花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

巨匠の風貌│横山大観自伝

2018-06-30 | アート・文化


《万緑の三渓園》の末尾に掲げた引用に加えて、横山大観画伯の自叙伝を拝読して心に残った言葉のいくつかを書き留めて置こうと思う。明治、大正、昭和にわたり日本画壇に奔騰する大観流の源流となった、自由闊達、気骨稜々の精神がこれらの一言一句に満ち満ちている。そして「岡倉天心」と「横山大観」、二人の巨匠は巡り合うべきして巡り合って師弟の縁を結んだ希代の師匠と弟子である。画伯が恩師に抱かれた畏敬の念は終生かわらない。
 どのような状況での御影か存じ上げないが、各所の年譜や偉業の説明文にしばしば添えられている、破顔一笑というよりは呵呵大笑と称すべき写真の、肚の底から溢れ出たような横山大観画伯の笑顔が私は好きである。

「しかし、私たちはこれに屈しませんでした。
このまじめな研究の道程としていかに罵倒されようとも我慢することにつとめました。世間のとかくの評判などは眼中におかないで自己の信じる道を進んだのです。それが今から考えるとよかったといえます。いわゆる朦朧派なるものは、この都落ちによって、決して没落しませんでした。没落しなかったばかりでなく。艱苦と闘い抜いた五浦における数年間こそ、私たちの一つの基礎を築きあげたものともいえましょう。」
(四 五浦時代, 1美術院の都落ち, p84-85)

「たとえてみれば、菱田が氷のような人だとすると、私は火のような人間なんです。菱田が冷静な理知の男であったとすれば、私は激しい燃えるような情熱の男です。ですから、かえって二人が合ったわけでしょう、それにしても性格はまるで違っていました。」(四 五浦時代, 3 春草と「落葉」, p95)

「顧みますと、私は実に岡倉先生から厚い恩誼を享けています。私の今日あるのは、骨肉も遠く及ばないほどの先生の真実の愛と、ご鞭撻とご庇護があったからです。先生は、どういうものか早くから、この至らぬ私に対して、過分のご期待を寄せて下さいました。いつも横山横山と、私ばかりを呼んで下さいました。このありがたい先生のご期待に背くまいと、私はただ脇目もふらず、一筋に芸術への精進をつづけてきました。今日、私がこのはかり知れない先生のご恩誼にお報いすることのできるものといえば、それは芸術への精進という一事以外には何物もありません。先生は年若くして亡くなられたとは申しますものの、先生の精神はいささかも亡びず、今なお生きていられます。先生はいつもいつも私を見守っていて下さいます。」(七 岡倉先生, 2 赤倉の秋, p125)

「人間ができてはじめて絵ができる。それには人物の養成ということが第一で、まず人間をつくらなければなりません。歌もわかる。詩もわかる。宗教もわかる。宗教は自分の心の安住の地ですから大事なものですし、哲学も知っていて、そうしてここに初めて世界的の人間らしき人間ができて、こんどは世界的の絵ができるというわけです。世界人になって、初めてその人の絵が世界を包含するものになると思います。」(10 創造の世界, 1画は人なり, p147)

「画論には気韻生動ということがあります。
 気韻は人品の高い人でなければ発揮できません。人品とは高い天分と教養を身につけた人のことで、日本画の究極は、この気韻生動に帰着すると言っても過言ではないと信じています。今の世にいかに職人の絵が、またその美術が横行しているかを考えた時、膚の寒きを覚えるのは、ただに私だけではありますまい。」
(10 創造の世界, 3気韻生動, p150)

-----『大観自伝』には、横山大観記念館、横山隆館長が「画家大観としてではなく、祖父としての大観を思いだすままに」語られた、「祖父大観の思い出」が収録されている。御令孫に対する慈愛に満ちた眼差しとともに、御家族の中にあっても画業に一意専心、真摯な構えは変わらず、一点一画、一挙一動、一伍一什、何事も忽(ゆるが)せにはなさらなかった御姿が彷彿と浮かび上がってくる。

「創作の構想が浮かぶと、食事中であれば、箸を鉛筆に持ちかえ、夢中で鉛筆をはしらせ洋画風の草稿を描いていた。その古びた写生帖に描かれた草稿の一つ一つが、数多くの作品として発表されている。その古びた写生帖の中に、祖父大観の芸術の雄大な理想と情熱の源を見ることができる。
 制作にとりかかると、少なくとも下絵は六、七枚、多い時には十数枚にも及ぶ、その間は納得のいくまで何度も、書き直していた。筆、絵具皿の水洗い、膠溶き、筆洗の水替え、ふきんの水洗いに至るまで、人の手を煩わすことはなかった。どんなに寒くても、画室の水洗場で、自ら絵具皿を洗っていた。」
(祖父大観の思い出, p174-175)

「酒徒であった祖父は、決して酒気が無くなるまでは、筆を持つことはしなかった。宴席でどんなに深酒をしても、履物はきちんと、玄関の三和土に揃えて上がって来る祖父であった。」(祖父大観の思い出, p175)

参考資料:
横山大観著:講談社学術文庫「大観自伝」, 講談社, 1981
横山大観著:「大観画談」, 日本図書センター, 1999




万緑の三渓園

2018-06-28 | アート・文化


第119回日本耳鼻咽喉科学会・学術講演会(5月30日~6月2日)が横浜で開催された。会期の合間を縫って会場のパシフィコ横浜からタクシーで約20分、以前から訪れたいと願いながら機会を逸していた名勝三渓園に伺った。三渓園は、生糸関連の事業を営み、横浜の近代化に多大な貢献をした大実業家で数寄者、原富太郎(号、三渓)が、明治三十九年、私邸の庭を市民に広く公開なさった名園である。庭園内には国の重要文化財建造物に指定された多くの歴史的建造物が点在する。

静謐な一画には、原三渓の業績、自筆の書画、下村観山、横山大観、速水御舟などのゆかりの作家作品を展示する三渓記念館があり、学会会場の喧騒から離れて昼の一時、お茶を一服頂戴した。幼い頃に目にした海岸近傍の景観は失われたと申されたタクシーの運転手さん、広い園内で道に迷った時に誘導して下さったボランティアガイドの方、本日伺ってきましたと申し上げた際のホテルスタッフの皆様、何の方からも原三渓を敬愛し、三渓園を大切に思っておられる気持ちが伝わって来た。





記念館で求めた『三渓園100周年 原三渓の描いた風景』の「三渓園関連資料・文献」新進芸術家への支援・交友の章には、横山大観著『大観自伝』に収載されている、画伯の硬骨漢、面目躍如たる言葉が紹介されていた。原三渓は芸術保護の一環として若い芸術家への支援、育成を行なうとともに、取集した美術品を手に取れるような形で公開し、比較研究や自己研鑽を可能せしめる文化サロンとしての場を提供なさった。そして関東大震災で被災した横浜復興のために私財を投げ打ち、以降は古美術購入をおやめになったという。
 何を為す、為したは勿論である。そして同じく、その時に何を為さず、為さないと決したかという選択にも、御人の立ち姿が如実にあらわれる感がある。



「このころのこと、岡倉先生は東京に出て、原富太郎さんと会われお話合いがありました。金持ちのことですから、美術奨励のために前途のある人を保護してやらないかということでご承諾になって、下村・安田・今村・前田・小林、この五人が原さんから毎年いくらかずつ研究費をもらい生活していました。
 後々のことになりますが、岡倉先生がお亡くなりになり、五浦にのこっていた下村君も五浦を引きあげ、横浜の原さんの邸宅に住むようになりました。そのころ、私も原さんからしきりにお誘いを受け、盛んに横浜に来いというものですから、お尋ねして1か月も泊っていたことがあります。その時、自動車で、あの方の所有地をずっと見て回りましたが、「今歩いて来たところでどこかあなたの気に入ったところはないか」と言ってくれました。しかし、私は、どうも前からお金持ちにそういうふうに金を出されてやるということを、あまりかんばしくないと思っていましたからすっぱりお断りしてしまったのです。私は後から誘いを受けたのですが、そんなわけでした。もちろん菱田君はもう亡くなっておりませんでした。」(大観自伝, p108-109)

参考資料:
財団法人 三渓園保勝会編:「三渓園100周年 原三渓の描いた風景」, 神奈川新聞社, 2006
青柳恵介編:別冊太陽 特別記念号「101人の古美術」, 平凡社、1997
横山大観著:講談社学術文庫「大観自伝」, 講談社, 1981
横山大観著:「大観画談」, 日本図書センター, 1999

風蕭々兮易水寒│生誕150年 横山大観展

2018-06-24 | アート・文化


『生誕150年 横山大観展』が京都国立近代美術館で開催中である。「風蕭々兮易水寒」は画伯最後の院展出品作で、前期展示では絢爛豪華な六曲一双の「夜桜」、「紅葉」と同じ一室に展示されていた。中国春秋時代の燕の壮士、荊軻が使命を果たさんが為、易水のほとりで「風蕭蕭兮易水寒、壮士一去兮不復還」と詠い、再び還ることのない地に別れを告げる場面である。如意の如き尖端をみせる干枯した柳の太枝は、「別離河辺綰柳条」と詠われる綰柳(結び柳)を表わすかの様に、幹との間で歪な輪を作る。波打つ大河の畔、揺れる柳条の前に立ち尽くす犬は、首途を見送る者と見送られる者すべての「士皆瞋目、髪尽上指冠」の心を映し、尾は垂れているも目は怒り、口は真一文字に閉じている。彼もまたおのれの運命の上に四肢を踏ん張り、壮士が去った遥か彼方を見据えている。


風蕭々兮易水寒│名都美術館

  詠荊軻   陶淵明
燕丹善養士 志在報強嬴  燕丹善く士を養い 志は強嬴に報いるに在り
招集百夫良 歳暮得荊卿  百夫の良を招集し 歳暮に荊卿を得たり
君子死知己 提劍出燕京  君子は己を知るもののために死す 劍を提げて燕京を出づ
素驥鳴廣陌 慷慨送我行  素驥 廣陌に鳴き 慷慨して我が行を送る
雄髮指危冠 猛氣衝長纓  雄髮は危冠を指し 猛氣は長纓を衝く
飮餞易水上 四座列羣英  飮餞す易水の上 四座羣英を列ぬ
漸離撃悲筑 宋意唱高聲  漸離は悲筑を撃ち 宋意 高聲に唱ふ
蕭蕭哀風逝 淡淡寒波生  蕭蕭として哀風逝き 淡淡として寒波生ず
商音更流涕 羽奏壯士驚  商音に更に流涕し 羽奏に壯士驚く
心知去不歸 且有後世名  心に知る 去りて歸らず 且つは後世の名有らんと
登車何時顧 飛蓋入秦庭  車に登りて何れの時か顧みん 飛蓋秦庭に入る
凌厲越萬里 逶逶過千城  凌厲として萬里を越え 逶逶として千城を過ぐ
圖窮事自至 豪主正征營  圖窮まって事自ら至る 豪主正に征營たり
惜哉劍術疏 奇功遂不成  惜しい哉 劍術疏にして奇功遂に成らず
其人雖已沒 千載有餘情  其の人已に沒すと雖も 千載餘情有り

  于易水送人 駱賓王
此地別燕丹 壯士髮衝冠  此の地燕丹に別る 壯士髮冠を衝く
昔時人已沒 今日水猶寒  昔時人已に沒し 今日水猶ほ寒し


于易水送人│唐詩選畫本

太子およびその門客や事情を知る者たちは、みな白い衣装と冠で見送って、易水の岸べまで来た。祖の祭りをすませて、旅路につこうとしたとき、高漸離は筑をかきならし、荊軻はそれにあわせて歌った。それは変徴(へんち)のしらべであった。男たちは皆涙がこみあげて泣いた。(荊軻は)また進み出て、歌った、
  風蕭蕭兮易水寒   風蕭蕭として易水寒し
  壮士一去兮不復還  壮士一たび去って復た還らず
さらに羽調で歌い忼慨の意をあらわしたとき、男たちはみな目を怒らせ、髪はさかだって冠をつきあげた。それより荊軻は馬車に乗り出立したが、ついに一度もふりかえりはしなかった。(史記、刺客列伝 第二十六)

-----司馬遷は刺客列伝の末尾を以下の一文で締めくくる。
自曹沫至荊軻五人、此其义或成或不成、然其立意較然、不欺其志、名垂後世、豈妄也哉。
曹沫から荊軻までの五人、義侠の行いを成しとげた者も、成らなかった者もいる。けれどもその心ばえは明白であって、志にそむきはしなかった。名声が後世に及んだのは、けっしていわれなきことではないのである。

参考資料:
「生誕150年 横山大観展」図録, 東京国立近代美術館, 京都国立近代美術館, 2018
横山大観記念館監修:「横山大観の世界」, 美術年鑑社, 2006
松枝茂夫, 和田武司訳注:岩波文庫「陶淵明全集(下)」, 岩波書店, 1990
陶潜著:中国古典文学叢書「陶淵明集校箋」, 上海古籍, 2011
川合康三編訳:岩波文庫「中国名詩選(中)」, 岩波書店, 2015
兪平伯 他編:「唐詩鑑賞辞典」, 上海辞書出版, 2013
石峯橘貫書画:「唐詩選畫本 五言絶句一」天明戌申再刻版、明治刷
小川環樹, 今鷹真, 福島吉彦訳:岩波文庫「史記列伝(二)」, 岩波書店, 2015





牧野富太郎著「花物語」│あらためて燕子花

2018-06-16 | アート・文化


日本の植物学の父、近代植物分類学の権威である牧野富太郎博士は、著書『花物語』の《そうじゃない植物三つ》の章で、本邦で旧くからカキツバタに「燕子花」を充てることが誤りであること、その根拠を「燕子花の正体は実は飛燕草属のDelphinium grandiflorum L. var. chinense Fisch.であるからである。」と示された。デルフィニウム属はキンポウゲ科の属の一つで、和名がオオヒエンソウ属(大飛燕草属)である。この章では他に「紫陽花はアジサイでない」、「馬鈴薯はジャガイモではない」の記述もある。自らその御言葉で「謬見僻説を打破し粉砕せねばならない」と述べられた例のひとつとして、「燕子花」の件は他の章でも繰り返し言及なさっている。本書は我々一般の門外漢を対象に平易に語られている。以下は、生涯、日本の山野に生ふる草木を愛し、学究として真摯で厳格な姿勢を貫かれた牧野先生の語録の一端である。

「私はいろいろの間違ったことが殊に気になる性分で、学問上での事実の誤謬にいたっては決して雲煙過眼視せずに必ず訂さにゃ止まない慨がある。(中略)いつまでもその間違った名称に執着してヘチカンスを放言している昨非を改悛し得ない人は恥ずかしいということを知らん者だ。今その間違いを知りたい希望の御方にはいつでも快く御答えしましょう」(序, p8)

「植物に趣味をもてば次の三徳がある。
 第一に人間の本性がよくなる。野に山にわれらの周囲に咲き誇る草花を見れば、何人もあの優しい自然の美に打たれて心和やかになるであろう。
 第二に健康になる。植物に趣味を持って山野に植物をさがし求むれば、戸外の運動をするようになる。したがって健康が増進せられる。
 第三に人生に寂寞を感じない。世界中の人間がわれに背くとも、我が周囲にある草花は永遠の恋人としてわれに優しく笑みかけるであろう。」
(植物と人生, p86)

「学位や地位などには、私は何の執着をも感じておらぬ。ただ孜々として天性好きな研究をするのが、唯一の楽しみであり、またそれが生涯の目的でもある。」(受難の生涯を語る, p314)



参考資料:
牧野富太郎著:ちくま学芸文庫「花物語 続植物記」, 筑摩書房, 2010
牧野富太郎著:「原色牧野植物大圖鑑」続編, 北隆館, 1982


貌佳花(かほよばな)

2018-06-15 | アート・文化
げにや光陰とどまらず春過ぎ夏も来て 草木心なしとは申せども
時を忘れぬ花の色 貌佳花とも申すやらん あら美しの杜若やな
                (「杜若」)



げにや安樂世界より 今この娑婆に示現して 
我らがための觀世音、仰ぐも高し、高き屋に
上りて民の賑ひを 契り置きてし難波津や
みつづゝ十とみつの里 札所々々の霊地霊仏
めぐれば 罪もなつの雲、あつくろしとて、
駕籠をはや をりはのこひ目、三六の
十八、九なるかほよ花 今咲出しの はつ花に
笠は着ずとも 召さずとも 照日の神も男神
よけて日負はよもあらじ 頼みありける巡礼道 
西國三十三所にもむかふと 聞くぞ有難き
                (「曾根崎心中」観音めぐり)

貌佳花(かおよばな)は杜若(かきつばた)の異名である。

参考資料:
廿四世観世左近訂正著:「観世流大成版 杜若」, 檜書店, 1999
祐田義雄校注:岩波文庫「曾根崎心中 冥途の飛脚」, 岩波書店, 1944
鳥越文蔵, 山根為雄, 長友千代治, 大橋正叔, 阪口弘之校注訳:日本古典文学全集75「近松門左衛門集二」, 小学館, 1998



螢のうた

2018-06-14 | アート・文化


夏は、夜。月のころは、さらなり。闇もなほ。
螢のおほく飛びちがひたる、また、ただ一つ二つなど、
ほのかにうち光りてて行くも、をかし。
雨など降るも、をかし。   (「枕草子」第一段)



時は六月のつごもり、いと暑きころほひに、
よひはあそびをりて、夜ふけてやや涼しき風ふきけり。
螢たかく飛びあがる。この男、見ふせりて、

  ゆく螢雲のうへまで去ぬべくは秋風ふくと雁に告げこせ

  暮れがたき夏の日ぐらしながむればそのこととなく物ぞ悲しき    (「伊勢物語」第四十五段)



参考資料:
萩谷朴校注:新潮日本古典集成「枕草子」上, 新潮社, 1977
渡辺実校注:新潮日本古典集成「伊勢物語」, 新潮社, 1976
吉井勇, 竹久夢二著:「新訳絵入伊勢物語」, 阿蘭陀書房, 1917





文章を書くこと

2018-06-09 | 日記・エッセイ


先月に査読のある学術雑誌に一通の投稿を行い、何度も修正論文を提出申し上げた後に目出度く採択を頂戴した。昨今はオンライン投稿である。投稿に際して数部の提出論文を揃える、焼いた写真をレイアウトして台紙に張り合わせる、などという手間はすっかり黴臭い過去の話となった。ところが送付物が運ばれている時間が省かれたかわりに、修正論文をようやく送付し得たと安堵して一息つく間もなく、再び真剣の一太刀が如く気迫に満ちたコメントの一刀が振り込まれてくる。自分としては推敲に推敲を重ねて提出したつもりであったが、用語、論点や論旨の不備について厳格な御指導を頂いて大いに勉強になった。明日の学会発表が終われば、また新たな投稿に向かって挑戦する予定である。

ところで本ブログは開始して四年目に入った。此処いらで何とやらを締め直して書くぞと思い定めた《二十四節気の養生》もあれば、水面近く浮かび上がった魚がぽろんと漏らす泡沫のたぐいまで、扱った題材は硬軟取り混ぜてひたすら雑多である。論文と異なってブログの場合は扱うテーマの自由度が大きい。だが何を書くにおいても臨床医の軸足を外したつもりはない。一見、日々の臨床に無関係な題材に見えても、その根はしかとつなげていると任じている。和田東郭先生曰く、「庭の樹木を見るにも山に遊び水に泛び、又煙草盆一つを手に提げて見ても、事々物々の中に自然と我術の工夫の手掛りとなる寓のある者なり。兎角各我業とする一藝にこりかたまりて習熟すべし」の御言葉を、遥かに及ばぬ凡医の身は何時も拳拳服膺している。