花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

「絵画の真生命」│速水御舟の画論を読む

2017-05-17 | アート・文化


「工夫が線路にづらつと並んでやつてゐる。やつてゐる中に唄を謡ひゝ歩調をそろへてくる。それをみてゐると職業も何も忘れてゐるのではないかと思ふ。あの気持ちがすべてを解決する。これは現実を離れた理想的な気持ちかもしれないが少くもあの行動は労働意識から出て来てない。労銀のことも考へなければ、悲観もしていない。作家としてもその時の心の状態に似たものがあります。」 (『絵画の真生命~速水御舟画論』、p213、中央公論美術出版、1996)

本年に読む機会を得た『絵画の真生命~速水御舟画論』の一節である。先に取り組んだ記事《きぬたを巡りて│其の三 子夜呉歌》(2016/12/4)において詩仙、李白の長安の夜の底から湧き上がる砧擣ちの音を歌いあげた詩興に触れた時、両者に一脈も二脈も相通じた境地を感じた。
 ついに上京する機会を逸したが、昨年12月の初めまで山種美術館では開館50周年記念特別展「速水御舟の全貌」が開催されていた。一時代を寡黙に歩み去って行った病弱な天才画家というイメージを勝手に抱いていた為に、本書において饒舌すぎるほどに展開する色濃く熱い画論表明は意外であった。改めて思えば、画家の内奥を一筋に貫き通す強靭な心棒の如きものなしに、これらの優品が産み出され気韻生動の感銘を観る者に与えることが出来ただろうか。
 しかも以下にさらなる語録を記したが、強調されているのは<「時代の感興」に作家が動かされて>である。「藝術は時代意識の現れになるかもしれない」との言葉もあった。画家が呼吸する時代、その時代が限られた者だけに開顕してみせる個々の事物の核心を感受すること、時代の精神を外からではなく内側からつかみ取ることの意義が本書では語られている。御舟が目指したのは、鑑賞者に見せる見られる為だけに汲々とした自己実現の枠に留まった画などではない。その画境は遥かに宏大無辺であった。

「要するに自己の感興を絶対として描ことが偽のない方法であると考へられる。時代の感興に作家が心から動かされ、真に、欲求するものを描くことが時代に即した藝術を作ると云ふべきである。」 p234

「今の人は意識的行動が多すぎる。西洋画の人でも意識してやろうとしてゐる。が絵画としては平凡に来たものが、その時代の心をもってゐるといふ現れ方の方が一番よいやうに思ひますが、あゝいふ意識的な運動は、次のものゝ現はれる前哨戦であって、其処には本当の霊(たまし)ひが稀薄である。」p210

お母さん、謝らないで下さい

2017-05-14 | 日記・エッセイ


施設により多少の違いがあるが、小児の耳鼻咽喉科診療の際の姿勢は以下の通りである、まずは親御さんに医師の方を向いて深く腰掛けてもらい、膝の上に子供も正面を向かせて座らせる。両方の腕を胸の位置で巻き込む様にして、上体を胸に引き寄せて抱いて頂く。介助者は子供の頭部を両手ではさんで親御さんの胸に押し当てて固定する。足をばたばたとさせる場合は下半身を安定させる為に、親御さんに足を組んで挟んでもらうか、もう一人の介助者が子供の腰から大腿にかけてを固定する。確実に局所に異常がないかの見極めの耳鼻咽喉科診察の為には介助固定が必須である。また当初機嫌がよく聞き訳がよくても不意に動くことがあり、特に器械を用いた処置中に大いに危険であるからである。

その様に子供をホールドして頂きながら診察や処置を完了するのであるが、その間ひたすら「ごめんね。ごめんね。ごめんね。」と言い続けて、子供に謝るお母さんが時におられる。決して痛いことや阿漕なことをする訳ではない。それでも最後まで大人しく抱かれる子供がおれば、始めから泣き出す子供もいる。じっとお膝の上でお座りしておくことの意味を説いて理解してもらえる様な年齢ではない。お母さんはただただ泣き続ける子供が可哀そうで不憫になられるのだろう。しかし親御さんが動揺すれば必ずその不安が子供に伝わり、子供の動揺がさらに増幅する。小児の夜泣き・疳症や神経症から、近年は認知症の周辺症状緩和まで広く用いられる漢方方剤《抑肝散》の原典には、「子母同服(子も母も一緒に服用する)」との服用指導の記載がある。臍の緒がもはや繋がっていなくとも、その後も母親と子供の心身のあり様は深く関連しているのである。そこで子供を抱きしめながら謝るお母さんには是非お伝えしたい。
「お母さんが何も謝ることはありません。どんと構えてしっかり抱っこしていて下さい。大丈夫ですよ。」

子供に「ごめんね。」と謝って頂きたくない理由はもう一つある。いつぞや終始じっと大人しくお座りしていた子供が診察が終わるなり、「ぼく頑張った」と母親のスカートに顔を伏せて小さくつぶやいた時があった。私は生来、頑張る、打ち勝つ、負けないという類の言葉が大の苦手である。だが思わずこの時は「頑張ったね、偉かったね」と声をかけていた。

ずるずるの吸いこむ音が嫌だったけど、でもお鼻がすっきりした。
耳の穴をごそごそやられちゃったけれど、お耳がよく聞こえるよ。
なんだか怖かったけど、どうってことはないや。
ぜんぶ綺麗にお掃除できたもん。

そういう風に力強く乗り越えたこのたびの経験を小さな勲章にして、ささやかな自信を掴んでほしいと切に思うのである。成長なさった暁には、おばはん医者に診察を受けて大泣きしたことなどすっかり忘れているだろうから杞憂かもしれないが、謝られる様な嫌なことを無理やりされて我慢したというネガティブな印象を決して心に刻んでもらいたくはない。そして幼い頃の受診経験を成長過程の一里塚に、この先の人生にたとえ何があろうとも明るく踏み越えていって下さいと老婆心ながら祈る毎日である。
 Bon Voyage!

作品のにほひ

2017-05-13 | 日記・エッセイ


昨今、作品自体を作り上げるよりも、作る側をアーティストとして造形したい作家をお見かけすることがある。一連の作品は己を演出する小道具であり、とことんこだわっておられるのはこれらの作品を生み出した「あたくし」である。だからどの作品を拝見しても其処からぬるぬると作家が顔を現してくる。芸家に限らない。どの道においても、私臭さを捨てるという事は何処まで行っても難しいものがある。

月下渓流図屏風┃特別展覧会「海北友松」

2017-05-02 | アート・文化

京都国立博物館開館120周年記念 特別展覧会「海北友松」図録、京都国立博物館, 2017

話題の京都国立博物館開館120周年記念、特別展覧会「海北友松(かいほうゆうしょう)」(会期:2017年4月11日(火)~ 5月21日(日)、於京都国立博物館、平成知新館)に伺った。友松の後裔が記した「海北友松夫妻像」賛の友松伝には、「誤落芸家(誤りて芸家に落つ)」という武家の血脈と精神を有する武人と評されている。さらには時の体制に反旗を翻し友の亡骸を奪取したと語られる武勇譚のくだりも記されているが、絵師などに落ちる筈はなかっただの、血の匂いのする(ちなみに私は医家なので全く抵抗はないが)逸話だの、芸術家としては大いに異端で興味をかき立てられた。賛には多分に脚色や誤伝があるとあったが、真実どのような芸家であったのだろう。
 展示は第一章「絵師・友松---狩野派に学ぶ」から終章までの十章から構成されている。第八章「画龍の名手・友松---海を渡った名声」の照明を極度に抑えた仄暗い展示室に入れば、壁面の雲竜図から巨龍が浮かびあがる。闇に垂れこめた黒雲の中から顕れ出で観る者を殪さんとする龍に見据えられ、逆鱗に触れた覚えもないのに全身が総毛立つようであった。しばし部屋の真ん中で立ち竦むうちに、知る由もない海北友松の本性を垣間見せられたような心地がした。
 花卉図や竹林七賢図などでは描くにあたり逸脱を許さない現世の花や人の輪郭がある。だが現世には棲息しない異形(いぎょう)の霊獣である龍は、いや獣というには畏れ多く、生きものを遥かに超えた想像的景象である。それが故に画家の深層に横たわるイマージュが自由奔放なかたちで表出されて、万物の木地ならぬ画家の木地が顕露する。友松が描いた雲龍図には、乱世の風濤の中に一歩も引かぬという矜持とともに、断じて許さぬという撃滅や憤怒の意思が奔騰していた。

そして展覧会の最後尾に展示されているのが、雲龍図とは対照的な「月下渓流図屏風」である。歴史の彼方に散逸したかもしれない本邦の優れた芸術作品を、現在にいたるまで精魂込めて保存なさってきた海の向こうの関係者の方々に、この画を鑑賞させて頂いた一人として深く敬意を表したい。「月下渓流図屏風」は、茫洋、幽玄な佇まいの墨絵の中に、其処のみ写実的な彩色の椿(つばき)、土筆(つくし)、蒲公英(たんぽぽ)が点在する。月下の冷え寂びの幽境の中に妙に生々しい実に不思議な画である。色が置かれた花の点景を水墨画の中に置いて経営位置してみせた意についての説明はない。散らした扇面や色紙にしたためられている歌の意を汲めないと全景の意味が掴めない、貼交屏風の様な意味が込められているのだろうか。
 以下は図録冒頭で、京都国立博物館、山本英男学芸部長が記しておられる概説「孤高の絵師 海北友松」の一節である。 
「かくも友松の画が愛された理由は何なのだろう。ほかの絵師の画と何が違うのだろう。ひとつ考えられることがあるとすれば、それは彼ら文雅を愛する人々と友松がその思いを共有させていたからではなかったか、ということだ。言い換えれば、彼らの美意識を十分に理解した上で、それを画という形で具現できる良き友。それが友松に対する彼らの認識であり、評価だったのではあるまいか。和歌を詠み、茶も嗜むという教養人・友松であってみれば、ありえないことではないだろう。細川幽斎や中院通勝が彼を支援し続けたのも、智仁親王が彼を重用したのも、そうした信頼感に根差していたがゆえのことであったと思われる。」(図録 p.45)
 まさにこの絵師、ただものではない。作画注文の期待を遥かに超えてみせる力量を十二分に備えた絵師であることは勿論の事、己のセリングポイントと置かれた立場を熟知し、培った上質のネットワークを駆使して「海北友松」を商業ベースに載せている。言うなれば、その時代の風流貴人が属する美意識共同体の御用絵師としての友松が企画制作した、高級サロン文化圏との一連のコラボレーションが「海北友松」の画なのであろう。そして恐らくお仲間の彼等ならば、先の色絵の点景が担う符号の意なども当然のことなのに違いない。
 素人の最後の戯言として、「月下渓流図屏風」は友松晩年の画境におけるまことの到達点だったのか。時代の選良の美意識に塗り固められた閉鎖的なアウタルキーの中で、武人絵師が終生その界に留まり随順に有り得たのか、野次馬的な好奇心が尽きない所以である。