ポケットの中で映画を温めて

今までに観た昔の映画を振り返ったり、最近の映画の感想も。欲張って本や音楽、その他も。

『燃ゆる女の肖像』を観て

2021年02月16日 | 2010年代映画(外国)
昨年暮れの『燃ゆる女の肖像』(セリーヌ・シアマ監督、2019年)の評価が高いとあって、県下で現在も上映している所があったので高速道路を使って行ってきた。

画家のマリアンヌはブルターニュの貴婦人から、娘のエロイーズの見合いのための肖像画を頼まれる。
だが、エロイーズ自身は結婚を拒んでいた。
身分を隠して近づき、孤島の屋敷で密かに肖像画を完成させたマリアンヌは、真実を知ったエロイーズから絵の出来栄えを否定される。

描き直すと決めたマリアンヌに、意外にもモデルになると申し出るエロイーズ。
キャンパスをはさんで見つめ合い、美しい島を共に散策し、音楽や文学について語り合ううちに、恋に落ちる二人。
約束の5日後、肖像画はあと一筆で完成となるが、それは別れを意味していた・・・
(公式サイトより)

舞台は、18世紀のフランス・ブルターニュの孤島。
エロイーズの姉は、結婚するはずだったのに崖から飛び降り自殺している。
その代わりとして、エロイーズが修道院から呼び戻され、ミラノの貴族と結婚させられようとしている。
エロイーズは結婚を拒否するため、自分の肖像画を先の画家にも描かせなかった。
だから今回、マリアンヌが依頼を受け、描く段取りとなった。
それも描くことをエロイーズに悟られない方法で。

物語は、マリアンヌが描き終わるまでを淡々と進んでいく。
だが、内面の心理的葛藤は、意図してか省略されている。
そのような手法だから、前段としての姉がなぜ自殺したのか、そしてエロイーズも結婚をなぜ頑なに拒絶するのかは皆目わからない。

なぜは、他でもやってくる。
エロイーズは、マリアンヌの描いた絵がちっとも自分に似ていないと拒否する。
そのため、母親の伯爵夫人からマリアンヌの契約が打ち切られると思いきや、今度はエロイーズの方から積極的にモデルになろうとする。
そのエロイーズの心理的変化が全然わからない。
そのような変化の仕方は、マリアンヌとエロイーズが愛するようになるところでも、物語として前もって愛することのレールが敷かれているのかとの印象を持つ。

また、映画の中の男は、冒頭、マリアンヌが島に渡るボートの漕ぎ手と、マリアンヌが島から帰る時の一人しか現れない。
そのように意図的に男が排除されているので、メイドのソフィが妊娠しても相手の影も見当たらない。

だから全体的に、物語としての起伏の山が見えてこなくて、単調で平坦な進み具合になってしまっている。
とは言っても、その映像はどこまでも繊細で穏やかな流れの中を漂う。

いずれにしても、この作品の評価のされ方がどのようなものかは理解できるとしても、私には違和感が残った。
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『エレナの惑い』を観て

2020年12月09日 | 2010年代映画(外国)
『エレナの惑い』(アンドレイ・ズビャギンツェフ監督、2011年)を観た。

モスクワ、冬。
初老の資産家と再婚した元看護士のエレナは、生活感のない高級マンションで、一見裕福で何不自由のない生活を送っている。
しかしその生活で夫が求めるのは、家政婦のように家事をし、求められるままにセックスをする従順な女の姿だ。
そんな生活の中で、彼女は夫の顔色をうかがいながらも、唯一の自己主張のように、前の結婚でもうけた働く気のない息子家族の生活費を工面している。
しかしそんな日常は、夫の急病により一変する。
「明日、遺言を作成する」――。
死期を悟った夫のその言葉と共に、彼女の「罪」の境界線がゆらいでいく。
そして、彼女がとった行動とは・・・
(公式サイトより)

ゆったりと流れる日常生活。
端から見ると初老夫婦の何気ない生活のなかにも、じっくりとみてみると問題は潜んでいる。
妻のエレナは、郊外に住む、だらしない息子セルゲイの子、サーシャの行く末を気にする。
そのセルゲイは、不良仲間とつるむサーシャに説教するはずが、つい一緒にオンラインゲームに夢中になる。
そんな最低な親子でも、サーシャが大学に行けないとなると必然的に軍隊行きとなるのを気に病む。
だからその大学行きの資金のためにセルゲイは、エレナの夫の金を当てにし、エレナ自身もどうにかしなければとヤキモキする。

片やエレナの夫ウラジーミルには、一人娘のカテリナがいる。
カテリナは独立して自由気ままな生活をしているが、父ウラジーミルには反撥心を持っている。
そんなカテリナであってもウラジーミルは内心、娘を溺愛している。

ある日、ジムに行ったウラジーミルはプールで心臓マヒを起こす。
その後一命を取り留めて自宅療養となったウラジーミルは、遺言書をしたためようと考える。
その内容は、すべての財産を娘カテリナに、そして年金はエレナに。

エレナは考える。孫サーシャの大学行き資金が工面できなくなる、どうしょう、と。

普通のおばさん役であるナデシュダ・マキナという人の自然体演技が素晴らしい。
いい年になっても生活費を稼ごうとしない息子親子を、それでもどうにかしようと思う母心から醸し出される雰囲気。
決意を込めた瞬間の静かな行動。
全体が静的に流れる画面の中に緊張感が走る。
そこから湧き出る親子の絆といびつな溺愛関係。
それはエレナの親子関係でもあり、もう一方のウラジーミルと娘カテリナの関係でもある。
それを見事に際ただせる演出とカメラワーク。
唯々魅了される。
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『異端の鳥』を観て

2020年10月21日 | 2010年代映画(外国)
久しぶりに映画館に行ってきた。
観た映画は、チェコ・ウクライナの『異端の鳥』(ヴァーツラフ・マルホウル監督、2019年)。

東欧のどこか。
ホロコーストを逃れて疎開した少年は、預かり先である一人暮らしの老婆が病死した上に火事で家が消失したことで、身寄りをなくし一人で旅に出ることになってしまう。
行く先々で彼を異物とみなす周囲の人間たちの酷い仕打ちに遭いながらも、彼はなんとか生き延びようと必死でもがき続ける―。
(公式サイトより)

この作品は九つのエピソードで綴られる。
その内容と言えば、この少年が行く先々で異端とみなされ、一般の村人たちに排除される残虐性に満ち溢れている。
その象徴として、いろいろな鳥がそのエピソードに関して出てくる。

幼い少年の、出生がユダヤ人である烙印された少年の、偶然に行きゆく先々の運命。
そこには生きるための少年の糧に対する、恵むものの支配力が垣間見える。
それをこの作品はリアルに、もっと言えば剥き出しに現実として見せる。
だから当然、上品な人間だったら見たくないもの見せられたりしてしまって、賛否両論となったというのも理解できる。
例えば、若い女が性の欲求不満に少年を代用しようとしてうまくいかず、その後、邪険にしたりする。
それに対して少年が自分の思いの丈を表現するすべは、裏返しの残虐性に行き着くのではないか。

要はこの作品は、余りにも人間性が剥き出しに提示される。
それを白黒画面で、鮮明な画像として自然そのものも映し出す。
その自然描写だけでも感嘆するのに、その中に繰り広げられる少年の運命は、やはり衝撃を与えられる。
私は、このような作品を傑作のうちと考える。
それ程、衝撃度が強い。
もっとも、この剥き出しの倫理観によって拒否する人がいるだろうことも理解する。
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『スキャンダル』を観て

2020年08月27日 | 2010年代映画(外国)
今年2月の作品『スキャンダル』(ジェイ・ローチ監督、2019年)を半年遅れで観てきた。

2016年、アメリカニュース放送局で視聴率NO.1を誇る「FOXニュース」に激震が走った。
クビを言い渡されたベテランキャスターのグレッチェン・カールソンが、TV業界の帝王と崇められるCEOのロジャー・エイルズを告発したのだ。
騒然とする局内。看板番組を背負う売れっ子キャスターのメーガン・ケリーは、自身の成功までの過程を振り返り心中穏やかではなくなっていた。
一方、メインキャスターの座を狙う貪欲な若手のケイラは、ロジャーに直談判するための機会を得て・・・
(公式サイトより)

実話を基にしたこの作品は、本国アメリカでは当然分かっているだろう前提で作られている可能性があり、その分、分かりづらいところもある。
整理すると、
元ミス・アメリカだった経歴のベテランニュースキャスター、グレッチェン・カールソンが7月6日、FOXニュースの会長兼CEOのロジャー・エイルズをセクハラで提訴する。
元弁護士だった人気ニュースキャスターのメーガン・ケリーは、自分の身の振りどころを考え沈黙していたが、グレッチェン・カールソンの告発を受け、過去の自身のセクハラ被害を公にする。
片や、提訴されたロジャー・エイルズ。
歴代共和党のメディアコンサルタントとして腕を振るい、FOXニュースチャンネルの設立とともに初代CEOに就任する。
そして、同局を視聴率トップにさせ、アメリカ保守政治に絶大な影響を与えてきた。
映画はこの実在の三人をメインに、もう一人、若い野心家のキャスター、ケイラ・ポスピシルを絡ませる。

端的に言って、権力者によるセクハラ疑惑告発映画である。
ここに言うセクハラとは、地位、権力を利用し、それに応じた場合の相手方の利益の保証も絡んだセックス強要であって、拒んだ場合の待遇はおのずと見えてくる。

ただ作品的には、テレビ局とか新聞社が舞台となる社会正義のお手本みたいなこの手の作品には、少なからずウンザリするところもある。
と言うのは、この手は演出の仕方がよく似ていて、内容を映像で見せずにセリフをどんどん喋らす。
そのテンポの早いこと、事件の概要がわかっていない日本人のこちらは、ただただ字幕を追いかけるだけで、登場人物の表情なんて見ていられない。
映画の基本は映像主体と思っている私は、このような作りの作品には嫌悪感を催す。
前回では4年ほど前の『スポットライト』(トム・マッカーシー監督、2015年)がそうだったと思い出した。
それでも、折角観るのだからと必死に注視していたが、沢山の個々の人物紹介は、テレビドラマでよくあるように名前の字幕だけであって、
それでは覚えきれないだろうと、つくづく呆れてしまった。

ラスト自体も事実が基のため、セクハラ事実を録音されていたロジャー・エイルズは、7月21日に疑惑を否定しながらもCEOを辞任。
そのためグレッチェン・カールソンは、和解金2000万ドルを手にしたが、FOXとの秘密保持のために過去の詳細は封印されている。
そして、メーガン・ケリーはFOXを去り、NBCニュースに移籍していく。
時は、4年前の大統領選、解雇されたロジャー・エイルズは共和党候補のドナルド・トランプのキャンペーン顧問となる。

この作品の鑑賞印象は、今の現実を考え合わせると、どうしても、なんとも言えないモヤモヤ感が残ったままとなってしまう。
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『ロスト・バケーション』を観て

2020年07月26日 | 2010年代映画(外国)
ちょっと気分転換に、サメ映画『ロスト・バケーション』(ジャウマ・コレット=セラ監督、2016年)を観てみた。

医学生のナンシーは休暇を利用して、メキシコの“秘密のビーチ”へサーフィンするために一人訪れる。
そこは、地元の人間しか知らないビーチで、亡くなった母親の思い出の地だった。

地元の青年サーファー2人以外は誰もいない入江。
ナンシーはサーフィンを思う存分楽しむ。

日が暮れかかり、地元サーファーが一緒に帰ろうと誘うが、ナンシーはあと一回と断る。
青年たちが海岸を車で帰る最中、一人で波乗りするナンシー。
しかしその時、突然ナンシーは何者かに一気に水中に引きずり込まれ・・・

海底でもがくナンシー。水中は見る見るうちに紅く染まる。
獰猛な巨大なサメがナンシーを襲う。
近くにたまたま、それこそ巨大過ぎる腐敗したクジラの死骸が漂っている。
大腿部を深く傷つけられたナンシーは、危機一髪でクジラの背に乗り移る。

と、まあ海の中でたった一人、若い女性と狡猾なサメのサバイバル・ゲームが始まる。
そこにあるのは、久し振りに感じる緊張感の連続。

ナンシーは、クジラの死骸から海の中に突き出ている小さな岩礁に泳ぐ。
その岩礁で、医者の卵のナンシーはピアスとネックレスを使って大腿部の傷口を自ら縫う。
観ていて、それはもう、正視できない極限の痛さをこちらも感じてしまう。
それも、ここは海だから塩分による激痛も並大抵ではないはずと、こちらが失神しそうになる。

ただ救われるのは、この岩には羽を脱臼し怪我を負った一羽のカモメがいたこと。
カモメはそこにいるだけなのに、ナンシーとともに運命を共有する。
そのカモメが、なぜか超一流の役者と誉めても言い過ぎでないほどのたたずまいである。

小さな岩礁であるここは、いずれ満潮になれば海に沈み、そうなれば当然サメは襲いに来る。
すぐ近くに浮かぶブイまでが3、40メートル。
岸だってわずか200メートルほどである。
しかし、そんな距離でもいつサメに襲われるのか、と話はハラハラドキドキさせながらドンドン進む。

サメに襲われる作品と言えば、当然『ジョーズ』(スティーヴン・スピルバーグ監督、1975年)となる。
あの作品以来、随分とサメ映画が作られ、それに釣られて2、3作品は観た経験があるが、
『ジョーズ』を越えられるはずはなく、そう思うと見る気もしなくなった。
それを今回、ひょっとしたら面白いかもと観てみた。
答えは正解であった。
まず海の風景等、撮影がバツグンであること。
話の展開、そのテンポも申し分なく、ストーリーへ一気に引き込む力がある。

家族のこと、特に亡くなった母のことも絡ませてあって、内容にふくらみを持たせてある。
もっとも、母親との関係をもっと掘り下げてくれると作品に深みが増すのに、と余分なことも考える。
でも、まぁいいかと満足し、観て儲けたなと感じる作品だった。
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『ザ・ピーナッツバター・ファルコン』を観て

2020年04月20日 | 2010年代映画(外国)
新作の『ザ・ピーナッツバター・ファルコン』(タイラー・ニルソン/マイケル・シュワルツ監督、2019年)を動画配信で観た。

家族に棄てられたダウン症のザックは養護施設で暮らしているが、子どもの頃からプロレスラーになるという夢を持ち続けている。
そのため、憧れの悪玉プロレスラーであるソルトウォーター・レッドネックの養成学校に行こうと、施設から脱出する。

兄を亡くして孤独な思いのタイラーは漁師をしているが、他人のカゴから蟹をかすめ取り、挙げ句は追われるはめになる。
この逃げるタイラーのボートに、たまたまザックが隠れていた。

タイラーが行こうとする先はフロリダ。
ザックの憧れるプロレス養成学校は、途中のノースカロライナ州のエイデン。
タイラーはザックが途中まで同行するのをしょうがなく許し、二人は、それぞれの目的に向かって一緒に行動を共にする・・・

一見よくあるロードムービー。
だから結末に向かっての物語は、どちらかと言えば予定調和的とも言える。
しかしこの作品は、よくある作品の一つとして十把一絡げにして葬り去るわけにはいかない。

プロレスでヒーローになる夢を持っているザック。
片や、兄への思いを引きずりながら将来展望もなく、どちらかと言えばワルのタイラー。
この二人に、養護施設から逃げたザックを探す若い女性の看護師エレノアが加わる。

この作品のいいのは、障害者が主人公となるとよくあるような感傷的で同情を売るところが微塵もないところ。
それもそのはずで、主人公のザックを演じるザック・ゴッツァーゲンが製作のきっかけを作っていることからもそれは当然と言える。

その内容は、エンドロールで流れる“Running For So Long (House A Home)”ともマッチして心に沁みる。
【YouTubeより】


久々に見る、心が洗われるような清々しさ。
映像的にも優れたこのような作品が、もっともっと人々の目に触れるといいのにと切に願う作品であった。
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『人間の時間』を観て

2020年04月10日 | 2010年代映画(外国)
『人間の時間』(キム・ギドク監督、2018年)を観てきた。

7日、新型コロナウイルスの感染拡大に伴う緊急事態宣言が7都府県に発令され、
名古屋飛ばしということで愛知県知事が本日、県独自の緊急事態宣言を発表した。
私にとって、どうしても観たい映画は不要不急の外出であるとは思っていないが、
それでも宣言が出れば自粛しようかなとの思いも強くなるから、その直前に行ってきた。

劇場は40席のミニシアターで、客はほとんどいないだろうと想定していたら、20名近くもいて驚いた。
と言っても、マスクをしているし隣り同士も一席離れているし、ましてや発声すらしないのでウイルス感染に極端に萎縮する必要もないではないか、
それよりか、このようなミニシアターが経営難となるほうが、文化的損失が大きいのではないだろうかと考える。

休暇へ向かうたくさんの人々を乗せ、退役した軍艦が出航する。
乗客には、クルーズ旅行にきた女性と恋人のタカシ、有名な議員とその息子、彼らの警護を申し出るギャングたち、謎の老人など、
年齢も職業も様々な人間たちがいる。
大海原へ出た広々とした船の上で、人々は酒、ドラッグ、セックスなど人間のあらゆる面を見せる。
荒れ狂う暴力と欲望の夜の後、誰もが疲れて眠りにつき、船は霧に包まれた未知の空間へと入る。

翌朝、自分たちがどこにいるのかわからず、そこから出られるのかもわからない状況に唖然とする人々は、
生き残りをかけて悲劇的事件を次々に起こしていく。
(公式サイトより)

第一幕「人間」、第二幕「空間」、第三幕「時間」、第四幕「そして人間」と副題がついているが、
残念なことに、この作品は期待したほどの内容ではなかった。

公式サイトのあらすじからすると、想像を絶するさも未知のできごとでも起きるのかのようだが、
実は、翌日になると船は天空に浮かんでいて、人々はその後の食糧難に対する危機のため、ついには殺し合いのバトルを繰り広げるという内容。
その中にひとり、老人がひと言も喋らず、死んだ肉体を打ち砕き、それを肥料として種を植え付ける。
それがずっと後年、船自体が林になり、ひとり生き残ったヒロインとその産んだ子が生きながらえるという話。

キム・ギドクはこの作品について、
「世の中は、恐ろしいほど残酷で無情で悲しみに満ちている。
どんなに一生懸命人間を理解しようとしても、混乱するだけでその残酷さを理解することはできない。
そこで私は、すべての義理や人情を排除して何度も考え、母なる自然の本能と習慣に答えを見つけた。
自然は、人間の悲しみや苦悩の限界を超えたものであり、最終的には自分自身に戻ってくるものだ。
私は人間を憎むのをやめるためにこの映画を作った」と、メッセージをしている。

だが、メッセージそのものが素直に納得できる内容でないように、作品自体もどこか空回りしているような、そんな感じの作品だった。

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キム・ギドクの『STOP』を観て

2020年03月27日 | 2010年代映画(外国)
『STOP』(キム・ギドク監督、2015年)を観た。

2011年3月11日に発生した東日本大震災。
それに続いて福島第一原発で事故が発生し、原子炉がメルトダウンを起こす。
これにより、原発から5km圏内に住んでいた若い夫婦は、東京への移住を決意。
妊娠中の妻は、赤ん坊に対する放射能の影響に不安を覚え、次第に正気を失ってゆく。
そんな中、謎の政府の役人が現れ、強引に中絶を促す。
写真家の夫は、妻を安心させるため、美しい自然や動物の写真を撮ろうと単身、福島に戻る。
だが、そこで目にしたものとは・・・
(Movie Walkerより)

福島に戻った夫が“そこで目にしたものとは”、要は、原発の立入り禁止区域内に残っていた若い女がひとりで出産し、
その赤ん坊は奇形児だったということ。
この地域にはもうひとり、放射能汚染されて野生化したウサギを解体し、東京の焼き鳥屋へ売り渡している男がいる。
主人公の夫は、原子力発電所から送られる東京の電気を止めようと考える。
そして、ウサギを売りさばいていた男とふたりで、送電塔を切り倒して東京を停電にする。
7年後、妻ミキが産んだ子は奇形にはならなかったが、常人の何千倍もの聴力を持つ聴覚障害児であり、他の子からいじめられる。

キム・ギドクが福島第一原発事故に危機感を寄せ来日して、ひとりで監督・撮影・照明・録音の全てを行い、これを完成させたという。
しかし、その趣旨はとてもよくわかるが、内容がお粗末過ぎて余りにも稚拙としか言いようがない。
おまけに、出演している役者が棒読みに近いセリフ回しで、観ていて拒否感というか抵抗感が先立ってしまう。
このように、折角の作品にケチをつけ出すと、どこまでも意見が出てしまう。
もっともキム・ギドク自身も、インタビューで「技術的製作方法が未熟だったことは自覚しております」と言っている。
折角の作成意図を、もっとじっくりと熟成させてから作品にしてほしかったと、残念ながらそのような願いが湧き立つ。

これで、キム・ギドクの監督作品・計22本のうち未公開の『アーメン』(2011年)以外、すべて観たことになる。
劇場で初めて観た『サマリア』(2004年)の斬新な感覚に魅了されてから、意識してきた監督である。
もっとも、主要作品はブロクを始める以前に観ているから、記事にはしていないが。
来月、新作『人間の時間』(2018年)が公開されることになっていて、久し振りの作品にまた興味が尽きない。
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『1917 命をかけた伝令』を観て

2020年02月17日 | 2010年代映画(外国)
『1917 命をかけた伝令』(サム・メンデス監督、2019年)を観てきた。

1917年4月6日、イギリス兵である第8連隊に所属するスコフィールドとブレイクは、ある重要なメッセージを届ける任務をエリンモア将軍から与えられる。

マッケンジー大佐率いるデヴォンシャー連隊第2大隊は退却したドイツ軍を追っていたのだが、
航空写真によって、要塞化された陣地をドイツ軍が築き、待ち構えていることが判明。
退却に見せかけた用意周到な罠だった。

このままでは、マッケンジー大佐と1600人の友軍は、ドイツ軍の未曽有の規模の砲兵隊によって全滅してしまう。
なんとしてもこの事実をマッケンジー大佐に伝え、翌朝に予定されている戦線突破を止めなければならない。
あらゆる通信手段はドイツ軍によって遮断され、もはやスコフィールドとブレイクの伝令が最後の頼みの綱だった・・・
(パンフレットより一部修正抜粋)

二人はエクーストという町の南東2キロの、ルロワジルの森に向かって出発する。
途中、占領ドイツ軍が築いた塹壕やドイツ占領下の町を越えて行かなければならない。
その行く手は、状況次第でいつ襲撃に遭うかわからない。

その二人の姿を、全編ワンカットの映像として見せる。
だからカメラは常に二人、途中からは一人の動きと共にある。
それを観客は、伝令兵と同じ目線で状況把握することになり、一時も緊張することをやめさせて貰えない。
それは、大袈裟に言えばジェットコースターに乗っている実体験のような錯覚に陥る。
そのような状況とセットで、その先がわからない映像美に驚嘆する。
そして、私が求めるドラマドラマしていなくて映像で見せる、本来の映画らしい作品に出会ったことに感激する。

もっとも、謳い文句である全編ワンカットは、宣伝であって本来あり得ない。
翌朝までの話を実上映時間2時間で映すとなると辻褄が合わなくなってくる。
だから、場面移動をそんなにしていないはずでも、そこは観客が時間経過を勝手に想像しなければならない。
それともうひとこと敢えて言えば、場所設定にエクーストという町名が出てくるが、それだけでは地理把握が出来ずリアリティに欠けるな、と感じる。
と言うようなことも、いちいちあらを探さなければ気にもならないレベルであると信じる。

ともあれ、撮影監督のロジャー・ディーキンス。
今まで撮影監督なんて意識したことがなかったけれど、この人が撮った作品をチェックしてみると成る程と感心する。
だから、アカデミー賞の撮影賞、視覚効果賞は当然の結果だと思う。
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『オクジャ/okja』を観て

2020年01月25日 | 2010年代映画(外国)
動画配信のNetflix(ネットフリックス)で、『オクジャ/okja』(ポン・ジュノ監督、2017年)を観た。

アメリカの巨大企業であるミランド社。
“餌も排泄物も少なくて環境に良く、食べておいしい豚”であるスーパーピッグの繁殖に成功し、その26匹を世界中の畜産家に預ける。
そして、最高経営責任者であるルーシーは、最も優秀なスーパーピッグを決めるコンテストを10年後に開くことを宣言。

10年後、韓国の山深い一軒家。
少女ミジャは、スーパーピッグの“オクジャ”といつも一緒に行動し、他に家族としては祖父しかいないが平穏な日々を過ごしている。
そんな中、ミランド社の社員である叔父のムンドが、コンテスト審査員のウィルコックス博士を連れてやってくる。
オクジャを目にしたウィルコックス博士は、その容姿に惚れて即、オクジャの優勝を告げる。

そして、「スーパーピッグコンテスト」開催場のニューヨークに向けて、オクジャは連れ去られて行く。
そのオクジャを救うためにミジャは、必死に走り追いかけ・・・

ソウルにあるミランド社に行くミジャ。
ちょうどその時、トラックで無理やり運ばれていくオクジャの姿。
トラックの屋根に飛び乗るミジャ。
そこに現れる、謎の覆面集団。

このようにしてミジャによるオクジャの救出劇が始まる。
絡み、ミジャ同じようにオクジャを救おうとする覆面集団。
この集団、“ALF”という動物愛護団体で、40年に渡り動物を虐待から救ってきたいい人たち。

活劇は続く。
その中で、オクジャの母豚について、アリゾナ生まれで現在チリにいるというミランド社の情報は大嘘であることがわかってくる。
実体は、遺伝子組み換えでスーパーピッグが作られ、その食肉を事実どおり販売しても売れないために、それを隠し工作して消費者を騙そうとしている。

大量のスーパーピッグがニュージャージーの施設で精肉に加工されていく。
オクジャもそこに運び込まれ、あわやの危機一髪がクライマックス。

筋書きは案外と単純だが、カバに似た大きなスーパーピッグ“オクジャ”の愛らしくとぼけた感じのキャラクターが、作品全体を包み込み引きつける。
だから、ミジャのオクジャに対する気持ちもよく理解でき納得させられる。

人が生きていくために他の生物の命を奪う。
そのことを、食肉処理工場の場面を通して描写し、人間と動物との関係、ひいては巨大企業による資本主義社会のカラクリも考えさせるが、
全体としての印象は、単純に楽しめる作品だな、という思いだった。
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