花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

平成二十九年大晦日の御挨拶

2017-12-31 | 日記・エッセイ
平成二十九年も余すところ本日一日となりました。本年に御縁を結ばせて頂きました皆々様に、そしてこの時も社会の様々な領域にて責務を全うすべく御活躍の方々に心より御礼と感謝を申し上げます。平成三十年戊戌の年を迎えるにあたり、来る新年の皆々様の益々の御健勝と御多幸をお祈り申し上げます。

  年のはてによめる 春道列樹 
昨日といひ今日と暮らしてあすか河流れてはやき月日なりけり
              (古今和歌集巻第六 冬歌)



  吉野の宮に幸(いでま)す時に、弓削皇子が額田王に贈与(おく)る歌一首
いにしへに恋ふる鳥かも弓絃葉(ゆづるは)の御井の上より鳴き渡り行く
              (万葉集巻二・一一一)







ふたたび「桂」│有木詩八首の内・丹桂

2017-12-30 | 漢方の世界


  有木詩八首 其八  白居易
有木名丹桂、四時香馥馥。花團夜雪明、葉翦春雲綠。
風影清似水、霜枝冷如玉。獨占小山幽、不容凡鳥宿。
匠人愛芳直、裁截為廈屋。幹細力未成、用之君自速。
重任雖大過、直心終不曲。縱非梁棟材、猶勝尋常木。


木有り丹桂と名づく、四時香馥馥(ふくふく)あり。
花は團(まる)くして夜雪明(て)り、葉は翦られて春雲緑なり。
風影清らかにして水に似、霜枝冷ややかにして玉の如し。
獨り小山の幽を占め、凡鳥の宿るを容(い)れず。
匠人芳直を愛し、裁截して廈屋(かをく)を為(つく)る。
幹細くして力未だ成らざるも、之を用ふること君自ら速し。
重任大いに過ぎたりと雖も、直心終に曲がらず。
縱(たと)ひ梁棟の材に非ざるも、猶ほ尋常の木に勝らん。
(白氏文集 一, 516-517)

「有木詩八首」は、弱柳、桜桃、枳橘、杜梨、野葛、水檉、凌霄、丹桂の八種類の樹木を詠んだ一連の詩である。時の君側の漢や佞臣などの腐敗官僚を各々の木に譬えて風諭する中で、「丹桂」の最終首だけがその風影を讃えられている。「丹桂」は金木犀(きんもくせい)とされ、生薬「桂花」となる金木犀の花は「花は團く」と詠まれた様に集簇して開く。しかしながら「桂」の一文字、あるいは別名仙友、仙客や仙樹と称される「桂樹」が示す木は必ずしも単種の樹木ではない。生薬の世界では、「桂」と言えば《かつらと桂│桂の字をふくむ生薬》(2015/1/26)で述べた「肉桂」や「桂枝」が有名である。「獨占小山幽」は楚辞・招隠士における「桂樹叢生兮山之幽」を踏まえ、「丹桂」は清冷で直心の人、臥雲人(隠者)のメタファーとなっている。「桂」で表される木は自ずから花や樹が芳香を放つ、この世のものならぬ孤高の木である。それは現実の存在を超絶した、形而上学的実在の木と言うべきものかもしれない。

余談であるが、其五「野葛」は別名「冶葛」、「故曼草」、全草が毒性を有し正倉院薬物として現存する猛毒の生薬である。其七「凌霄」はノウゼンカズラで、7~8月に咲かせる漏斗状の黄赤色の花が活血調経薬に属する生薬「凌霄花(りょうしょうか)」となる。性味は辛、微寒、帰経は心包経、効能は破瘀通経、凉血祛風、止血である。

参考文献:
岡村繁著:新釈漢文大系97「白氏文集 一」, 明治書院, 2017
吹野安:「楚辞集注全注釈八---惜誓・弔屈原・服賦・哀時命・招隠士」, 明徳出版, 2015
王煥華著:「中薬趣話」, 百花文芸, 2006
鳥越泰義著:平凡社新書296「正倉院薬物の世界」、平凡社, 2005


天涯に雪ふりつむ│師匠と弟子のはなし

2017-12-29 | アート・文化


京都岡崎、京都国立博物館で120周年特別展「国宝」(10月3日~11月26日)が開催され、軸装の与謝蕪村画「夜色楼台図」(やしょくろうだいず)が最終の第四期に展示された。蕪村晩年の謝寅時代に描かれ、胡粉を用いた(これも正統文人画法の南画から見れば邪道となる)水墨淡彩画である。本画を蕪村の人生の表象、魂の象徴と論述なさったのが、国際日本文化研究センター早川聞多名誉教授書『与謝蕪村筆 夜色楼台図』である。本書の第五章《横者三部作と徂徠学》には、蕪村が江戸で荻生徂徠の高弟にして儒学者・漢詩人の服部南郭に学んだことを踏まえ、蕪村と徂徠の思想との深いかかわりが示唆されている。文人画法から見れば「譎にして正ならず」と田能村竹田をして評せしめた蕪村の表現のあり方について、宋儒の理学・朱子学VS徂徠学の視点からの論説である。



「蕪村自身、常づね支考・麦林の句格の賤しさを指摘してゐたが、決して切り捨てるやうなことはしなかった。彼等の表現の内にも、人間の実情の一端が巧みに映し出されてゐる様を、蕪村は確実に見て取つてゐたのである。このように「俗流」の内にも「長ずる所」を見出そうとする姿勢こそ、蕪村の最も深い人間理解に基づいた信念であった。」(「与謝蕪村筆 夜色楼台図---己が人生の表象」 ,p98)

「春泥句集序」に示された、蕪村と「進んで他岐を顧ず」(本道から外れた脇見をせず)であった召波との問答は噛み合わない。
余(蕪村)曰「麦林・支考、其調賤しといへども、工に人情世態を尽す。されば、まゝ支・麦の句法に倣ふも又工案の一助ならざるにあらず。詩家に李・杜を貴ぶに論なし、猶元・白をすてざるが如くせよ。」
波曰「叟、我をあざむきて、野狐禅に引くことなかれ。画家に呉・張を画魔とす。支・麦は即ち俳魔ならくのみ。」
(与謝蕪村集 ,p336)

徂徠門下の言行や逸話を記した随筆『蘐園雑話』(けんえんざつわ)には、服部南郭は「もと京都より歌にて柳沢候にかゝえられしとなり。」とある。柳沢吉保に歌才を認められ厚遇を得るも、出自を越えて士分として召し抱えられることはなかった。候の逝去後は「詠懐」十五首の中で「此を釈(す)てて古路に帰り、去って大江の浜に釣る」と詠んだ心にて柳沢家を致仕し、不忍の池の畔に私塾、芙蕖館を開いて舌耕筆耕の徒を貫き「詩文は南郭を推す」という地位を確立した。人となりは「南郭は謝安に似たる人なり。喜怒色にあらわさず、自らの見を立る人となり。」と中国・東晋の名宰相・謝安に譬えられている。後漢から東晋までの士大夫の逸話集『世説新語』雅量第六において、「公の貌閑(のどか)にして」、「其の量の以て朝野を鎮安するに足る」、「謝の寛容、愈貌に表る」、「神意甚だ平かにして瞋沮(しんそ)を覺えず」等々、度量広闊、泰然自若であった謝安の風姿を語った話は枚挙に遑がない。謝安に見立てられた南郭は推して知るべしである。

そして南郭の師、徂徠も又、『徂徠先生答問書』における「人は活物にて候。夫故に國家を治候も、人を教訓いたし候も、又は我心我身を治め候も、木にて人形なと割見候ごとくにはならぬ物に候。」の実践を貫いた人である。先の《蛤のはなし》の如く女は対象に含まれないが、『蘐園雑話』で語られる徂徠の挿話には弟子をひたすら思いやる仁恕の心が溢れている。
「徂徠は極めて才を愛する人にて、塾中の少年客気に使はれ、娼家に遊び出奔したるをも、再度戻して諫戒せられしこと度々なり。」(蘐園雑話│続日本随筆大成4, p70)
「徠翁は前にも云ふ如く、才を愛して無行の人を棄てざること、伊藤一郎などは無行の人にて折々亡命して印肉を売ありきしが、道にて徂徠に出合、早々町のうらににげ込しを若党に追かけさせ、強て連返り手前に置かれしとかや。」(同, p75-76)

また『太宰春台・服部南郭』の疋田啓佑著、服部南郭、第九章《師荻生徂徠の死》では、視覚障害者となった高野蘭亭に対する『蘐園雑話』の挿話を引用した後で、「徂徠の教えには人間的暖かさが感じられ、そこで才能を伸ばした人々にとって、徂徠の死は大きな悲しみをもたらした。」と記されている。
 医の道であれ芸の道であれ、古今東西、どの道で修練を積む者であろうとも、良きところを伸ばさんと乏しき才を愛し育んで下さった恩師の御心を、終生、その弟子が忘れることはない。



末尾に題詩「夜色楼臺雪萬家」の原詩とされる、中国明代の文人、李攀龍(字は于鱗、号は滄溟)著『滄溟集』巻八収載の「懐宋子相」を掲げる。李攀龍が故郷から離れた天涯の地、北京に居て、郷里へ去った友の宗臣(字は子相、号は方城)に想いをはせた詩である。秋杪(びょうしゅう)は晩秋、仙槎(せんさ)は海上と天河(天の川)を往来する筏である。
 本邦で和刻本として出版された『明七子詩選注』には「懐宋子相」の他、李攀龍や宗臣など明代、嘉靖年間の七人の文人の詩が載っている。これらの書には、漢武帝の時代、匈奴に拘留された蘇武が雁の足に帛の文を結び付けて無事を伝えた鴻雁伝書の故事、さらに桂叢、山中桂樹や桂樹隠(けいじゅのいん)の一連の典故となる、楚辞・招隠士における「桂樹叢生兮山之幽」が注として記されている。なお桂に関しては《かつらと桂│桂の字をふくむ生薬》(2015/1/26)の記事を参照頂けたら幸いである。
 「独往」は文字通りひとり往くこと、自然にまかせ世俗を顧みないことを意味する。『文選』の「許徴君(自序)詢」の語釈には「淮南王荘子略要曰、江海之士、山谷之士、軽天下、細万物、而独往者也。司馬彪曰、獨王任自然、不復顧世也。」(江海に隠棲する士人、山谷に隠棲する士人は天下を軽んじ万物を細(いや)しとして独往するものなり)とある。「江海之士」、「山谷之士」は『荘子』刻意篇、「軽天下、細万物」は『文子』九守にある言葉である。

  懐宋子相 李攀龍
薊門秋杪送仙槎、此日開尊感歳華。臥病山中生桂樹、懷人江上落梅花。
春來鴻雁書千里、夜色樓台雪萬家。南越東呉還獨往、應憐薄宦滯天涯。


薊門の秋杪仙槎を送る 此日尊を開き歳華を感ず
病に臥て山中桂樹を生ず 人を懐て江上梅花落つ
春來の鴻雁書千里にて 夜色の樓台雪萬家たり
南越東呉に還た獨往す 應に憐べし薄宦天涯に滞るを

参考資料:
早川聞多著:「与謝蕪村筆 夜色楼台図---己が人生の表象」, 平凡社, 1994
山本健吉, 早川聞多著:「蕪村画譜」, 毎日新聞社, 1984
京都国立博物館開館120周年記念 特別展覧会『国宝』展図録, 2017
清水孝之校注:新潮日本古典集成32「与謝蕪村集」, 新潮社, 1979
森銑三, 北川博邦編:続日本随筆大成4「一字訓・蘐園雑話・酔迷餘録・零砕雑筆・塵塚」, 吉川弘文館, 1979
目加田誠著:新釈漢文大系77「世説新語 中」, 明治書院, 1976
今中寛司, 奈良本辰也編:荻生徂徠全集 第六巻, 河出書房新社, 1973
山本和義, 横山弘注:江戸詩人選集 第3巻「服部南郭 祇園南海」, 岩波書店, 1991
田尻祐一郎, 疋田啓佑著:叢書・日本の思想家17「太宰春台・服部南郭」, 明徳出版, 1995
李伯斉選注:「李攀龍詩文選---済南歴史名家詩文選」, 済南出版, 2009
長澤規矩也編:和刻本漢詩集成 総集篇7 「國朝七子詩集註解・明七子詩解・明七才女詩集・明九大家詩選・明詩大觀・三家絶句・明賢咏落花詩・明詩節義集・列朝詩集」, 汲古書院, 1982
内田泉之助, 網祐次著:新釈漢文大系15「文選(詩編)下」, 明治書院, 1964
星川清孝著:新釈漢文大系34「楚辞」, 明治書院, 1970
吹野安:「楚辞集注全注釈八---惜誓・弔屈原・服賦・哀時命・招隠士」, 明徳出版, 2015
金谷治訳注:岩波文庫「荘子 外篇」, 岩波書店, 1975
王利器撰:新編諸子集成「文子疏義」, 中華書局, 2000


「文」を学ぶ

2017-12-10 | アート・文化


『論語』雍也に「子曰、質勝文即野。文勝質即史、文質彬彬、然後君子。」(子の曰く、質、文に勝てば即ち野(や)。文、質に勝てば即ち史(し)。文質彬彬(ぶんしつひんぴん)として然る後に君子なり。)という一節がある。東洋史学者、宮崎市定博士著「中国文化の本質」に記された「文」の定義は明快である。文化と訳されるドイツ語、Kulturに当る本来の中国語は「文」の一字で十分であること、「文」は「質」に対し、又「文」は「武」に対せしめるのが例であるとの解説があった。「文」と「質」とを対せしめた好例として、「質勝文即野。文勝質即史、文質彬彬、然後君子。」を論述なさっておられるくだりが以下である。

「この場合、質とは人間が本来持っている性質で、野蛮人でも田舎者でも持っている本能的なもの、之に対して文というのは、その上に立つ教養であり型式であります。質だけで行動するものは野と云って、野蛮人である。所が質を忘れて、型式だけで行動する者は史である。この場合の史は、歴史家ではない。天子や大名の言葉を写すに、その儘の言葉で写さないで必ず修飾を加える。その文章家が史である。」(中国文化の本質│宮崎市定全集17, p276)

さらには「文とは質の上にあるもの、質を其ままに現わさないで一度磨きをかけること」であり、「文」と「質」は「左」と「右」というような反対概念を示す平等な対でなく、また「善」と「悪」の如く全然反対の対でもないとの説明が興味深い。「文」と「武」の対の関係も同様に、文徳武功の熟語を引いて文徳が武功の上に位置し、「武」の段階を超越した存在が「文」であるという論述が続く。彬彬は『論語集注』で「物相い雑わりて適均するの貌」、『論語徴』では「乃ち過ぐること無きの義」と記され、「文」と「質」が過不足なく均衡がとれて調和した状態が文質彬彬である。

言うなれば、質のみの「野」、質を忘れた「史」、その両極を貫くラインの中庸を過(あやま)つことなく定めて弾かねば、「文」たるべき妙なる音色を奏でることがかなわない。ところで臨床の場で用いる症状の程度の視覚的評価法の一つにVisual Analogue Scale(VAS;視覚的アナログ尺度)がある。左端「0」は症状がない状態、右端「100」が経験した最も強い症状の状態として、100mmの直線状のどの位置に現在あるかを伺って記録する評価法である。VASスケールの両端は先の「善」と「悪」の如く全く反対の対であり、是(ぜ)、良しとされる側は一方の「0」である。ところが「文」が理想的に花開くのは過ぎたる両端ではなく中央(中庸)である。ど真ん中の50mmなどでは決してない処が求められているのが実に悩ましい。

最後に対比された対句の意味を今一度反芻すれば、「文」がその本質に絡んで内包する危うさが透けて見える気がする。まずは「文、質に勝てば即ち史」である。擬古を金科玉条に初心の精神を失った形式だけの踏襲、これまた『論語』の「巧言令色、鮮(すく)なし仁」、あるいは江戸後期の名医、和田東郭著『蕉窓雑話』で糾弾なさっている受け狙いの「人そばえ」(人戯え)などがその虚飾に流れた例となろう。さらに「質、文に勝てば即ち野」を逆手に取れば、野蛮の上を行く文化に携わっているという選良意識、卑俗凡庸とは違う感性や美意識の所持者であるという意識高い系の高踏姿勢となる。知性主義、教養主義を旗印に、夷狄(いてき)と言わんばかりに時の政道を批判なさっている知識人を任じる御方々の彼方から、時にこのような芳しい香りが市井の一隅に転がる一耳鼻咽喉科医の頭上にまで漂い落ちてくる。

参考資料:
宮崎市定著:『宮崎市定全集17 中国文明』, 岩波書店, 1993
金谷治訳註:ワイド版 岩波文庫『論語』, 岩波書店, 2001
荻生徂徠著, 小川環樹訳註:東洋文庫575『論語徴』1, 平凡社, 1994
朱熹著, 土田健次郎訳注:東洋文庫850『論語集注』2, 平凡社, 2014
和田東郭著:近世漢方医学書集成15 『蕉窓雑話』, 名著出版, 2001