けてもらおうとする時も同じである。
挙げ句は、刃物を使ってのケンカまでに発展する。

そればかりか、農場開拓に付きものの自然を相手とした苦労がサムを襲う。

やっと夫婦の苦労が報われる時期になっての、突然の豪雨。
ぬかるみと化した畑は、見る影もない無惨な姿。
諦めて農業をやめようと考えるサム。

このような現実の中でも、なぜかこの作品はそんなに陰気くさくならない。
例えば、酒場でのドタバタとか、他にも何かにつけジャン・ルノワールらしさがあって、登場人物はめげてしまわない。
隣人のデイヴァーズとの関係でも、あわやと言うところで御都合主義的に改善されてしまいサッパリする。
そして、何といってもタッカー家の夫婦の愛情表現がいい。
こんな夫婦関係だったらお互い頑張ろうかと、自然と納得させるところが憎い。

この作品は、ジャン・ルノワールがナチスを逃れて、アメリカに行って撮った作品の中でも評価が高い。
成る程ラスト近くの、豪雨後の大量に流れる河で、牛を助けようとするサムと友人のシーンを見ると、まさしくルノワールの作品だなと思う。
そして、悲惨な境遇に挫けず希望を持つところがアメリカ的であるようでいて、ルノアール的だなと勝手に解釈する。

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ルネ・クレール・3〜『沈黙は金』

2017年10月05日 | 戦後40年代映画(外国)
『沈黙は金』(ルネ・クレール監督、1946年)を観た。

舞台は、華やかに繁栄したパリの良き時代・ベルエポック期での、映画撮影所。

独身で中年の映画監督エミール。
ある夜、エミールが帰宅すると、若い娘が家の前にひとり立っている。
名はマドレーヌ。
実はこのマドレーヌは、エミールの旧友で寄席芸人をしているセレスタンの娘である。
興行でパリに来ているはずの父を訪ねて来たが、父親は巡業に出たためにどこにいるかわからない。
エミールは、街中にうぶな娘を一人にしておいては危ないと、その夜、マドレーヌを家に泊めてやって・・・

エミールは、マドレーヌの亡くなった母親に恋していた関係もあり、彼女に対して父親のように振る舞う。
しかし、いつしかマドレーヌに恋心を抱いてしまい、浮き浮きするエミール。

片や、エミールの知り合いの若い俳優ジャック。
ジャックとマドレーヌは、偶然に撮影所からの道筋でいっしょになる。
そしてその後、ふたりは徐々に恋に陥る。

ジャックの相手が誰なのかを知らないエミールは、ジャックにあれこれと恋愛についてアドバイスをして。

まさしく、恋愛コメディ。
監督役の“モーリス・シュヴァリエ”が、味があってとてもいい。
それに、マドレーヌ役の“ダニー・ロバン”がチャーミングで、その表情を見ているだけで、我知らず、心も和み楽しくなってしまう。
画面を見ているだけで飽きないとはこういうことかと、ポゥーとしながらウットリ思う。
映画を観て、やっぱし観てよかったなと無条件に思うのは、このような作品と出会った時。
それこそこれは、至福の時を味わえる作品と言えた。
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『しのび泣き』を観て

2017年09月14日 | 戦後40年代映画(外国)
前回の『悲恋』の監督、ジャン・ドラノワの作品を観た。
題は『しのび泣き』(1945年)。

時は1920年。
楽壇を引退し、パリから離れた田舎の豪邸で静かな余生を送っている、バイオリンの巨匠ジェローム・ノブレ。
彼の弟子になりたい若者たちが面会に訪れるが、ジェロームは会わない。
村のはずれに投宿している弟子志願の者たちと、同宿の青年ミシェル・クレメル。

ジェロームの娘アニエスが馬車を駆っていると、ミシェルが道端でバイオリンを弾いている。
ミシェルに好意を抱いたアニエスは、父に引き合わせる手筈を取る。

ミシェルは、自ら作曲したバイオリン曲を弾き、それを聞いたジェロームは言う。
「君は天才だ。だが大いなる才能には、多大な代償がつきものだ。私はアニエスが大事だ。消えてほしい」・・・

ここから、ミシェルとアニエスの悲劇が始まっていく。

ジェローム・ノブレに見放されたミシェルは、作曲した楽譜を燃やして音楽界に見切りをつけ、宿のお手伝いイレーヌと一緒になる決心をする。
それを目撃するアニエス。傷心するアニエス。

1928年。
パリで楽譜出版業を営むアンスロの妻になっているアニエスは、ある雨の夜、裏街の映画館の楽士となっているミシェルと再会する。
偶然の成り行きの二人の再会。

アニエスの力添えで、ミシェル独奏による協奏曲の演奏会が開かれる。
しかし酔って、土壇場で現れるミシェル。
失敗したコンサートの後で、ミシェルはアニエスに言う「野心はとっくに捨てた。不運を嘆くのも楽しい」と。
アニエスは言う。
「結婚していようとも、あの時からひと筋。無名のままのあなたでもいいの。恋人がいようが私の気持ちは変わらない」

そして、思い募った二人の、外国への逃避行の望み。
それにしても悲しいことに、二人にはまたしても不幸が襲い掛かり、その望みは成就されない。
そこが無茶苦茶いい。
その良さは何も筋立てばかりでなく、画面から漂う雰囲気そのものが何とも言えず、それに酔いっぱなしになる。

この物語は、数年後へとまだまだ続いていく。
大人である二人は当然、分別もありそれこそ世間の道にそれていない。
でも、内にある凝縮された愛の想いを見ていると、胸に突き刺さって感動以外の言葉が見当たらない。

十代の始めに夢中になってテレビで観た映画、その一群のイメージが濃厚に漂っていて、私にはとっても愛着を感じる作品だった。
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『犯罪河岸』を観て

2017年08月18日 | 戦後40年代映画(外国)
アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督の『犯罪河岸』(1947年)を観た。

戦後間もないパリ。
歌手のジェニーとピアノ伴奏者の夫、モーリス。
ステージで色っぽく歌うジェニーに反応する客。それに嫉妬するモーリス。

二人が二階で住む、そのアパートの階下には、モーリスの幼なじみの女性カメラメン、ドラが住んでいる。
ある日、ジェニーがドラの所で雑誌用のポートレートを撮っていると、そこへ老富豪のブリニョンが女づれでやってくる。
女性には目がないブリニョンは、その場でジェニーの後援を申し出る。

その気になっているジェニーは、後日、実家に行くとの口実でブリニョンの邸に出かけた。
偶然から、ジェニーの行先がわかったモーリスは、逆上しピストルを持ち出してブリニョン邸に乗りこむ。
しかし、モーリスがそこで見たのは、ブリニョンの死体だった・・・

ジェニーはドラに、犯行の一部始終を打ち明ける。
一方、モーリスもジェニーの犯行だと確信し、悩む。
そこに現れる警部のアントワーヌ。
モーリスがジェニーを庇おうと必死になればなるほど、彼のアリバイに対する状況が不利になってくる。

これはサスペンスと言うより、刑事ものの一種。
そこが、観ていてとっても味わい深い。

警部のアントワーヌの、事件の裏付けを取るその動きに生活臭が漂う。
それに、モーリスのジェニーへの、嫉妬がからんだ愛情の表現の仕方。
ジェニーの方はモーリスを愛しながらも、過去の貧しさから脱却したくて、華やかな生活へあこがれる。
それに絡むドラの、二人への友愛。
ドラは、案外とモーリスが好きなのを伏せているかもしれないとの思わせ方が、また良い。

そして、ラスト。
なるほどと納得する、作りのうまさ。
さすが『情婦マノン』(1949年)、『恐怖の報酬』(1953年)のクルーゾー監督。
未見の『悪魔のような女』(1955年)を探してきて、どうしても観なければと焦ってしまう。
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忘れ得ぬ作品・7〜『邪魔者は殺せ』

2017年07月20日 | 戦後40年代映画(外国)
10代の時テレビで観て、今でもラストシーンが鮮明に思い浮かぶ作品がある。
キャロル・リード監督の『邪魔者は殺(け)せ』(1947年)である。

キャロル・リードと言えば、当然に『第三の男』(1949年)。
それに引けを取らない傑作が、この作品だと言い切っていいと思っている。
なにしろキャロル・リードは、1948年の『落ちた偶像』も入れて、3年連続で英国アカデミー賞の作品賞を取得した名監督である。

ところは北アイルランド。
非合法組織の地区リーダーであるジョニーは、本部の命令もあって、資金調達のために工場を襲撃する計画をしてきた。
そしてある日、とうとう仲間と計画を実行に移す。
工場からうまく現金を奪えた一味だったが、ジョニーは逃げる途中、工場の出口でめまいに襲われてしまう。
そのジョニーに、追ってきた工場の者が銃を撃つ。
肩を撃たれたジョニーは、相手を射殺し、車に飛び乗る。
しかし、仲間が運転する車に必死でしがみつくジョニーは、振り落とされてしまう。
ジョニーは、瀕死の重傷を負いながら必死で、警察の手の追跡を避けて、どこまでも逃げる・・・

始まりは、船が行き交う場所の広場の、時計台午後4時。
終りが、その場所の午前0時。

さりげなく、目立たないように演出された白黒画面。
白黒が伝えるその表情は、カラー作品では難しいのではないかと思うほどの繊細さ。
この8時間の間に、空は雨になり雪に変わる。
人々は、この厄介者のジョニーに関わりたくはなく、かと言って瀕死の一人の人間を無視できない。
この関わる人たちの、人としての機微が何とも言えないし、その行為は誰でもそうだろうと納得する。

そして、あのラスト。
船が行くこちら側の、柵がある広場。
雪が降りしきる広場のふたり。
追い詰められるジョニーと、恋人キャスリーン。

映画のラストシーンの映像としての力強さ、それは観る側の記憶と関連する。
それと共に、ジェームズ・メイソンの憂えた顔の表情も。
なにしろ観て50年経った今でも、その場面とジェームズ・メイソンは憶えているから。
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忘れ得ぬ作品・4〜『情婦マノン』

2016年05月02日 | 戦後40年代映画(外国)
昔、映画館で観た記憶がないので、たぶんテレビだろうと不確かなのに、映像の方は鮮明に記憶されている作品がある。
題名は『情婦マノン』(アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督、1948年)。

時は戦後。イスラエルに向う貨物船が、出港時、亡命ユダヤ人の一団を乗船させる。
船倉をユダヤ人たちにあてがったが、そこには男女二人の密航者が隠れていた。
名は、ロベール・デグリューとマノン・レスコー。
二人を送り返そうとする船長に、ロベールはマノンとのなれそめからのいきさつを話し出す。

連合軍の上陸作戦によって解放されかかっているノルマンディーの町。
ナチと通じていたとして、町の住民たちが居酒屋のマノンを取り押さえ、髪を切ろうとしている。
フランス遊撃隊は、住民のリンチを止め、警察に引き渡すまでマノンを教会に監禁することにした。
そして、その監視役はロベールがした。
監視をしていたロベールは、いつしかマノンの虜になってしまい、パリへ向けて二人で逃走する・・・・



ロベールはマノンに夢中である。マノンだってロベールが好きでたまらない。
しかし、マノンは貧乏が嫌い、おまけに家事もイヤ、する事が奔放。そんな性格。
だからロベールが、親がいる田舎に一緒に行こうと言っても、パリがいいと言う。
いつしか身飾り品をつけ出したマノンを不審に思うロベールが、彼女の後をつけていけば、そこは高級売春宿。
ひと悶着あっても、マノンを手放せないロベールは許してしまう。
闇取引の相手の米軍将校が除隊となって帰国する時、その将校と結婚するというマノン。
そのマノンを追うために、マノンの兄レオンを殺してしまうロベール。
そして、ロベールとマノンの逃避行。

いきさつを聞いた船長は情にほだされ、下船するユダヤ人の中に二人を紛れ込ます。
これで一件落着の目出度しみたいだが、そうはいかない。ロベールとマノンにとって、これからが真の逃避行となる。
それに並行して、観る者の脳裏に一コマずつ映像が焼き付いていく。

イスラエルに向けて、荒涼とした岩肌をユダヤ人たちの後についていく二人。
現れるアラブの一団。撃たれるマノン。
死んだマノンの足を持ち、背負って砂漠を歩くロベール。
力尽きるロベール。マノンの顔だけを残して砂に埋めるロベール。
「死んで、やっと僕だけのものになった」と語り、マノンに寄り添うロベール。



アべ・プレヴォー原作の『マノン・レスコー』を現代に置き換えて、戦前映画と決別した後半の斬新な作りが印象強く残っている。
これが、「究極の愛」というものかと一人で納得し、現実にマノンのような女性と知り合ったらチョット困るけど、
それでも映画の中のマノンだったら魅力的でいいな、小悪魔的な“セシル・オーブリー”が絶対いいな、とその当時から変わらず思っている。
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高校生のころ・8〜『無防備都市』

2015年12月29日 | 戦後40年代映画(外国)
手元に、観た映画のメモ帳が一冊ある。
高校1年が終わる頃から22歳の後半までの記録で、題名・監督・主演者と劇場が書いてある。
そのメモの一番初めが『無防備都市』(ロベルト・ロッセリーニ監督、1945年)である。
そして、その三日後が先日書いた『自転車泥棒』(ヴィットリオ・デ・シーカ監督、1948年)となっている。
当時は当然、ビデオもDVDもないから映画館以外で観ようとすれば、ほとんどがテレビとなる。
と言うわけで、この『無防備都市』もテレビで観た作品のひとつである。

第二次世界大戦の後半期、ナチス占領下のローマ。
レジスタンスの軍事リ-ダーであるマンフレディは、ナチス・親衛隊の追跡を逃れて同志のフランチェスコの家に逃げ込んだ。
彼は、500人の仲間のための軍事資金を調達しなければならないが、身動きが取れない。
そこで、シンパのピエトロ神父を橋渡しとして、資金調達はどうにか成功することができた。
翌日、フランチェスコと子連れのピナの結婚式の日。
マンフレディとフランチェスコがいる一帯のビルが親衛隊に包囲され、フランチェスコが捕まった事を知ったピナは、その護送車を追って・・・・

ピナが護送車を必死に追いかけ、無残にも射殺されるシーン。
映画後半の、捕えられたマンフレディに対する拷問。
それでも沈黙を守ったマンフレディ。
それを見続けるよう強制されるピエトロ神父。
そのドアの向こう側で、アルコールを飲んでカードをしているナチスの面々。
人が、自分のために執念を絡めて他人の命を弄ぶ。
ラスト、銃殺刑にされるピエトロ神父。
それを金網越しに見つめる子供たち。そして、無言のまま坂を下って行くこの子供たち。

再度観て、当時、脳裏に焼き付いたままの映像が、そのままここにあった。
神父の最期の言葉「神よ、彼らをお許しください」
しかし、この光景を見た子供たちはこの現実を許すことができるだろうか。
この子たちと共に、私も一緒になってこの作品を記憶し続けなければいけない。


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『ドイツ零年』を観て

2015年12月27日 | 戦後40年代映画(外国)
ヴィットリオ・デ・シーカと共に、イタリア映画のネオレアリズモを一躍世界に広めたロベルト・ロッセリーニ。
この監督の「戦争三部作」の三作目『ドイツ零年』(1948年)が未見だったので観てみた。

第二次大戦で廃墟と化したベルリン。
崩れ落ちた跡が残るビルの一室で、少年エドムントは病弱な父と兄、姉の四人で、間借りして暮らしている。
父親は病身でベットから起き上れないし、元ナチス党員の兄は告発されるのを恐れて家の中に閉じこもり、職に就かずにいる。
そして、姉は一家の家計を助けるため、夜にクラブへ出かけ、外国人からのわずかな煙草を手にしたりしている。
エドムントも、今日の食べ物にも事欠く有様の家族のために、何とかして少しでも生活の足しになる仕事はないかと探している。

ともかく一家は、三人分の食糧の配給で四人が食べていかなければならない。
だから、父親は常に「死にたい」と口にしたりしている。

ある日のこと、エドムントはかつての小学校の担任だった教師と街で出会う。
元教師は、やましそうな仕事の他に、連合軍相手にヒトラーの演説レコードを闇で売りさばいたりしていて、
エドモンドにもそのレコード売りの仕事を与える・・・・

物語の内容作りがやや粗く、もう少し筋立てた描写をしてくれてもよさそうにと恨めしく思う。
だがロッセリーニは、ドイツを舞台に素人を使いながら貧困にあえぐ一市民をぐいぐいと描く。
弱者は強者によって滅ぼされる。生き延びるには、弱者を犠牲にする勇者が必要であると、ナチズムの信奉者だった元教師はエドムントに吹き込む。
このような思想の持ち主が、純真な子供たちに教育をしていた結果はどうなるか。

少年は父親の飲み物に劇薬を入れる。
その行為の果てに、エドムント自身も廃墟のビルに上がって悲劇を迎えることになる。

ドキュメンタリー・タッチで即物的に淡々と描くこの映画は、観る者に感傷を許さないし、感情移入もさせない。
私は思う。
戦勝国だろうと敗戦国だろうとそこに生きる人たちは、たまたまその国民であったというだけではないか。
ただ、その時代から現在に至るまで、本人がどのように物事を考え、それをどう対処しようとしていたかが問われると。
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