内視鏡システムの一新にあたり医院内を整理整頓していたら、長らく取り出す機会がなかった開院当時の諸機関への申請書や契約書一式を久しぶりに目にした。これを好機に古くなった医学書や私的資料の多くを処分したのだが、何時もの体たらくで、もう少し置いておこうかと幾分はまた棚に戻っていたりする。末尾に掲げたのは、京都府医師会の会報、京都医報新年号の一隅に載せて頂いた新春随想である。
「新春随想~断捨離に思うこと」 (京都医報 No.2068、平成28年1月1日発行)
新年明けましておめでとうございます。
「断捨離」と言う言葉が世に広く知られる様になったが、ものを断つ、ものを捨てる、そしてものから離れるということは実にむつかしい。色々と溜めこんだままの私は「断捨離」が出来ない典型例である。自慢ではないがこれだけは人後に落ちる気がしない。
さて当家は庭の一隅で毎年、素人園芸で何らかの野菜の苗を育てている。春や夏にはトマトやキュウリの脇芽が野放図に伸び放題となり、秋口にはゴーヤの黄ばんだ葉とつるがだらしなく捨て置かれたままの畑となる。この原因のひとつは片付けをついつい先延ばしにするという私の横着さであり、さらに折角ここまで枝葉を伸ばしたものに引導を渡せないという、ぐずぐずとした感傷のためである。近隣には専業や兼業農家のプロが沢山おられるので、この様なだらしない優柔不断な状況は、立ち寄られた際に早速に御指摘を受ける仕儀となる。
それでは玄人の仕業とはどのようなものなのか。週末の飼い犬の散歩が私の担当で、近隣の田畑に沿った道を一週間おきに歩くのが習慣であり、その際に姿勢の違いをまざまざと見せつけられる。例えば、先週にはまだ青々と葉が繁り多少の実が残っていた筈の作物がすっかり綺麗に取り払われていて、新しく植えられた幼苗がはやばやと若葉を伸ばし始めていたりする。旬の収穫が終われば早々に始末する、そして遅れることなく新たな作付けをする。これが農家の方のお取りになる常道なのである。
ほんの数か月前に過ぎ去った秋を振り返っても、稲穂が金色に実る時節は生産者の農家にとって慌ただしい農繁期であり、収穫の喜びの季節である。ひたぶるにうら悲しい凋落の秋などという情緒纏綿の感傷が入り込む隙は微塵もない。収穫というものには取捨選択というふたつの要素があり、豊穣に実ったものを取り込むことのみならず、実り以外の物をこの時に果断に捨て去って原点に返ることでもある。
そしてこのような農家の取り組み方は、秋の季節だけには限らない。一年を通じて先の季節をずるずると引きずれば、来季を見据えた次の一歩を踏み出すことが出来ないからなのだろう。これからの始まりに優先権を置くというのが、四季に応じた健全な生産労働なのである。猛々しい狩猟にくらべて、農耕は穏やかに植物を育てるなどというふやけたイメージを、長らく勝手に私は抱いていたのであるが、全く然にあらず。その労働精神は実にクールで峻烈でさえある。生業が分業となり、生活の多様化に伴って、何時しか日々の生活を通じて四季の循環を如実にその身に受け止める環境が多くの人からは失われて、人はそれとともに終わった季節の残渣を引きずったまま、これらに敢然と終止符を打って前に進み行く果敢さを取り落としていったに違いない。
日常診療においてしばしば巡り合うのは、身体の弱い所をゆっくりと補ってゆくのが漢方なのですねと申される方、色々と衰えて来たからと各種のサプリメントを取り揃えておられる方等々である。邪実を捨て去る「瀉」よりも虚を補う「補」のイメージを中心にして生活養生をお考えになる方々は、挙げてゆけばきりがない。しかし紛れもなく、生きるとは心と身体に有形無形の病的代謝産物が溜まりゆくことに他ならないのではないか。身も心も暖衣飽食となった現代における四季の養生は、果たしてどうあるべきなのだろう。少なくともその一つは、今一度、大自然の循環の中にしかと身を据え置いて、足し算よりも引き算を、取り込むことよりも捨て去ることにシフトを切ることではないかと思えてならないのである。
「新春随想~断捨離に思うこと」 (京都医報 No.2068、平成28年1月1日発行)
新年明けましておめでとうございます。
「断捨離」と言う言葉が世に広く知られる様になったが、ものを断つ、ものを捨てる、そしてものから離れるということは実にむつかしい。色々と溜めこんだままの私は「断捨離」が出来ない典型例である。自慢ではないがこれだけは人後に落ちる気がしない。
さて当家は庭の一隅で毎年、素人園芸で何らかの野菜の苗を育てている。春や夏にはトマトやキュウリの脇芽が野放図に伸び放題となり、秋口にはゴーヤの黄ばんだ葉とつるがだらしなく捨て置かれたままの畑となる。この原因のひとつは片付けをついつい先延ばしにするという私の横着さであり、さらに折角ここまで枝葉を伸ばしたものに引導を渡せないという、ぐずぐずとした感傷のためである。近隣には専業や兼業農家のプロが沢山おられるので、この様なだらしない優柔不断な状況は、立ち寄られた際に早速に御指摘を受ける仕儀となる。
それでは玄人の仕業とはどのようなものなのか。週末の飼い犬の散歩が私の担当で、近隣の田畑に沿った道を一週間おきに歩くのが習慣であり、その際に姿勢の違いをまざまざと見せつけられる。例えば、先週にはまだ青々と葉が繁り多少の実が残っていた筈の作物がすっかり綺麗に取り払われていて、新しく植えられた幼苗がはやばやと若葉を伸ばし始めていたりする。旬の収穫が終われば早々に始末する、そして遅れることなく新たな作付けをする。これが農家の方のお取りになる常道なのである。
ほんの数か月前に過ぎ去った秋を振り返っても、稲穂が金色に実る時節は生産者の農家にとって慌ただしい農繁期であり、収穫の喜びの季節である。ひたぶるにうら悲しい凋落の秋などという情緒纏綿の感傷が入り込む隙は微塵もない。収穫というものには取捨選択というふたつの要素があり、豊穣に実ったものを取り込むことのみならず、実り以外の物をこの時に果断に捨て去って原点に返ることでもある。
そしてこのような農家の取り組み方は、秋の季節だけには限らない。一年を通じて先の季節をずるずると引きずれば、来季を見据えた次の一歩を踏み出すことが出来ないからなのだろう。これからの始まりに優先権を置くというのが、四季に応じた健全な生産労働なのである。猛々しい狩猟にくらべて、農耕は穏やかに植物を育てるなどというふやけたイメージを、長らく勝手に私は抱いていたのであるが、全く然にあらず。その労働精神は実にクールで峻烈でさえある。生業が分業となり、生活の多様化に伴って、何時しか日々の生活を通じて四季の循環を如実にその身に受け止める環境が多くの人からは失われて、人はそれとともに終わった季節の残渣を引きずったまま、これらに敢然と終止符を打って前に進み行く果敢さを取り落としていったに違いない。
日常診療においてしばしば巡り合うのは、身体の弱い所をゆっくりと補ってゆくのが漢方なのですねと申される方、色々と衰えて来たからと各種のサプリメントを取り揃えておられる方等々である。邪実を捨て去る「瀉」よりも虚を補う「補」のイメージを中心にして生活養生をお考えになる方々は、挙げてゆけばきりがない。しかし紛れもなく、生きるとは心と身体に有形無形の病的代謝産物が溜まりゆくことに他ならないのではないか。身も心も暖衣飽食となった現代における四季の養生は、果たしてどうあるべきなのだろう。少なくともその一つは、今一度、大自然の循環の中にしかと身を据え置いて、足し算よりも引き算を、取り込むことよりも捨て去ることにシフトを切ることではないかと思えてならないのである。