古川柳に有名な一句、「売家と唐様で書く三代目」がある。先代や先々代の苦労を知らず、道楽に溺れた挙句に破産した穀潰しを皮肉った句である。見方を変えれば、一代で身代を築き上げても、それだけの素養を自分のものとするには三代を要するということになる。放蕩で身上を潰すのはいとも簡単なことだが、その去り際に唐様で書けるだけの技量を有する三代目であることは決して容易ではない。国を傾けた風流天子には遥かに及ばずとも、身代を虚空に捧げる供物とするくらいの腹の括り方なくして、実業の世界から見れば道楽でしかない教養も芸事も碌に身に付かないのである。
さて神沢杜口著、江戸時代の随筆『翁草』には、残し置く思いを歌に詠み、その短冊を松が枝に引き結んで立ち去る売家の主を書いた「売家の松」の一節がある。おそらく水茎の跡も麗しくしたためられた短冊であったに違いない。
「洛の尼崎何某、世に懶うく自の家を售りて立退く時、常に愛せし老樹の聳えたるに名残を惜みて、斯なん短冊を付て、千々の思ひを後のあるじに告て去りぬ。
馴て見し軒端の松よけふよりは後の主の千代をともなへ
買得たる人、敢て此情をしらず、何某がしつらひ置ぬる雅室を悉く破却して、其跡に透間なく借屋を建るに、此老松邪魔に成るとて、枝栄えたる老樹を伐り倒してけり。むくつけに無下なる挙動と見る人にくみぬ。」
(日本随筆大成 第三期第23巻 翁草<5>、吉川弘文館、p216-217)
同時代の随筆である伴蒿蹊著、『閑田次筆』を末尾に掲げたが、こちらでは歌のよしあしや「買得たる人」のその後の消息にも触れて、この一件の顛末をさらに詳細に語っている。一方、先の『翁草』の「売家の松」では、松の老樹をはさんで対峙する、決して交わることのない二つの心の軌跡を、ただ淡々と僅か数行に書き留めている。かえってそのことにより痛烈な余韻を読む者に残してくれる。
「買得たる人」は、貧しい農夫から桜の園の地主に成り上がったロパーヒンの如き人である。「さる意ばせ故に、貧にはなるらん」と言い捨てて、桜ならぬ松の木を一刀のもとに切り倒した、この男の胸に去来するものは何であったのか。義理人情など弊履の如く捨て去る非情を貫かねば、生き馬の目を抜くこの浮世に生き残れるものかという激越か。そうやって諸々を踏み潰してきた足裏の痛みを知る筈もない、大甘で苦労知らずの売主などに気遣われるとは片腹痛いという憫笑か。あなたにはこれだけの心得がおありですかと問われた訳では更々ないのに、先主の精魂込めた有終の心遣いが反って、男のささくれた神経を逆撫でしてしまったのか。功成り名遂げたかはともかく、大家を買い取るだけの財をなしても、その身に染み付いたルサンチマンというものは決して消えることがないのかもしれない。そうして折角人生双六の上がりを決めた筈なのに、「買得たる人」も躓いて元の木阿弥に戻ってしまうのである。
家が売れてゆく時も、松の老樹が伐り倒される時も、其処に新たな家が並び建つ時も、そして何時の日にかまた何も残らない荒涼たる更地になる時も、噂をしながら遠巻きに、高見の見物をするより他はない世間はさらに非情である。
「(前略)又四十年前に交りし尼崎通斎といふは、もと浪華の人にて、京に住て医を業とせしが、いたく歌をこのみて、辞すがたしらべにこころを用ゐ、歌学はふつになかりしかど、よみ歌におきてはうつくしきものなりき。其人富豪の子弟なりしかば、過奢になれて散財度に過しが、富小路四条わたりにもたりし大家を売に臨み、床上にめでたき掛物をかけ、さて庭に大きなる松のありしによせて、
馴て見し軒端の松よこゝにすむのちのあるじのちよをともなへ
とよみしが、〔割註〕三句住かはると聞たがへし人多かりしを、予直に尋ねし時、それにては詞よからず、こゝに住なりといはれし。かく細かに心を用し人なり。」いとあはれなり、おもしろしなど、其比京中に、歌はよむもよまぬもいひはやせし。かの俊頼朝臣のうたをはじめ、学丹、通斎等のも、情にしたしきは、おのづからに人感じて、世に弘まり。永縁僧正のはおもしろけれども、唯風流のうへなれば、托せざれば唱へず、よく思ふべきことなり。さて彼の通斎が家を買得しものは、ひとへに利を射ることをのみむねとするものなれば、嘲りてさる意ばせ故に、貧にはなるらんとて、やがて彼松を情なく伐たをし、長屋を建そへしが、一とせもたゝぬまに強欲のけにや、宮の禁を犯して獄につながれ、彼家も又たゞちに他の有になりしかば、松を伐て先主の志を空しくせしを憎みしよの人々、いとこゝろよきことなりとわらひたり。老の寝覚に、こしかたの事をつらつら思ひ出てしるす。」
(日本随筆大成 第一期第18巻 世事百談、閑田耕筆、閑田次筆、天神祭十二時、吉川弘文館、p372)