特別展「池大雅 天衣無縫の旅の作家」(会期:2017年4月7日(土)~ 5月20日(日))が京都国立博物館で開催中である。『易経』周易繋辞下傳には、八卦を作り文明をもたらした古代中国、神話伝説時代の聖人や帝王として、「伏羲(包犠)」(ふくぎ、ふっき)、「神農(神農炎帝、炎帝神農)」(しんのう)、「黄帝」(こうてい)、「堯」(ぎょう)、「舜」(しゅん)の五帝が挙げられている。池大雅筆・自賛の「三皇図」は、「神農」、「伏羲」、「黄帝」が三幅対で描かれている。
101三皇図│「池大雅 天衣無縫の旅の作家」展図録, p140-141
「古者(いにしえ)包犠(ほうぎ)氏の天下に王たるや、仰いでは象を天に観、俯しては法を地に観、鳥獣の文と地の宜を観、近くはこれを身に取り、遠くはこれを物に取る。ここにおいて始めて八卦を作り、もって神明の徳を通じ、もって万物の情を類す。結縄を作して罔罟(もうこ)を為り、もって佃(かり)しもって漁(すなど)るは、蓋しこれを離(り、離為火)に取る。
包犠氏没して、神農氏作(おこ)る。木を斵(き)りて耜(し)と為し、木を揉めて耒(らい)と為し、耒耨(らいどう)の利、もって天下に教うるは、蓋しこれを益(えき、風雷益)に取る。日中に市を為して、天下の民を致し、天下の貨を聚め、交易して退き、各々その所を得るは、蓋しこれを噬嗑(ぜいこう、火雷噬嗑)に取る。
神農氏没して、黄帝堯舜氏作(おこ)る。その変を通じ、民をして倦まざらしめ、神にしてこれを化し、民をしてこれを宜しくせしむ。易は窮まれば変じ、変ずれば通じ、通ずれば久し。ここをもって天よりこれを祐(たす)け、吉にして利ろしからざるなきなり。」 (「易経 下」、p256)
漢方医学に特に縁が深いのは、医療と農耕を司る神である「神農」、最古の医学書『黄帝内経素問・霊枢』を著したとされる帝王「黄帝」である。医薬品の町として知られる大阪・道修町(どしょうまち)にある少彦名神社には、御祭神として少彦名命(すくなひこのみこと)と神農炎帝の二柱が祭られている。『淮南子』脩務訓には、「神農乃ち始めて五穀の播種を民に教へ、土地の宜しきを相し、燥濕肥拗を高下し、百草の滋味を嘗め、民をして辟就する所を知らしむ。此の時に当り、一日にして七十毒に遇ふ。」とあり、神農が薬草の効能を自ら嘗めて検証したことが記されている。
そして伏羲は八卦、罔罟(鳥獣や魚をとらえる網)、書契(縄を結んだ目印にかわる文字)などを考案したとされる。陶淵明の『與子儼等疏』(子儼等に与ふる疏)、「常言五六月中、北窗下臥、遇涼風暫至、自謂是羲皇上人。」(夏、北窓の下に臥して爽風が吹き来れば、羲皇の時代の古人の様に憂いも慮りもない。)の一節にある「羲皇上人」は伏羲の時代に遡り、憂いなく泰然と暮らしていた太古の人々、引いては隠逸之士、隠棲者を表わす。同じく本文を典故とする成語「北窗高臥」は悠々自適を意味している。(二十四節気の養生《夏の養生│夏のように生きる》(2015/6/27)を御参照下さい。)
三皇の伝承を踏まえて、画にはその功績を讃えた漢方医家、名古屋玄篤(神農)、伊藤素安(伏羲)及び芳村玄恂(黄帝)作の以下の賛が記されている。
神農 乃農乃醫民命之育 萬古教耕鞭知草木
伏羲 仰観俯察八卦通神 書契代縄畋漁教民 萬載甲暦庶姓昏姻 不知幾世維得維新
黄帝 龍顔花瘤袞衣冕 旒大哉霊蘭遺典 億兆黎民病瘳
これら三方の漢方医は、医方復古を唱えた江戸期の古方派医家、名古屋玄医の嗣子や門人達である。漢方医学の流派は「古方派(古医方派)」、「後世派」、「折衷派」に分類されるが、「古方派」の本来の意は古の聖人が行った医学を今に再現するという意味である。「龍顔」は天子の御顔、「袞衣」(こんえ)はその御礼服。「冕旒」(べんりゅう)は冕冠の前後に垂らす珠玉を連ねた飾りである。なお中国の説話集『列仙伝』には、「黄帝」が「自以為雲師、有龍形」(自ら雲師となり竜の姿をしていた)、「有龍垂鬍髯下迎帝、乃昇天」(ひげを垂らして来迎した龍とともに昇天した)と記されている。
最後に掲げたのは、『黄帝内経素問』霊蘭秘典論篇の末尾にある、現代の医家の心に留め置くべき一文である。「霊蘭」は霊台蘭室の略で、帝王の蔵書庫である。
「至道は微にあり、変化無窮まりなし。孰(たれ)か其の原(みなもと)を知らん。窘(くん)なる哉。消者は瞿瞿(くく)、孰か其の要を知らん。閔閔(びんびん)の当、孰か良となさん。恍惚の数は毫氂(ごうり)より生ず。毫氂の数は度量より起こる。之を千にし、之を万之を万にすれば以て益大す可し。之を推して之を大にすれば、其の形乃ち制せらる。 黄帝曰く、善き哉。余は精光之道、大聖之業を聞けり、而れども大道を宣明するには、斎戒して吉日を択ぶに非ざれば、敢て受けざる也。黄帝、乃ち吉日良兆を択び、而して霊蘭之室に蔵し、以て伝保す。」 (「黄帝内経素問訳注」、p272-274)
(医学の)道理は微にあり、その変化は窮まるところがない。誰がその本源を知ることができようか。小人がかぎまわってみても要(かなめ)をつかめず、あれこれ忖度してみてもどれが良いとは決められない。この微妙な理(ことわり)といいうものは微細なものを見出すことから始まる。探索により見出した僅かな見跡を追尋して千倍に万倍に広げてゆけば、やがて求める理はその姿を彰顕することだろう。黄皇はお慶びになった、善きかなと。こうして精光の道、大聖の業を師の岐伯からお聞きになった黄帝は、大道を世に宣明するにあたり斎戒沐浴し吉日を選んで伝授をお受けになった。そして霊蘭の書庫にその聖典を納めて後代に伝承なさったのである。(拙訳)
参考資料:
特別展「池大雅 天衣無縫の旅の作家」図録, 京都国立博物館, 2018
高田真治, 後藤基巳訳:岩波文庫「易経 下」, 岩波書店, 1993
大塚敬節, 矢数道明編:近世漢方医学集成102「名古屋玄医(1)」, 名著出版, 1984
陳広忠訳注:中華経典名著「淮南子 上」, 中華書局, 2012
家元誠一著:「黄帝内経素問訳注 第一巻」, 医道の日本社, 2009
田代華編:中医臨床必読叢書「黄帝内経素問」, 人民衛生出版社, 2005