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風姿花伝第一、年来稽古条々の中では、能役者の一生を七歳から五十有余までの七期に身体年齢で分けて、各々の時期に取るべき心構えが論述されている。このうちの「二十四・五」の段について、華道、大和未生流の須山御家元が年頭の言葉でお話しになった年があった。「二十四・五」の段は元来、欣々向栄の盛りに向かう年頃についての叙述である。御家元はここで述べられている心得が年齢や芸道の種類を超えて通じるものであり、生け花にかかわる我々も心に留めるべき事柄であることを語られた。位より上の上手と思い上がっては、其処でそのまま芸は止まるのである。
この段に書かれた「時分の花」は一瞬の輝きにも似て実にデリケートな花であり、本人にとっても周りからも扱い損じれば危険な花でもある。だがこの当座の花がついぞ咲かなかった寂しき野に、時経てまことの花だけが美しく花開くことはない。移ろいゆくものなど知ったことかと、嘯き肩をそびやかす風姿がいなせに小気味好くはまる時期があり、それは早すぎても遅すぎてもはずれの徒花になる。人生の上り坂におけるクライマーズハイに過ぎぬとも、危うい全能感の足元に底の浅さが透けて見えるとも、年盛りに向かって駆け上る奔馬は下手に矯められてはならず、導く者も伯楽たり得るかとその資質が問われる。
この世に尽きることのない見上げるべきものを見上げて、慎ましい畏敬の念を持つことは言うまでもなく大切ではあるが、それで足が竦んで小さく萎むくらいなら、主も上手と思ひしむるくらいの傲岸さの方が清々しく、驕りの春には一層相応しい。まさに「その子二十櫛に流るる黒髪のおごりの春の美しきかな」である。
《原文》このころ、一期の芸能の定まるはじめなり。さるほどに稽古の堺なり。声もすでに直り、体も定まる時分なり。さればこの道に二つの果報あり。声と身なりけり。これ二つは、この時分に定まるなり。年盛りに向かふ芸能の生じるところなり。
さるほどによそ目にも、すは、上手出きたりとて、人も目に立つるなり。もと、名人などなれども、当座の花に珍しくして、立合勝負にも一旦勝つ時は、人も思ひ上げ、主も上手と思ひしむるなり。これ、かえすがえすも主のため仇なり。これもまことの花にはあらず。年の盛りと、見る人の一旦の心の、珍しき花なり。まことの目利きは見分くべし。
このころの花こそ初心と申すころなるを、窮めたるやうに主の思ひて、はや申楽に側みたる輪説とし、至りたる風体をすること、あさましきことなり。たとひ人も褒め、名人などに勝つとも、これは一旦、珍しき花なりと思ひ悟りて、いよいよ物まねを直ぐに為定め、なほ得たらん人に事を細かに問ひて、稽古をいや増しにすべし。されば時分の花をまことの花と知る心が、真実の花になほ遠ざかる心なり。ただ人ごとに、この時分の花に迷ひて、やがて花の失するをも知らず。初心と申すは、このころのことなり。
一、公案して思ふべし。わが位のほどをよくよく心得ぬれば、そのほどの花は、一期失せず。位より上の上手と思へば、もとありつる位の花も失するなり。よくよく心得べし。 (『新潮日本古典集成 世阿弥芸術論集』、新潮社)
さるほどによそ目にも、すは、上手出きたりとて、人も目に立つるなり。もと、名人などなれども、当座の花に珍しくして、立合勝負にも一旦勝つ時は、人も思ひ上げ、主も上手と思ひしむるなり。これ、かえすがえすも主のため仇なり。これもまことの花にはあらず。年の盛りと、見る人の一旦の心の、珍しき花なり。まことの目利きは見分くべし。
このころの花こそ初心と申すころなるを、窮めたるやうに主の思ひて、はや申楽に側みたる輪説とし、至りたる風体をすること、あさましきことなり。たとひ人も褒め、名人などに勝つとも、これは一旦、珍しき花なりと思ひ悟りて、いよいよ物まねを直ぐに為定め、なほ得たらん人に事を細かに問ひて、稽古をいや増しにすべし。されば時分の花をまことの花と知る心が、真実の花になほ遠ざかる心なり。ただ人ごとに、この時分の花に迷ひて、やがて花の失するをも知らず。初心と申すは、このころのことなり。
一、公案して思ふべし。わが位のほどをよくよく心得ぬれば、そのほどの花は、一期失せず。位より上の上手と思へば、もとありつる位の花も失するなり。よくよく心得べし。 (『新潮日本古典集成 世阿弥芸術論集』、新潮社)
この頃は一生の芸能が決まる最初の時期であり、稽古にあたり心せねばならぬ大事な分かれ目である。声変わりが治まり、身体も落ち着く時期であり、能の道においてこの声と姿が定まることが有利に働く時期である。
盛りに向かい花開く時期であるから、観客もこれこそ天才降臨やと注目する。名人の域にある人が相手であっても、一時の花がもてはやされて競演で一勝を挙げることがあれば、周りも自らも向かうところ敵なしと鼻息が荒くなる。このような仕儀は当人にとってむしろ害になる。これは真実の花ではなく、単に若盛りを面白がられただけの一時の花であるからだ。観る眼がある人を決して欺くことはできない。
そしてこの頃の花こそ学び始めの初心と言うべきであるのに、もはや道を窮めたと思い違いをして、わざと外した酔狂や名人気取りの振る舞いをするのは笑止千万である。たとえやんやの喝采を博し名人を凌ぐことがあっても、これは若盛りを迎えるが故の時分の花であると気を引き締めて、従来の型を丁寧に学び、道を会得した人に逐次教えを乞い、これまで以上に稽古に励むべきである。このような訳で、時分の花を取り違える心が、まことの花からその身を一層遠ざけることになる。時分の花はすぐに消えてしまうことを誰も彼もが弁えていない。今一度申すが、初心とはこの頃であるのだ。くれぐれもこの事に留意すべきである。身の程をよくわきまえているならば、身に着けた程度の花は生涯消えることはない。しかし、身の程知らずに思い上るならば、その花さえも早晩失うだろう。しかと心に命じねばならない。(拙訳)
盛りに向かい花開く時期であるから、観客もこれこそ天才降臨やと注目する。名人の域にある人が相手であっても、一時の花がもてはやされて競演で一勝を挙げることがあれば、周りも自らも向かうところ敵なしと鼻息が荒くなる。このような仕儀は当人にとってむしろ害になる。これは真実の花ではなく、単に若盛りを面白がられただけの一時の花であるからだ。観る眼がある人を決して欺くことはできない。
そしてこの頃の花こそ学び始めの初心と言うべきであるのに、もはや道を窮めたと思い違いをして、わざと外した酔狂や名人気取りの振る舞いをするのは笑止千万である。たとえやんやの喝采を博し名人を凌ぐことがあっても、これは若盛りを迎えるが故の時分の花であると気を引き締めて、従来の型を丁寧に学び、道を会得した人に逐次教えを乞い、これまで以上に稽古に励むべきである。このような訳で、時分の花を取り違える心が、まことの花からその身を一層遠ざけることになる。時分の花はすぐに消えてしまうことを誰も彼もが弁えていない。今一度申すが、初心とはこの頃であるのだ。くれぐれもこの事に留意すべきである。身の程をよくわきまえているならば、身に着けた程度の花は生涯消えることはない。しかし、身の程知らずに思い上るならば、その花さえも早晩失うだろう。しかと心に命じねばならない。(拙訳)