名優、藤山寛美主演の松竹新喜劇「花ざくろ」(館直志作)の芝居を、TV放映ではじめて観たのは、先の「銀のかんざし」と同じく子供の頃である。先日、石榴(ざくろ)のブログ記事を書いたのを契機に「花ざくろ」の芝居をふたたび観たくなった。求めたDVD(松竹芸能)は、昭和59年5月、中座での上演が収録されていて、妻の加代子を演じる女優さんは三代目の四条栄美である。
「花ざくろ」の筋書はこうである。主人公の垣山三次郎は、緑樹園に住み込む植木一筋の植木職人である。男の所に出奔してはまた舞い戻るという妻の加代子の不行跡のため、三次郎を大いに買っていた緑樹園の大将から、二人はついに引導を渡される日を迎える。三次郎は緑樹園における最後の日も、残し置く植木の丹精を怠らない。空の植木鉢(尻が抜けて穴が開いているという意らしい)とまで加代子に言われ日々軽んじられながらも、この様な無茶な女だから見捨ててみすみす不幸にするわけにはゆかないと、三次郎はともに出て行く道を選ぶのである。ところが事態は、部屋に迷い込んだミツバチを加代子が叩き殺したことを契機に急展開をみせる。死んだミツバチにあやまれと三次郎は詰め寄り、今まで誰にも見せたことのない怒髪天を衝く形相で、もう家には置けん、出てゆけと加代子を叩きだす。この時に突然、巡る因果というべきか、男が交通事故で危篤になったという知らせが舞い込む。人が窮地に陥れば助けようと努めるのが人の情と思い為し、男に治療費を渡してやろうと三次郎は家を後にする。路地の電柱の陰には降りしきる雨に濡れた加代子が佇む。これからは植木づくりのええ女房になると泣き続ける加代子を引き寄せ、三次郎は花道を病院へ向かう。まとめた二人の荷物を解いておいてやるぞと大将は呼びかけて、緑樹園への復帰を許すのである。
以下は三次郎いわく、彼の真骨頂である。
「丹精込めて植木を作って花咲かせて、さあこれから実らそうとする時に一番働くのは何だ、ミツバチと違うのか。(中略)其処へ飛んできてくれたミツバチだったら、神さんからお使いに来てくれたなとでもと思い、大事にしなければならないミツバチだということを、おまえに植木づくりの嫁さんの性根があったら、わからん筈はないだろう!」
「人に命があるならば、ハチにも命があるぞ。おまえはもののあはれがわからんのか。命のはかなさが、女(おなご)だてらにわからんのか!」
「ミツバチを平気で殺すような女をだぞ、植木づくりの嫁さんでございますとわしが平気な顔でおったら、わしは日本中の植木づくりに合わせる顔がないわ!」
恐らくどのような職種にも、その職を全うするために絶対に取り落としてはならぬ心得と、決して踏み越えてはならぬ一線があるに違いない。これらの定め事を、その業界で飯を食う者やそれに連なる者としてきちんと弁えているか、それが出来ぬ様ではその世界で身過ぎ世過ぎしてゆく資格がない。花石榴(花ざくろ)は八重の園芸品種で、普通の石榴(ざくろ)と違って果実が実らない。女としての華があるも、植木職人の嫁さんとしての立ち位置を定められない加代子は徒花であり、題名通りの「花ざくろ」である。不作の木と周囲から謗られようとも、それでも三次郎は決して加代子を見放さない。緑樹園を追われる仕儀に追い込まれた時でさえも、わしが傍に居て立場を守ってやらねばと思いやる。それぞれの良さも癖も含めて一木一草の特性を大切にし、幾多の草木に長年寄り添ってきた、それが三次郎の心根である。
大団円の花道で、三次郎は大将に告げる。
「こんな枝ぶりの悪い女ですけど、わしがうまくまた刈込みますから。」
ここで観客席からはどっと笑いがおこるのだが、フェミニストの先生方の眦をいささか決してしまうセリフかもしれない。しかしこれは植木づくりならではの表現で、加代子とともに生きて行くことの宣言なのである。またこの時、「縁先に出しっぱなしの花ざくろの植木鉢を内に取り入れておいてもらえませんか」と、彼は見送って下さる大将にお願いする。芝居の中で実際に題名の「花ざくろ」の話が出てくるのは、この場面だけである。こうして最後に花ざくろへの気遣いを三次郎に語らせることにより、改めて一つ屋根の下に加代子を引き戻し夫婦として再出発するのだという、彼の思いが強調されている。
最後になるが、これまで植木職人や庭師の方々から、心に残る実に多くの事を聞かせて頂いた。思えばお互い、生きとし生けるものへの心遣いが問われる業種なのである。お一人からは、「こいつに切らせてたまるかいと思われると、必ずその木から落とされます。」と聞かされた。物言わぬ樹木からの声を聞くことが出来ない職人であれば、何処かに傲慢で脇の甘い油断が生まれるのだろう。また当家には実生で芽吹き根付いた一本の赤松があるが、ここ何年にもわたる見守りの手入れを経て、今年の剪定でやっと赤松らしい樹形が整った。樹勢がいまだ充実していない時に伸長した枝葉を刈込むと、根からの吸い上げが落ちて枯れるためと教えて頂いた。三次郎が述べた刈込みであるが、刈込みにも時宜があるのである。