相模国六浦(むつら)の称名寺で、都の僧が夏木立の如く一葉も紅葉していない一本の楓を見出す。通りすがりの里の女がその謂れを語り始める。昔、冷泉為相卿が先駆けて紅葉していたこの楓の木を、「如何にしてこの一本にしぐれけむ 山に先だつ庭のもみじ葉」とお詠みになった。楓は詠歌を誉れとして、「功成り名遂げて身退くは、これ天の道なり」という古き詞(ことば)を深く信じて守り、以降は常盤木の如く紅葉することをやめたのである。里の女は楓の精であった。楓の精は四季折々の自然の移ろいを語り舞う。やがて夜が明けて、木の間の月が朧に霞みゆくように消えて行くのである。
「功成り名遂げて身退くは(功成名遂行身退)、これ天の道なり」の言葉は、『老子道徳経』第九章、「功遂身退,天之道也」からの引用である。『老子道徳経』第八章には「上善は水の如し」(最上の善なるあり方は水の様なものだ)とも記されている。しかと心に留め置くべく、末尾に岩波文庫『老子』から引用した一節を掲げた。なお本書では、「「功」は仕事の意。「遂」は「成」の意味なので、「功遂」を「功成」とし「名」を加えて「功成名遂」とするテキストが多いが、帛書乙本は「功遂」、帛書甲本は「功術」、楚簡は「攻述」であり、「攻」は「功」の借字、「述」は「遂」と通じるので「功遂」のままがよい。「成」「名」は後世の挿入であろう。」と論述されている。
持而盈之,不如其已。揣而鋭之,不可長保。金玉滿堂,莫之能守。富貴而驕,自遺其咎。功遂身退,天之道也。
持して之を盈(み)たすは、其の已(や)むるに如かず。揣(し)して之を鋭くするは、長く保つべからず。金玉の堂に満つるは、之を能く守る莫し。富貴にして驕れば、自ら其の咎を遺(のこ)す。功遂げて身退くは、天の道なり。
「老荘の思想を読む」館野正美著、大修館書店、2007
第一章・老荘思想とは何か、<道>の実践---<無為>の章において、第九章については「ゆきすぎやりすぎをしないこと」と簡潔明瞭にその意をお示し下さっている。御本を賜って以来、大切にして折に触れて拝読している座右の書である。)
「道徳経・通玄経」悟唯等編, 京華出版, 2009
「観世流大成版 六浦」廿四世宗家訂正著, 檜書店, 1952
「功成り名遂げて身退くは(功成名遂行身退)、これ天の道なり」の言葉は、『老子道徳経』第九章、「功遂身退,天之道也」からの引用である。『老子道徳経』第八章には「上善は水の如し」(最上の善なるあり方は水の様なものだ)とも記されている。しかと心に留め置くべく、末尾に岩波文庫『老子』から引用した一節を掲げた。なお本書では、「「功」は仕事の意。「遂」は「成」の意味なので、「功遂」を「功成」とし「名」を加えて「功成名遂」とするテキストが多いが、帛書乙本は「功遂」、帛書甲本は「功術」、楚簡は「攻述」であり、「攻」は「功」の借字、「述」は「遂」と通じるので「功遂」のままがよい。「成」「名」は後世の挿入であろう。」と論述されている。
持而盈之,不如其已。揣而鋭之,不可長保。金玉滿堂,莫之能守。富貴而驕,自遺其咎。功遂身退,天之道也。
持して之を盈(み)たすは、其の已(や)むるに如かず。揣(し)して之を鋭くするは、長く保つべからず。金玉の堂に満つるは、之を能く守る莫し。富貴にして驕れば、自ら其の咎を遺(のこ)す。功遂げて身退くは、天の道なり。
盈ちたりた状態を失わぬように保ち続けるのは、やめておいた方がよい。刃物を鍛えて鋭くするのは、長く切れ味を保てない。金銀財宝が部屋いっぱいにあるのは、守り続けることができない。富貴で驕慢ならば、みずから災難を招く。仕事をなし遂げたら身を退ける、それが天の道というものだ。
(岩波文庫「老子」, 蜂谷邦夫訳注, p42-44, 岩波書店, 2012)
(岩波文庫「老子」, 蜂谷邦夫訳注, p42-44, 岩波書店, 2012)
「老荘の思想を読む」館野正美著、大修館書店、2007
第一章・老荘思想とは何か、<道>の実践---<無為>の章において、第九章については「ゆきすぎやりすぎをしないこと」と簡潔明瞭にその意をお示し下さっている。御本を賜って以来、大切にして折に触れて拝読している座右の書である。)
「道徳経・通玄経」悟唯等編, 京華出版, 2009
「観世流大成版 六浦」廿四世宗家訂正著, 檜書店, 1952