自分の流派ならばこう生けるというバイアスのかかった眼を外し、他流派のいけばな作品を虚心坦懐に拝観するということは容易ではない。ひとつの流派に入門して幾許かの学びを得た眼には、研鑽が未だ不十分であろうとも、既にささやかな色眼鏡が張り付いている。
しかしながら他流派のいけばな展に伺い、属する流派とは当然、方向性が全く異なる造形を前にして、どう生けるかなどという当方の勘案をものの見事に吹き飛ばしてくれる御作に出会うことがある。空間構成を異とする他流派の作品から感動を頂いた場合、極言すれば、その挿法が心の琴線に触れたのではない。あたかも深層意識の元型が呼び起こされて眼前に屹立するかの如く、内奥から奔騰するしたたかなかたちに圧倒されるのである。
所属流派の優品に接する時、ともすればこの型、組み方、線の長さか角度かと凝視して、さらに学ぶべき挿法の解析ばかりに関心が向きがちである。分ったつもりの色眼鏡を外して観照することは、属する流派のいけばなに対峙する方が本当は遥かに難しいのかもしれない。