花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

大暑の養生

2015-07-23 | 二十四節気の養生


大暑(7月23日)は、二十四節気の第12番目の、夏季の最後の節気である。名称の通りに、一年で気温が最高温度となる酷暑の時節である。大暑に先立つ7月20日は土用の入りであった。五臓の中の脾は、「脾者土也、治中央、常以四時長四蔵、各十八日寄治、不得獨主於時也。」(『黄帝内経素問』太陰陽明論篇)と記されていて、陰陽五行説では木、火、土、金、水のうちの「土」にあたる。そして季節と方角では、肝が春と東、心が夏と南、肺が秋と西、腎が冬と北を主るのに対し、脾は方角的には東西南北の中央に位置し、特定の季節には対応していない。その代りに全ての季節の最終十八日を担当し、この時期を四季の土用という。夏の最後の十八日は特別に「長夏」と称する。「長夏」は常夏月、水無月などともに陰暦六月(今年は7月16日から8月13日まで)の異名でもある。
 一年の陽気の運動としては、春、夏が発散、上昇で、秋、冬が収斂、下降となり、外・上方への運動が次第に内・下方へと転換する、折り返しの時期を控えている。自然界は高温多湿の気候が続き、人体の陽気は外表へと浮き上がり、体内の脾胃の陽気は相対的に不足となる。この時期、過度の冷房に傾いた室内環境、冷飲食に偏った習慣がさらに脾胃の虚弱を悪化させて、嘔吐や下痢を伴う胃腸疾患を起こすことになる。引き続き、あっさりと消化のよいものを取ることを心がけ、生ものや冷えたものばかりの飲食を厳に慎まねばならない。

夏はいまさかりなるべしとある日の明けゆくそらのなつかしきかな    若山牧水

雨の四ツ谷駅

2015-07-12 | 日記・エッセイ


今週の後半は研究会・講習会が続き、一年で一番暑い季節を東奔西走した。冒頭はその折に、各停電車待ちの間に中央線、四ツ谷駅ホームから撮影した写真である。赤と黒と緑のコントラストが美しい、妙に心惹かれた造形であった。出席したのは、7月9日(木)は第2回「耳管開放症研究会」(東京)、7月11日(土)平成27年度 第一回「総合診断力向上講座」(京都)、次いで7月12日(日)シダトレン勉強会「シダトレンによる舌下免疫療法の実際」(京都)である。それぞれの会場では、各領域の知り合いの先生方に何度もお会いした。本年度より専門医の新制度が始まったが、今さら新たな制度改正で改めて尻を叩かれずとも、若い頃からの習慣なのか、医師は何かを新たに勉強してゆくことが結構好きなのである。診断基準、検査方法、治療手技等々が日進月歩の変遷を遂げて行く中で、生涯学習を続けてゆかねば到底勤まらない職業であることは言うまでもない。

夏期特別講習会2014「万能綰一心事」│大和未生流の花

2015-07-08 | アート・文化


毎年7月、華道、大和未生流の夏期特別講習会が奈良新公会堂で開催される。午前中が御家元の御講義で、午後からは副御家元の御指導による実技講習が行われ、最後に御家元の総評を伺った後に散会となる。本年は、京都府耳鼻咽喉科専門医会(京耳会)夏季セミナーおよび京耳会創立100周年記念講演会・祝賀会参加と重なった為、医業の本業優先でやむなく欠席した。昨年の平成26年度の講習会を振り返れば、「日本人と自然」を主題に、桂離宮古書院の月見台や笑意軒の土庇のお話から始まり、限られた本数の役枝で自然を凝縮体現する、生け花が有する象徴性に関して、さらには長谷川等伯「松林図屏風」の画中の余白、生け花の役枝と役枝の間の空白の持つ意味についての御講義があり、午後からの実習は、桔梗と矢筈芒を用いた暑中一陣の涼風を感じる盛花であった。また毎年の実技講習に際して、御家元監修のその年の花器が頒布されるのだが、平成26年度は、全面に黒い貫入が走る哥窯青磁をさらに薄手に清楚に仕上げた印象の趣のある水盤であった。

何も描かれていない余白、何も挿されていない空白の持つ意義に関する御講義の中で、御家元は花鏡「万能綰一心事(まんのうをいっしんにつなぐこと)」の中の一文を引用なさって御説明下さった。その全文を改めてここに書き写し残し置くことで、自らの今後の戒めとしたい。

「万能綰一心事」
 見所の批判に云はく、「せぬところが面白き」などいふことあり。これは、為手の秘するところの安心なり。
 まづ二曲をはじめとして、立ちはたらき・物まねの色々、ことごとく皆、身になす態なり。せぬところ申すは、その隙なり。このせぬ隙は何とて面白きぞと見るところ、これは、油断なく心をつなぐ性根なり。舞を舞ひやむ隙、音曲を謡ひやむところ、そのほか、言葉・物まね、あらゆる品々の隙々に心を捨てずして、用心をもつ内心なり。この内心の感、外に匂ひて面白きなり。かやうなれどもこの内心ありと、よそに見えては悪かるべし。もし見えば、それは態になるべし。せぬにてはあるべからず。無心の位にて、わが心をわれにも隠す安心にて、せぬ隙の前後をつなぐべし。これすなはち、万能を一心にてつなぐ感力なり。「生死去来、棚頭傀儡、一線断時、落々磊々」。これは生死に輪廻する人間の有様をたとへなり。棚の上の作り物のあやつり、色々に見ゆれども、まことには動くものにあらず。あやつりたる糸の態度なり。この糸切れん時は、落ちくずれなんとの心なり。申楽も色々の物まねは作り物なり。これを持つものは心なり。この心をば人に見ゆべからず。もしもし見えば、あやつりの糸の見えんがごとし。かへすがへす、心を糸にして、人に知らせずして、万能をつなぐべし。かくのごとくならば、能の命あるべし。総じて即座に限るべからず。日々夜々、行住坐臥にこの心を忘れずして、定心につなぐべし。かやうに油断なく工夫せば、能いや増しになるべし。この条々、極めたる秘伝なり。稽古有緩急。
(新潮日本古典集成『世阿弥芸術論集』田中裕校注 新潮社1976)

 観客の批評に、「あへて何もしないところが面白い」というのがある。これこそ、演者が身につけるべき境地である。
 基本の舞と歌を始め、様々な仕草や演技は、すべて身体で演じるわざである。「何もせぬところ」というのは、そのわざとわざの切れ目である。その間隙の部分がなぜ面白いのかと考えてみると、わざにわざをつなぐのではなく、わざに心をつないで次のわざにつないでいる、そこには切れ目のなく続く内心の緊張があるからである。一つの舞を舞い納め、あるいは音曲を謡い終わった後の狭間、その他の台詞、演技、ありとあらゆる外的表出の切れ目においても決して緩めることなく、緊張した心の働きを持ち続けることが大切である。この内的充実が、匂うが如くそこはかとなく外に顕れたときに、観客を感じ入らせることになるのである。
 しかしながら観客に、その様に仕掛けているなと見えてしまう様では駄目である。気配を悟られたならば、それは他の様々なわざと違いがない。何もしていない時というのは何もせずぼうっとしているのではない。自分の心を自分自身にも隠して無心の境地に入り、わざとわざの間に心をこめてつながねばならぬ。これが一心に万能を綰ぐ事、あらゆるわざを心ひとつにつなぎとめるということである。
 「生死去来、棚頭傀儡、一線断時、落々磊々」の偈は、輪廻転生の人間の有様を例えたものである。舞台の上のあやつりは色々のわざを見せてくれるが、所詮あやつる糸のわざに過ぎない。もし糸が切れたならば崩れ落ち、それでお終いなのである。
 能楽も色々の仕草や演技は作り物である。これを動かしているのは心である。そしてこの心を観客に見せてはいけない。心を糸にしてあらゆるわざをひとつにつなぎとめねばならない。これらは舞台の上だけの要諦ではなく、日夜、生活のあらゆる場面において、この心を忘れずに貫かねばならない。この様に油断なく工夫精進してゆけば、芸があやつりの様にくずおれることはない。ますますその輝きを増して行くことだろう。(拙訳)


小暑の養生

2015-07-07 | 二十四節気の養生


小暑(7月7日)は、二十四節気の第11番目の節気である。暑い気候を迎えながらも、いまだ暑熱の最盛期に達していないので、小暑と称する。三伏天は夏至から三番目の庚(かのえ)の日から始まる、7月中下旬から8月上旬(小暑から立秋に相当)の一年で最も気温が高い時期を称する。多くの人が全身倦怠感、気力減退、仕事の能率低下や、体重減少を起こしがちな時節である。防暑に努めるとともに、仕事時には活動と休養のバランスを取り、どちらかと申せば活動はやや控えめに安静をやや多くして、体内の陽気を保護し体力を温存してゆく必要がある。 
 夏の季節の暑邪あるいは暑湿の邪を感受しておこる急性熱性疾患を「暑温」という。明代の張景岳著『景岳全書』、暑証の段では陽暑と陰暑を区別して記載しているが、陽暑は暑熱の邪(陽邪)を感受して発生する急性熱病で、いわゆる熱中症である。一方、酷暑の時期は、往々にして冷たく涼しいものを追い求める生活に偏って、冷房をきかせた部屋に長居したり、冷たい生ものを多食・多飲する機会が多くなる。体内の新陳代謝が旺盛で体力の消耗が大きく、さらに過労や睡眠不足で体の抵抗力が減弱すると、風・寒・湿邪(寒湿は陰邪)が体表面を守る肺の衛気の虚に乗じて容易に侵入する。これが陰暑の発症機転である。暑証の論証における「陰暑証、或在于表、或在于裏、惟富貴安逸之人多有之, 總由恣情任性、不慎風寒所致也。」との記載をみると、恵まれた生活環境、食生活に慣れた現代人は、さらに安易に過度の凉を貪り寒湿の邪の暴露を受けがちであり、陽暑のみならず陰暑に対しても注意が必要である。

なにごとも かはりはてぬる 世の中に 契りたがはぬ 星合の空     建礼門院右京大夫


花ざくろ│植木職人三次郎と妻加代子

2015-07-03 | アート・文化


名優、藤山寛美主演の松竹新喜劇「花ざくろ」(館直志作)の芝居を、TV放映ではじめて観たのは、先の「銀のかんざし」と同じく子供の頃である。先日、石榴(ざくろ)のブログ記事を書いたのを契機に「花ざくろ」の芝居をふたたび観たくなった。求めたDVD(松竹芸能)は、昭和59年5月、中座での上演が収録されていて、妻の加代子を演じる女優さんは三代目の四条栄美である。

「花ざくろ」の筋書はこうである。主人公の垣山三次郎は、緑樹園に住み込む植木一筋の植木職人である。男の所に出奔してはまた舞い戻るという妻の加代子の不行跡のため、三次郎を大いに買っていた緑樹園の大将から、二人はついに引導を渡される日を迎える。三次郎は緑樹園における最後の日も、残し置く植木の丹精を怠らない。空の植木鉢(尻が抜けて穴が開いているという意らしい)とまで加代子に言われ日々軽んじられながらも、この様な無茶な女だから見捨ててみすみす不幸にするわけにはゆかないと、三次郎はともに出て行く道を選ぶのである。ところが事態は、部屋に迷い込んだミツバチを加代子が叩き殺したことを契機に急展開をみせる。死んだミツバチにあやまれと三次郎は詰め寄り、今まで誰にも見せたことのない怒髪天を衝く形相で、もう家には置けん、出てゆけと加代子を叩きだす。この時に突然、巡る因果というべきか、男が交通事故で危篤になったという知らせが舞い込む。人が窮地に陥れば助けようと努めるのが人の情と思い為し、男に治療費を渡してやろうと三次郎は家を後にする。路地の電柱の陰には降りしきる雨に濡れた加代子が佇む。これからは植木づくりのええ女房になると泣き続ける加代子を引き寄せ、三次郎は花道を病院へ向かう。まとめた二人の荷物を解いておいてやるぞと大将は呼びかけて、緑樹園への復帰を許すのである。
以下は三次郎いわく、彼の真骨頂である。

「丹精込めて植木を作って花咲かせて、さあこれから実らそうとする時に一番働くのは何だ、ミツバチと違うのか。(中略)其処へ飛んできてくれたミツバチだったら、神さんからお使いに来てくれたなとでもと思い、大事にしなければならないミツバチだということを、おまえに植木づくりの嫁さんの性根があったら、わからん筈はないだろう!」

「人に命があるならば、ハチにも命があるぞ。おまえはもののあはれがわからんのか。命のはかなさが、女(おなご)だてらにわからんのか!」

「ミツバチを平気で殺すような女をだぞ、植木づくりの嫁さんでございますとわしが平気な顔でおったら、わしは日本中の植木づくりに合わせる顔がないわ!」

恐らくどのような職種にも、その職を全うするために絶対に取り落としてはならぬ心得と、決して踏み越えてはならぬ一線があるに違いない。これらの定め事を、その業界で飯を食う者やそれに連なる者としてきちんと弁えているか、それが出来ぬ様ではその世界で身過ぎ世過ぎしてゆく資格がない。花石榴(花ざくろ)は八重の園芸品種で、普通の石榴(ざくろ)と違って果実が実らない。女としての華があるも、植木職人の嫁さんとしての立ち位置を定められない加代子は徒花であり、題名通りの「花ざくろ」である。不作の木と周囲から謗られようとも、それでも三次郎は決して加代子を見放さない。緑樹園を追われる仕儀に追い込まれた時でさえも、わしが傍に居て立場を守ってやらねばと思いやる。それぞれの良さも癖も含めて一木一草の特性を大切にし、幾多の草木に長年寄り添ってきた、それが三次郎の心根である。

大団円の花道で、三次郎は大将に告げる。
「こんな枝ぶりの悪い女ですけど、わしがうまくまた刈込みますから。」
ここで観客席からはどっと笑いがおこるのだが、フェミニストの先生方の眦をいささか決してしまうセリフかもしれない。しかしこれは植木づくりならではの表現で、加代子とともに生きて行くことの宣言なのである。またこの時、「縁先に出しっぱなしの花ざくろの植木鉢を内に取り入れておいてもらえませんか」と、彼は見送って下さる大将にお願いする。芝居の中で実際に題名の「花ざくろ」の話が出てくるのは、この場面だけである。こうして最後に花ざくろへの気遣いを三次郎に語らせることにより、改めて一つ屋根の下に加代子を引き戻し夫婦として再出発するのだという、彼の思いが強調されている。

最後になるが、これまで植木職人や庭師の方々から、心に残る実に多くの事を聞かせて頂いた。思えばお互い、生きとし生けるものへの心遣いが問われる業種なのである。お一人からは、「こいつに切らせてたまるかいと思われると、必ずその木から落とされます。」と聞かされた。物言わぬ樹木からの声を聞くことが出来ない職人であれば、何処かに傲慢で脇の甘い油断が生まれるのだろう。また当家には実生で芽吹き根付いた一本の赤松があるが、ここ何年にもわたる見守りの手入れを経て、今年の剪定でやっと赤松らしい樹形が整った。樹勢がいまだ充実していない時に伸長した枝葉を刈込むと、根からの吸い上げが落ちて枯れるためと教えて頂いた。三次郎が述べた刈込みであるが、刈込みにも時宜があるのである。

半夏生(はんげしょう)

2015-07-02 | 漢方の世界


半夏生は、この時期の茶花の花材として用いられることが多い、涼しげな風情の草花である。遥か昔に瓢亭での夜の懐石で、雨に濡れた路地で白く揺れていた半夏生の名前を初めて知った。夏至から11日目の半夏生の頃(平成27年は7月2日)、下部の葉は緑色のままで上部の葉が2、3枚白く変わり、別名「片白草(かたしろくさ)」、また半分だけ化粧したかのようであるので「半化粧」とも呼ばれる。

どくだみ科ハンゲショウ属の多年草で、学名はSaururus chinensis (Lour.) Baill.である。半夏生の中国名は「三白草」で、地上部分の全草が生薬「三白草(さんぱくそう)」となる。薬性は寒、薬味は甘、辛、帰経は脾、腎、胆、膀胱経である。「十薬(じゅうやく)」や「魚腥草(ぎょせいそう)」の名前で知られる、どくだみ科ドクダミ属のドクダミと効能は似ていて、清熱利尿、解毒消腫(熱毒を冷まして利尿し、熱毒による腫れ除き排膿する)の働きを持ち、尿路感染や皮膚湿疹に有効とされている。

いつまでも明るき野山半夏生     草間時彦