花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

厚朴(こうぼく)

2017-06-29 | 漢方の世界
「厚朴(こうぼく)」はモクレン科モクレン属、カラホオ(Magnolia officinalis Rehder et Wilson)およびその変種の樹皮、根皮からえられる生薬である。日本産の「和厚朴」はホオノキ(Magnolia obovata Thunberg)の樹皮を用いる。「厚朴」は芳香化湿薬(主として中焦脾胃に停滞した湿邪を取り除く薬物)に分類される。有形之実満(便秘があるような場合の膨満感)を下し、無形之湿満(湿邪の停滞による膨満感)を散じることも出来る、脹満の要薬である。
 薬性は苦、辛、温、経絡は脾、胃、肺、大腸経に属する。効能は燥湿消痰、下気除満、平喘(気を降ろし巡らせて脾胃の気滞、寒湿や食積を取り除いて胸腹部の脹満感や脹痛を改善する。肺の痰湿を除いて咳嗽、呼吸困難を改善し呼吸を整える。)である。改めて薬性を鑑みれば、苦は降ろす、辛は散じる、温は燥湿(cold-wetな病態において余剰の湿を乾燥させる。---なおこれは心不全病態分類のNohria-Stevenson分類とは無関係。)の作用となる。また「厚朴花」は花蕾から得られる生薬で、薬性や薬効は「厚朴」と似るが働きは弱い。

ホオノキは別名、朴柏(ホオガシワ)、モクレン科モクレン属の落葉高木で、5~6月頃に香気を放つ大きな白色の花を咲かせる。ちなみに「朴の花(ほほのはな)」、「厚朴の花(ほほのはな)」、「朴散華(ほほさんげ)」は夏の季語で、朴落葉(ほほおちば)は冬の季語である。一昨日、京北町に育ったホオノキの葉を沢山頂戴したのだが、倒卵状の葉は実に大きく青々として瑞々しい。野趣そのままに殆ど手を加えず、庭の矢筈芒を取り合わせて信楽の大壺に投入れた。大壺の中の落としに溜めた水は僅か半日で吸い上げられて見る間に減ってゆき、「厚朴」の気を動かし水をさばいてゆくダイナミズム、改めてその優れた効能を如実に見せつけられた思いがした。

朴散華すなはち知れぬ行方かな   川端茅舎




心中を滅し得れば火も自ら涼し

2017-06-25 | アート・文化


晩唐の杜荀鶴に《夏日題悟空上人院》という詩がある。転結句は、織田軍の焼き討ちにて三門楼閣上で門下の僧とともに火定にお入りになった際、甲斐恵林寺、快川紹喜禅師がお唱えになった遺偈、「安禅必ずしも山水をもちいず、心頭を滅却すれば火も自ずから涼し」として知られる。はるか以前にこれもまた学会旅行にて恵林寺を参拝した折、「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」が記された風林火山の小さな旗印とともに、国師の遺偈が揮毫された色紙を求めて大事にしてきた。ところが不覚にも駅前再開発の移転に伴う転居の時に色紙を紛失して今は手元にない。

夏日題悟空上人院  杜荀鶴
三伏閉門披一衲、兼無松竹蔭房廊。 
安禪不必須山水、滅得心中火自涼。

夏日、悟空上人の院に題す 
三伏門を閉じて一衲(いちのう)を披(はお)る。
兼ねて松竹の房廊を蔭(おお)う無し。
安禪必ずしも山水を須(もち)いず。
心中を滅し得れば火も自ら涼し。
(川合康三編訳:岩波文庫『中国名詩選』下, p213-214, 岩波書店, 2016)

本年、京都、北村美術館、春季茶道具取合展の御題は「薫風」で、文宗皇帝が詠じた「人皆苦炎熱、我愛夏日長」に、柳公権が「薫風自南来 殿閣生微涼」と受けて詠じた詩中の句を踏まえた御題との事である。季語分類で「薫風」、「風薫る」は夏に属し初夏の南風を意味する。『和漢朗詠集』夏・納涼には、中唐の白居易(白楽天)の《苦熱題恆寂師禪室》を出典とする「是禅房に熱の到ること無きにはあらず ただ能く心静かなれば即ち身も凉し」の詩句が選ばれている。「薫風」に関連し、重ねて白居易の「薫風自南至」の詩句を含んだ《首夏南池独酌》とともに下に掲げた。一陣の薫風を知る「薫風自南来 殿閣生微涼」は、「心中を滅し得れば火も自ら凉し」、「心静なれば即ち身も涼し」と詠じた何にも捉われぬ境地に繋がるものである。

苦熱題恆寂師禪室  白居易
人人避暑走如狂、獨有禪師不出房。
可是禅房無熱到、但能心靜即身涼。

熱に苦しみ、恆寂師の禪室に題す
人人暑を避け走りて狂するが如し、獨り禅師の房を出でざる有り。
可(はた)して是れ禅房に熱の到ること無けんや、但だ能く心静なれば即ち身も涼し。
(岡村繁著:新釈漢文大系 第99巻『白氏文集』三, 巻十五 律詩三, p272, 明治書院, 1988)

首夏南池独酌 白居易
春盡雜英歇、夏初芳草深。 
薫風自南至、吹我池上林。 
綠蘋散還合、頳鯉跳復沈  
新葉有佳色、殘鶯猶好音。 
依然謝家物、池酌對風琴。  
慙無康樂作、秉筆思沈吟。
境勝才思劣、詩成不稱心。

首夏、南池に独酌す
春盡きて雜英歇(つ)き、夏初芳草深し。
薰風南より至り、我が池上の林を吹く。
綠蘋(りょくひん)散じて還た合ひ、頳鯉(ていり)跳りて復た沈む。
新葉佳色有り、殘鶯(ざんあう) 猶ほ好音。
依然たり謝家の物、池に酌んで風琴に對す。
康樂の作無きを慙ぢ、筆を秉(と)りて思ひ沈吟す。
境勝りて才思劣り、詩成れども心に稱(かな)はず
(岡村繁著:新釈漢文大系 第108巻『白氏文集』十二上, 巻六十九 半格詩 律詩附, p248-249, 明治書院, 2010)

本年度、水無月の日本東洋医学会・学術講演会の演題発表において、「南風(南薫)を求めんとすれば, 須らく北牖(北窗)を開くべし」に取り組む機会があり、まさに「薫風」の時宜を得た発表となった。この古くから言い継がれてきた箴言は、身体を家屋に譬えて如何に体内の<通風>を図るかという治療上の工夫を示唆している。昔から遅筆だけは人後に落ちる気がしないが、このたびは珍しく感慨が褪せぬうちにと学会発表内容を論文に仕上げるべく鋭意努力中である。これも一つの機縁なのであろう。

盛岡の桜は石を割って咲く│『壬生義士伝』

2017-06-18 | アート・文化


先の「木瓜の詩」の記事において、学会の学術講演会や研究会に出張する機会を得たお蔭で国内の津々浦々を訪問することが出来たと書いた。そのような動機がなければ生来出不精な私があちこちを旅する事はなかったに違いない。そして各地の土地ならではの自然や風俗、訪れた季節の風趣が、その折に拝聴した講演や発表した演題などの記憶と相まって折に触れて今もなつかしく思い出されるのである。

昨今専門医制度が大きく変化を遂げてから、ますます増大する各地からの参加者の便宜をはかる為に、中央から離れた地方での開催が減った感がある。会場へのアクセスが容易で多人数を収容できる施設がある新幹線沿線の大都市での開催が多くなり、かつて会場を取り巻いていた地方独自の文化の香りなど、少しも漂ってこない学術講演会や研究会になってゆくのは時代の趨勢なのだろう。何が第一義に求められるかと申せば、会場内での開催内容の充実と遅滞ない進行が本義であることは言うまでもないのだから。

学会と言えば、耳鼻咽喉科の大学医局に入局した際に初めて入会したのが日本耳鼻咽喉科学会である。その後は自分の環境や興味の変遷とともに、途中で入会した学会があれば退会した学会もあった。滲出性中耳炎関連で肺炎球菌を用いた基礎研究に携わっていた頃には日本細菌学会に入会していたが、四月初めに盛岡で総会・学術講演会があり、かの有名な「石割桜」が見られると喜び勇んで出立した。ところが彼の地の桜の開花は畿内より遅いことを全く考えておらず、ようやく辿り着いたら全て蕾のままであった。些か色褪せてきた冒頭の写真が、御縁のなかったその折の未だ桜咲かずの「石割桜」である。
 なお学会参加記念で配られた土産ではなかったと思うのだが、会場内で乾燥わかめの一袋を頂戴して盛岡から帰京した。ひたすら臨床畑を歩いて来た両親がわかめの袋を見るなり、基礎系の学会は飾り気なく質実なのやねえとしみじみと感心していた。

「石割桜」の話は、浅田次郎著の時代小説『壬生義士伝』において、主人公の吉村貫一郎が南部藩、藩校の明義堂で助教を務めていた時、将来を担って立つ藩校の子らに語り聞かせる檄にある。豊かな西国の子らに伍して如何に身をば立て国を保つべきかと教えたその言葉を末尾に掲げた。吉村貫一郎は下級武士ながら碩学、能筆であるとともに北辰一刀流免許皆伝で、やむにやまれぬ事情で脱藩した後に新選組隊士となり、その先々で仁義礼智信の五常を貫いて最期を全うした男である。誰に対峙しても何処にあるとも真直ぐに立ち、石割桜の石を割って見事に咲き散っていった南部の武士(もののふ)である。
「盛岡の桜は石ば割って咲ぐ。盛岡の辛夷は、北さ向いても咲ぐのす。んだば、おぬしらもぬくぬくと春ば来るのを待つではねぞ。南部の武士ならば、みごと石ば割って咲げ。盛岡の子だれば、北さ向いて咲げ。春に先駆け、世にも人にも先駆けて、あっぱれな花こば咲かせてみろ。」
(浅田次郎著:文春文庫『壬生義士伝』上, p401-402, 文藝春秋, 2002)



木瓜の詩│『詩経』

2017-06-17 | アート・文化


月刊Will(WAC)巻頭の「朝四暮三」(加地伸行博士著)に、7月号では『詩経』衛風篇、《木瓜》第三章の詩句が掲載されていた。《木瓜》の全文は以下の通りである。

投我以木瓜 報之以瓊琚 匪報也 永以為好也
投我以木桃 報之以瓊瑶 匪報也 永以為好也
投我以木李 報之以瓊玖 匪報也 永以為好也
 
我に投ずるに木瓜(ぼくくわ)を以てす 之に報ゆるに瓊琚(けいきょ)を以てす
匪(か)れ報いたり 永く以て好(よしみ)を為さん
我に投ずるに木桃(もくたう)を以てす 之に報ゆるに瓊瑶(けいえう)を以てす
匪れ報いたり 永く以て好を為さん
我に投ずるに木李(もくり)を以てす 之に報ゆるに瓊玖(けいきう)を以てす
匪れ報いたり 永く以て好を為さん
(新釈漢文大系 第110巻『詩経(上)』, p178-179)

新釈漢文大系『詩経(上)』の通釈では、私に木瓜(ぼけ)の実(あるいは木桃、木梨)を投げてくれたから、美しい瓊琚(あるいは瓊瑶、瓊玖)でこれに答えよう、これできまり、末永く暮らそうという意が記されている。女性が思う男性に果実を投げて求愛し、男性がこれに美玉で答えることにより婚姻が決まるという、古代の投果の習俗を詠んだ男女贈答の詩との説明があった。
 東洋文庫『詩経国風』では、《木瓜》はまさしく「歌垣の歌」であること、「果物は自然の生命力を宿すもので、これを投げ與えることは魂振り的行為であり、その人への厚意を示す。」と記載されている。《木瓜》の詩を初めて知った時、私はつまらぬ扱いを受けても礼を以て返すべしと人を戒めた意味かと考えていた。なかなか捨てがたい思い込みであったが、残念にもそういう意味ではないらしい。
 脱線するが、生薬「木瓜(もっか)」はバラ科ボケまたは同属近縁種の成熟果実からえられる生薬であり、日本産の木瓜は同じくバラ科の落葉高木である花梨(カリン)の成熟果実であり「和木瓜」と称する。漢方の世界の記事(2015-01-21)で記載したので御参照頂きたい。

歌垣(うたがき)と言えば、筑波の嬥歌会(かがひ)に参加した男の立場で呼んだ万葉集にある歌を思い出す。歌垣は土地の男女が決まった日に集簇して、相互に求愛の歌謡をやりとりし終日「はっちゃける」のであるが、元来は豊作を祈る儀礼的意味を持つ行事である。筑波嶺に登りて嬥歌会を為る日に作る歌一首、「鷲の住む筑波の山の」で始まるこの長歌は、「この山をうしはく神の昔より禁(いさ)めぬわざぞ 今日のみはめぐしもな見そ 事もとがむな」(この山におわします御神が昔からお許し下さっている行事であるぞ、天下御免の本日は何事も目をつぶり咎めるでない)の過激な結びで終わり、その反歌は「男神に雲立ち上りしぐれ降り濡れ通るとも我れ帰らめや」(男神の嶺に雲が湧き上がりびしょびしょになっても誰が帰るかい)と高らかに宣言する生命謳歌である。
 さて射止めたい相手の心に響く歌を即興で詠むにあたっては、これまで培ってきた個人の諸々の力量、人間性や感性もが問われる。「誰も教えてくれなかった歌垣で相手の心をつかむ必殺技~衣かたしきにさようなら」などというハウツーものがその当時あったかどうかは知らないが、その場限りの小手先で誤魔化してもすぐに底が割れるだろう。全身全霊で相手の魂に飛び込んで行く他に術がないのは古今東西変わりはない。もっともそれを受け止めてくれるかどうかはあくまでも相手に選択権があり、それもまた今に至るまで同じである。

ところで今の職業について数々の学会総会・学術講演会や研究会、講習会に出席する機会を得たお蔭で、国内ならば北は札幌から南は鹿児島まで、全国津々浦々を訪問することが出来た。筑波もその一つであり、かの歌垣で有名な筑波山に登ろうと決心し、会場を離れてロープウェイ、ケーブルカーを乗り継いで山頂を目指したことがある。ようやく山頂に到達したら一隅には堅い根雪が残っていた。歌垣の御山にひとりで登るという無粋なことをしたのでさぞかし山の神様がお笑いになっているのだろうと思いながら、ひたすら寒い風に吹かれてまた下界に戻ったのであった。

参考資料:
石川忠久著:新釈漢文大系 第110巻『詩経(上)』, 明治書院, 2006
白河静訳注:東洋文庫518『詩経国風』, 平凡社, 2002
青木生子, 井出至, 伊藤博, 清水克彦, 橋本四郎校注:新潮日本古典集成『萬葉集二』, 新潮社, 1978