「譎而不正」と「正而不譎」の対句表現は、『論語』巻第七、憲問第十四「子曰、晋文公譎而不正、齊桓公正而不譎」(晋の文公は譎りて正しからず。斉の桓公は正しくして譎らず。)を踏まえる。晋文公と斉桓公は斉桓晋文と称される中国春秋時代の英傑で、春秋時代は周王室が弱体化し上古の封建秩序が崩壊した群雄割拠の乱世である。君臣における礼を重視する孔子は、斉桓公は正道により謀略を用いなかった、一方、晋文公は謀略を好み正道によらなかった、という対比を用いて両雄を論じている。
『論語徴』は荻生徂徠が著した注釈書で、「大氐(たいてい)奇變百出する之を譎と謂ひ、堂堂正正たる者は之を正と謂ふ。奇變百出する者は、人に勝たんことを求むる者なり。堂堂正正たる者は、勝たれざらんことを求むる者なり。」との記述がある。文公は勝とうとした、桓公は負けまいとしたという対比表現を用いて、正攻法の「正」に対して奇襲作戦の「奇」に相当する奇變百出が「譎」であるという意である。「譎」は「詐」ではなく「詭」の意味に判読すべきであり、「正」、「譎」は「兵家の辭」(兵法用語)であって両雄の道義性を論じたのではないというのが見解である。
『(春秋)穀梁伝』は『春秋』の解釈書であり、野間文史著『春秋学―公羊伝と穀梁伝』に紹介されているのは『穀梁伝』「秋、八月、諸侯盟于首戴」に語られる「變之正」という表現である。第六章《穀梁伝の思想》を辿れば、斉桓公もまた諸侯であるのに天子に朝せず、王の世子(王位継承者)は子であるのに己が位に立った不臣であること、しかし晋文公のように周の襄王を践土に招聘しなかったことが述べられている。さらに本書は、理想と現実の狭間で当時の実情を鑑みて、斉桓公の完全無欠ではなかった行いを『穀梁伝』が「変の正」(「正式な礼ではないが、時宜にかなったもの」という意)と許容したと言及する。宮城谷昌光著、歴史小説『重耳』を紐解いてみれば、この城濮の戦後について、周王の行幸で晋はその威光を借りた一方、周王は行幸により威光を示したのであり、周王と晋文公(重耳)の双方に意義があったという論考を示している。
そして『孟子』を閲読すれば、巻第十四、尽心章句下「孟子曰く、春秋に義戦なし。彼、此より善きは即ちこれあり。征とは上(かみ)、下(しも)を伐(う)つなり。敵国(対等の国)は相征せざるなり。」という主張である。『春秋』に書かれているものには正義の戦争というべきものは一つもないこと、上の天子が下の諸侯を討伐し正す戦いが義戦であって、対等の諸侯同士が天子の命を受けず勝手に争うのは上が下を正す征伐ではないと論じる。同じく「五覇は三王の罪人なり。」とも述べて、春秋時代の斉桓晋文を含む五人の覇者は、夏、殷、周の三王朝を起こした王者にとっては罪人であると断じているのである。
人間が裁定する「正」、「譎」という評価は、あくまでも或る一定の基準に基づく相対的な判断である。恣意的に基準となる仕切りの線引きを変えれば、もたらされる評価は当然異なったものになる。世俗に随い私利が絡めば、昨今の様に「正」、「譎」の判断は容易に変節する。またいかに判断材料となるべき周辺情報を網羅的に収集しようとも、其の人の牙城に迫って本性まで知り得るかと言えば、これまた疑問である。
ただ何を為すにおいても、今よすがと頼み信じる基準に照らして「正」か「譎」かと査定する姿勢を失ってはならないと切に思う。我が身で申せば「答て云く、医家となればなり。」でありたい。なったからには守らねばならない「正」、外せば「譎」となるべきものがある。
参考資料:
金谷治訳註:ワイド版 岩波文庫『論語』, 岩波書店, 2001
荻生徂徠著, 小川環樹訳註:東洋文庫575『論語徴』1, 平凡社, 1994
野間文史著:『春秋学 公羊伝と穀梁伝』, 研文出版, 2001
宮城谷昌光著:講談社文庫『重耳』下、講談社, 1996
小林勝人訳註:岩波文庫『孟子』下, 岩波書店, 1972