花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

Women doctors、be ambitious!

2016-10-30 | 日記・エッセイ


母がはるか昔、女子医専卒業後に各科をインターンで回っていた頃の話である。
「君、僕が戻るまでこれを持っていなさい。」と手術室でライター(ドイツ語でLeiter、指導医である)に言われるがまま、術前の男性患者さんに掛けたシーツから外に出たその部位を摂子でこわごわ挟んで、何の意味があるのかなと困惑しながらもライターがお戻りになるのを今か今かと待っていた。
と、其処へ助教授が。
「◇◇君、一体何をしているの?!」
母がかくかくしかじかですとお答え申し上げると、
「君はからかわれているんだよ。△△には僕からきつく言っておくから。」
直ちにやめさせ、足早に立腹して出て行かれたそうである。挟んでいた方も大変だったろうが、挟まれた御方もお気の毒に大変だったに違いない。それにしても昔の女子医学生は純情であった。

インターン:医学教育におけるインターンは1946年から1968年まで実施された、卒業後の臨床実地研修の制度である。かつてはこのインターン教育を終了していないと医師国家試験が受験できず、その間は学生でも医師でもない中途半端な身分に置かれていた。現在は卒後すぐに国家試験を受験し医師免許を取得して、その後に研修医として厚労省が定めた臨床研修を開始する。

医学界の言語:70代以上の世代が受けた医学教育はドイツ語抜きには語れず、診療録もドイツ語で記載されていた。今や国際的な論文は英語、国際学会での発表も英語が通例である。患者さんへの情報開示、他の医療従事者との情報共有を前提として、カルテ(Karte、medical record、診療録)は英語を交えた日本語あるいは日本語単独で書く医師が多い。ちなみに私は二年間の教養課程で第二外国語としてドイツ語を選択した。専門領域の医学用語以外はすっかり忘れてしまった体たらくであるが、思い起こせば教材のひとつが「Bilderbuch ohne Bilder (絵のない絵本)」であったことがなつかしい。医局に入局した後の研修医の仕事の一つは、上の先生の御診察に陪席し、シュライバー(Schreiber、書記)として診察所見の口述をカルテに書き留めることであった。ドイツ語の単語がぽんぽんと飛んでくる中、当初は当然聞き取れない。手帳に一つずつ書き出して必死に覚えて、全身を耳にして臨んだものである。

胡瓜

2016-10-28 | 日記・エッセイ


今年も宅の素人農園に植えた胡瓜が元気に育った。次から次へと成り過ぎてせっせと収穫していたのだが、葉の陰で取り忘れるものが出てくる。いつぞやはすわ巨大な緑の芋虫と思いきや、私の上腕の太さもあろうかという巨大胡瓜と化していた。当然この夏、毎日の食卓は胡瓜づくしとなった。すっかり食傷した家族からは、来年からは一本だけ植えようという声が上がったが、何かの原因でその一本が育たなかったり枯れたりするかもしれない。だから来年も二本は植えることになるだろう。それは危機管理として間違った選択ではない。なれど、生き物をスペアとして複数用意するというのは何処か酷い話である。心の隅でちらとそう思う。

モルモット

2016-10-27 | 日記・エッセイ


子供の頃、若き父が学位研究に使うため、モルモットが家で沢山飼われていた。数もろくに数えられないのに減ったことは解ったらしく、お父さんが持って行った、また減ったと、そのたびに大泣きしていたという。悲しかったことは都合よく忘れて、いまやせっせと餌をやった楽しい記憶しか頭に残っていない。長じて自分が扱う番になれば、長らく接することがなかったモルモットは甚だ小さく見えた。そしてもはや家で育てた動物を実験に使う時代ではなかった。いつぞや処置済の一匹をそのまま失念して、なんとかして下さいと動物舎から医局に連絡が入ったことがあった。慌てて駆け付けると、いつの間にかケージ一杯のまるまる太った所謂ブタモルに育っていて引っ張り出すのに苦労した。真冬の寒い晩、第四研究室で膝に載せた小さな白いモルモット達はしみじみと暖かかった。この年になっても、遊園地でモルモットを見かけると必ず足が止まる。そうして何時までも眺めている自分が居る。

紅葉と楓をたずねて│其の三・能「龍田」

2016-10-18 | アート・文化


旅の僧の一行が大和から河内に通じる龍田越の道すがら、龍田の明神を詣拝すべく龍田川を渡ろうとすると、神巫の女が「龍田川紅葉乱れて流るめり渡らば錦中や絶えなん」の古歌の心を思って渡るなと言う。紅葉の頃も時過ぎて薄氷が張っていると僧が申すと、今度は「龍田川紅葉を閉づる薄氷渡らばそれも中や絶えなん」という歌を挙げて重ねて戒める。その後、女は龍田の明神へと僧を導き、紅葉が神木である謂れを語り、龍田姫は我なりと名乗った後に社殿の内に姿を消す。その夜、僧が神前で通夜を勤めていると、龍田の神が忝くも顕形し給う。御神は瀧祭の御神の神徳をお告げになり、龍田の景勝を讃え国土の安寧を寿ぐ夜神楽を舞い給うた後、天にお帰りになったのである。
(『観世流大成版 龍田』廿四世宗家訂正著, 檜書店, 1952)

先の「六浦」では夏木立の如く一葉さえも紅葉しない常磐木の一本の楓であった。一方「龍田」では冬枯れの景色の中に紅葉が盛りなる一本の楓である。色は違えども、同じく「折ならで(時節でないのに)」の風情であり、人智を超えた理(ことわり)があることを表している。先の二首の歌は『古今和歌集』と藤原家隆の家集『壬二集』に納められていて、川を渡るために足を踏み入れたならば、秋には水の中を流れる紅葉の錦が断たれるであろう、そして今、冬の始めには、薄氷に閉じ込められた紅葉の錦がこれもまた断たれることになろうという意である。なお「薄氷」(うすらひ)は春の季語で、春浅き頃に薄く張った氷、または冬の名残の薄い氷を言う。『光琳絵本道知辺』中の「氷水」は、春風がわたって氷を解いた雪解け水の中を流れる紅葉である。

  題しらず     『古今和歌集』
龍田川紅葉みだれて流るめりわたらば錦なかや絶えなむ
この歌は、ある人、奈良の帝の御歌なりとなむ申す 

  建暦二年仙洞の二十首の歌奉りし中、冬の歌     『壬二集』
龍田川もみぢ葉とづる薄氷渡らじそれも中や絶えなむ 


(『光琳絵本道知辺』氷水 / 『日本文様類集-----光琳道しるべ編』, p34, 芸艸堂, 1975)

「龍田」における龍田川は単なる紅葉の名所ではない。俗界の此岸と神の鎮座まします禁足の彼岸の間にあって、結界のメタファーとしての紅葉の錦を流す龍田川である。人間界においても、師匠と弟子、玄人と素人、大人と子供等々、かつては越えることの出来ない一線が此処彼処にあったが、今日遍く境などあって無きに等しいボーダーレスの世となった。渡らぬ川はあっても渡れぬ川のない現代人にとり、深淵に臨んで薄氷を履むが如き隠忍自重など、不羈奔放であるべき行動の足枷となるアナクロニズム以外の何物でもないのだろう。渡ってはならぬ川を失った今、季節が幾度巡り来ても、もはや古人の眼に神さびて荘厳に照り映えていたであろう紅葉の錦はない。



桃花流水

2016-10-13 | 詩歌とともに


山中問答    李白

問余何意棲碧山      余に問う 何の意ぞ 碧山に棲むと
笑而不答心自閑      笑って答えず 心自ら閑なり
桃花流水窅然去      桃花流水 窅然として去り
別有天地非人間      別に天地の人間に非ざる有り


------こんな山ん中でいったい何したいねん 
その答えやったら あんたの目の前の顔に書いたるがな
花はぷかぷか 水はするする 
人の世? それがなんぼのもんやと 
この別天地は肚から笑うとる          (拙訳)



(山中問答 / 『唐人詩意圖 魏剣峰絵唐代山水詩画百図』魏剣峰著, 天津人民美術, 2015)






竪と横│小林太市郎著『藝術の理解のために』

2016-10-09 | アート・文化

(Leonardo’s anatomical drawings. Dover Publications Inc., New York, 2004)

「しかし人体の造形、いっそう適切に言えばその基本的構成のとりかたが、東洋と西洋ではけっして同じでない。すなわち西洋人はそれを横にとり、東洋人は竪にとる。さてそれを横にとると、人間の身体は横では左右均勢に構成されているから、ひいて均勢(シメトリー)ということが西洋的造形の根幹となる。人体の中央線の左右に、横にシメトリカルに両眼、両耳、両頬、両肩、両乳、両手、両足のあるそのシメトリーが、西洋人のあらゆる造形の基準になり、ひいてその空間構成の原理となる。しかるに人体を竪にみると、そこには均勢はなくて、かえって頭、腹、足といった位(くらい)がある。そうしてこの位、―――いっそう適切に言えば位どりということが、じつにあらゆる東洋的造形の基本となる。」
(『小林太市郎著作集1 藝術の理解のために』小林太市郎著, p331, 淡交社, 1973)

本書の構成は、《I藝術の理解のために》、《Ⅱつゆのあとさき、造形と色彩》、《Ⅲ信貴山縁起の分析》、《IV近代藝術の精神史的背景》の四部から成る。冒頭に挙げたのは、《造形と色彩》に含まれる「東洋的造形と西洋的造形」の一節である。この章で熱く語られるのは、謝赫の画の六法中の第五「経営置位(経営には位を置く、小林博士は経営位置ではなく経営置位こそ正しい字句を保存すると考える。)」である。「あらゆる位のうちの基本的な位は、要するに人体の頭、腹、足の三つの位を大きく展開した天地人の三位で、これがひいては東洋的な空間構成の原理となる。」のであり、さらに人体を竪に見た時の中央人位における性別、この男女の区別を一般化した陰陽が東洋的造形の副次的原理であり、天地人の三位に陰陽の両儀を拝するのが東洋古来の伝統的造形原理となると述べられている。そしてこの基本原理は華道において最も豊かな展開をとげたと論述は続く。


(郭熙筆、早春図 /『林泉高致』 張瓊元編, 黄山書社, 2016)

「あるいは花をいけるにしても、西洋の盛り花というものは、多くの花をみな平等に扱って花瓶の中へ横にならべるように盛るにすぎぬが、日本の華道ことに立花においては、花にそれぞれ高下・軽重・陰陽・吉凶の別があり、全体として竪の位に配当していけること言うまでもない。」(同, p333)
「今の日本文化の混乱は、その竪横をごっちゃにするところから来ている。たとえばいけ花をみても、現代では横の造形がしだいに重くなってくるのは当然である。しかし竪の造形と横の造形とが美しく対比して互いに生かされずに、かえって相殺して両損になっているばあいが多い。」(同, p334-335)

大和未生流もまた、頭(天)、腹(人)、足(地)の対応を基本とする東洋的造形の原則を第一義とするが、当流派には初代御家元が創案された「飾花」という挿法がある。これはまさに東洋(日本)の竪の造形と西洋の横の造形を美しく対比して互いに生かした生け花である。本年度の大和未生流いけばな展においても、御家元ご指導の下に社中が取り組んだ力作の数作品が出瓶された。御家元の御監修を経て復刻された『投入盛り 花の活け方』(初代須山法香齊著, 東洋圖書, 1926)追補には、飾花は元来「我が国に仏教伝来と共に伝わり花皿に花を浮かべて仏前に供養したのがその起こり」であると記載されている。生活の洋風化とともに洋室の棚や食卓などを飾る要請のもとに考案されたのが現在の「飾花」であり、西洋化の時流に流されず迎合せず、その混迷の河を涼しげに漕がんと創案なさったかるみの花なのである。

さて人体把握の相違に起因する「東洋文化は本質的に竪の文化、西洋文化は要するに横の文化」という小林博士の卓越した観点をお借りして、人体そのものを対象とする医学の領域を俯瞰してみたら、眼前にはどの様な光景が広がるのだろうか。西洋医学は局所的、科学的、論理的、演繹的であるに対し、東洋医学は全身的、哲学的、経験的、帰納的であるという認識がすでに一般的である。さらに西洋医学は横の医学、東洋医学は竪の医学であるのか。今更言うまでもないが、医学は私のホームグラウンドである。改めて後日腰を落ち着けて考えてみたい。

肚(はら)と腹│長與善郎著『東洋の道と美』

2016-10-07 | アート・文化


「つまり東洋では何よりも先づ「人」を見る。何の能があるかといふことは二の次に見る。人材の要請でだんだんさう云ってゐられなくなって、一應西洋流になるかと思はれるが、その「人」の中心とする所は即ち腹で、腹を精神的に云へば肚でもある。」
(『東洋の道と美』長與善郎著, p28 ,聖紀書房, 1943)

長與善郎著『東洋の道と美』、「布袋とヴィーナス」の章中の一節である。「布袋とヴィーナス」というのは、東洋と西洋、各々の文化伝統の相違を示すため隠喩である。西洋が「佛教で謂ふ所の色の最も人間によつて洗練されたる精華」であるヴィーナスで代表される、「美」の藝術をよしとするのに対し、筆者は東洋の隠喩として、太鼓腹を抱えて転寝する布袋を描いた、北宋の画家、李龍眠筆の「布袋睡眠圖」を挙げる。それは「何かも悟りぬいた人間の深い安眠」を見せる眠りであり、和らぎたのしむ「樂」の藝道に価値を置く審美道が東洋にあることを述べている。筆者が示唆する所をさらに明確にする為、長くなるが引用を続ける。


(李龍眠筆「布袋睡眠圖」/『東洋の道と美』収載)

「西洋にないかういふ道の狙ふ所は、必ずしも見た目の「美しいもの」を畫くことではない。もとより美しいことを避けるわけではないが、それよりも自分の精神の吐き出したがつてゐるものをぢかに吐露するところにある。ぶつける處にある。支那人はその精神のことを氣と云ふ。その吐き出されんとする「氣」の發する所が、畫家の人格の深い奥底に潜むものであればある程、その現はされた「氣」の觀者に愬へる迫力は力強く、餘韻津々たるものになる。氣韻は畫家の衷から迸り出て、觀者の心の衷に生動し、段々と鳴り響く。藝術の本領はその氣韻生動の如何にあり、現はされた表面外觀の美しいとか、綺麗でないとかいふ所にあるのではない。くどいようだが、肚とか腹藝とか日本でいふのも即ちこれで、換言すれば精神至上主義である。もちろん繪ばかりのことではない。唄を一つ唄ふにも、芝居の所作一つするにも、茶を一服立てるにも、字の一線を引くにも、一々現はれざる所はない。」(『東洋の道と美』, p36-37)

気韻生動は、斉の画家、謝赫が『古画品録』において画に六法有りと説いた中のひとつで、六法の一番初めに挙げられている。芥子園画伝にも記載があるが多少字句が異なる。生き生きとした生命力が漲るというのが気韻生動の意であるが、上記で語られた説明に尽きる。気韻生動の他に六法に含まれるのは、骨法用筆(輪郭などの主要な線の運びが的確である)、應物象形(形状を的確に写実する)、随類賦彩(色彩を的確に写実する)、経営位置(画面の構図を練り布置を行う)、傳移模写(古画の気韻を模写する)である。(『中国古代絵画理論解読』傳慧敏編、p12, 上海人民美術出版、2012)
『東洋の道と美』の筆者がここで強調するのは「肚」から吐き出す氣韻の重要性である。

「何も「肚ひとつで行け、頭も智慧も要らぬ」などと云ひはしない。布袋は智慧が餘つて智慧を忘れた男なのである。ただ近頃の言葉で知性といふような意味で、頭にばかり全力を集中したのでは、腰から下が宙に浮いて、ともすれば足は力から離れ、思想は概念的となり、肉體は頭熱足寒、神経衰弱となり勝である。人間いかに知性を誇っても、肚の空虚なことほど惨めなものはない。いはゆる頭寒足熱は人間の最も健康な状態で、覺めてゐてよく、又眠るにいい。布袋のやうにどこでも眠りたい所で眠れる。」(『東洋の道と美』, p33)

筆者は此処では明らかに白隠慧鶴禅師著『夜船閑話』を念頭に置いている。禅病に侵された若き白隠禅師に、白幽仙人は内観の法、軟酥の法をお授けになった。頭熱足寒は、『夜船閑話』で心火逆上、雙脚冰雪の底に浸すが如くと語られた上実下虚の病態に一致する。病める白隠禅師に対し、白幽仙人は、
「長く兩脚を展べ、強よく蹈みそろへ、一身の元氣をして臍輪、氣海、丹田腰脚、足心の間に充たしめ、時々に此觀を成すべし。」
「大凡生を養ふの道、上部は常に清涼ならん事を要し、下部は常に温煖ならん事を要せよ。」
(白隠禅師法語全集第四冊『夜船閑話』、芳澤勝弘訳注, 禅文化研究所, 2000)
と、養生の要諦をお語りになったのである。重心 (center of gravity) の高さは第二仙椎の前方、関元穴(下丹田)に一致する。本年6月の第67回日本東洋医学会総会の演題発表では、『夜船閑話』で示された丹田呼吸法が、不安障害を伴うめまい疾患における精神療法、自律神経訓練法かつ重心を下げた姿勢維持のための理学療法となりうることに触れた。『東洋の道と美』は最近御縁があって私のもとに来てくれた絶版の古書である。本書を拝読して今改めて、「肚」に注目する観点が本業の医学においても重要であることを痛感している。



みやこしまべのわかれ│小町集と伊勢物語

2016-10-06 | アート・文化

(『新訳絵入伊勢物語』吉井勇, 竹久夢二著, 阿蘭陀書房, 1917)

小町集に「井出の島といふ題を」という詞書の歌がある。
熾のゐて身を焼くよりもわびしきは宮こ島辺の別(わかれ)なりけり
(和歌文学大系18『小町集/業平集/遍昭集/素性集/伊勢集/猿丸集』 室城英之他編, p9, 明治書院, 1998)
和歌文学大系の脚注には、「井出の島」は京都府綴喜郡井手町を流れる井出川の中の島かと記載されている。小野小町の終焉の地とされる場所は全国にあり、京田辺市に木津川を挟んで隣接する井手町には石積みの小町塚がある。『小町集』には名勝、井出の玉川(井出川)の花で有名な山吹を詠んだ歌があり、小町と井出の里は縁が深いのである。
井出の山吹を
色も香もなつかしき哉蛙(かはず)鳴く井出のわたりの山吹きの花

さらに同書の脚注では「宮こ島辺の別」に関して、都へ行く人と島に残される人との別れとの説明がある。一方、このおきのゐての歌は『古今集和歌集』墨滅歌(ぼくめつか、すみけちうた)にも収載されていて、   
おきのゐ みやこしま
おきのゐて身を焼くよりもかなしきは都島辺の別れなりけり
(日本古典文学全集11『古今和歌集』小松正夫、松田成穂編, p418-419, 小学館, 1994)
日本古典文学全集の脚注では、「おきのゐ」も「みやこしま」も地名であろうがあきらかでない、さらに「島辺」は彼女が住んでいたとされる東北地方のどこかであろう、と記され見解が分かれるのである。


(和泉書院影印叢刊27『伊勢物語 慶長十三年刊 嵯峨本第一種』片桐洋一編, p226-227, 和泉書院, 1981)

おきのゐての歌は、『伊勢物語』百十五段では乙女が紅涙を絞る筋書になる。
むかし、陸奥の國にて、をとこ女すみけり。をとこ、「都へいなむ」という。この女いとかなしうて、馬のはなむけをだにせむとて、おきのゐて、都島という所にて、酒飲ませてよめる。
おきのゐて身をやくよりもかなしきは都しまべの別れなりけり

(岩波文庫『伊勢物語』大津有一校註、松田成穂編, p73, 岩波書店, 1994)
本書の冒頭には、底本に天福本系統の善本学習院大学蔵伝定家本を用い、宮内庁書陵部蔵冷泉為和本、天理図書館蔵法橋玄津筆本などで校合を加えたとの記載がある。何故これをわざわざ書き留めるかといえば、おきのゐての歌の後に「とよめりけるにめでて、とまりけり」と続く伊勢物語本があるからである。「高安の女」のブログ記事(2015/01/31)に挙げた、藤井孝尚の『伊勢物語新釋』を底本とした伊勢物語(角川文庫『伊勢物語』中河與譯註, 角川書店, 1953)がそうである。

「とよめりけるにめでて、とまりけり」が伊勢物語のどの写本や注釈本に記載されているかはともかく、この末尾の一文が第百十五段で繰り広げられるものがたりにどのような効果を与えているのだろうか。「とよめりけるにめでて、とまりけり」を欠いた、女の歌で終わる第百十五段は読む者に余韻を残してくれる。別れを既成のものとして都に帰り行くをとこのために、女は道中の無事を祈りはなむけの宴を開く。ふたたび還らぬと承知の上で流れの中に美しい花をそっと浮かべるのにも似た、女の無私の佇まいが心に響く。とどまって欲しいのが女の本心である。それでも去りゆくをとこを見守り、すきと背筋を伸ばす女であるからこそ美しい立姿となる。「とよめりけるにめでて、とまりけり」は語り過ぎた感がある。『去来抄』に、いと櫻の十分に咲きたる形容、能謂おほせたるに侍らずやと述べる去来の言葉に、松尾芭蕉が返したのは「謂應せて何か有(いひおほせて何かある」(ものごとをすべて言い尽くしてしまえば何が残るのだ)であった。


(中尾家本伊勢物語絵本/『伊勢物語絵巻絵本大成』資料編, p216, 羽衣国際大学日本文化研究所編, 角川学芸出版, 2009)


(チェスター・ビーティー図書館本伊勢物語絵本/『伊勢物語絵巻絵本大成』資料編, p247, 羽衣国際大学日本文化研究所編, 角川学芸出版, 2009)

近代に飛ぶが『新訳絵入伊勢物語』の第百十五段も「男はこの歌を聴いて哀れになって、またそこに留まることになった。」で終わる。その挿絵はどうかといえば、第百十五段に挟まれている女の絵がみやこしまべの女とは限らないのかもしれないが、竹久夢二はひとり立ち尽くす艶な女を描いている。それが冒頭の画である。一方上に掲げた『伊勢物語絵巻絵本大成』掲載の大和絵で第百十五段を探してみると、をとこも女も従者ももれなく細やかに描かれている。玄人素人に拘らず百人居れば百様のみやこしまべのわかれの絵があるに違いない。最後に雑魚の魚交りで、私のみやこしまべの別れである。竪長の画面、辺角の構図にて左下方に斜めに汀線が走り、いまだ波に攫われずに扇が捨てられている。白砂の余白が続いた画面上方、右寄りの遠景に一本の松が霞む。左下が女で右上がをとこである。すでに画中には女もをとこも姿はない。

原安三郎コレクション 広重ビビッド│三遠の法

2016-10-01 | アート・文化

《原安三郎コレクション 広重ビビッド》 / 図録

日本化薬株式会社元会長、原安三郎氏が収集された《原安三郎コレクション 広重ビビッド》展が、本年、サントリー美術館を皮切りに全国六か所をを巡回している。歌川広重の貴重な初摺の『名所江戸百景』、『六十余州名所図会』の揃物を中心とした展覧会は、ふくやま美術館に続き、畿内では大阪高島屋(会期:9月28日(水)~10月17日(月))で開催されることになった。文字通りビビッドなベロ藍、広重ブルーが目に染みる作品の横には、広重が追い求めた様々な技法の説明とともに、各々の画に描かれた細部の名称、そして今や変わり果てた名所を撮影した現代の風景写真が提示されている。まさに昔を今になすよしもがなである。


歌川広重「六十余州名所図会 / 大和 立田山 龍田川」(図録p57)

この秋、大和未生流いけばな展で龍田川の楓を生けたことが機縁で、いつか本物にお目にかかりたいと願っていたのが『六十余州名所図会』の内の「大和 立田山 龍田川」である。横に掲げられた説明文には、龍田川の水運の要衝であった亀の瀬の情景であることが示されていた。大和から河内へと流れる大和川(龍田川)の奈良県と大阪府の府県境付近が「亀の瀬」である。『大和名所図会』にも描かれた亀石、亀岩と呼ばれる大石があるのが名前の由来で、亀の瀬の北側一帯は地滑りが多く現在に至るまで対策工事が行われている場所でもある。


「大和名所図会 龍田川」

会場の一隅には、淵上旭江の『山水奇観』が展示されていた。広重が『六十余州名所図会』の典拠として多用するも、視点の位置を変えるなどの工夫を加えて独自の表現へと発展させたという絵本である。帰宅後にもう一度図録を見直すと、圧倒的に『山水奇観』には俯瞰図が多い。広い景色を一望に収めて、その地域のあらましを読者に掴ませるには俯瞰図が優れているのだろう。

さて北宋、郭熙は、画論『林泉高致(りんせんこうち)』にて「三遠」を山水画の構図法として提唱している。
山有三遠: 自山下而仰山顛, 謂之高遠; 自山前而窺山後, 謂之深遠; 自近山而至遠山, 謂之平遠。高遠之色清明, 深遠之色重晦, 平遠之色有明有晦; 高遠之勢突兀, 深遠之意重疊, 平遠之意冲融而縹緲。其人物之在三遠也, 高遠者明瞭, 深遠者細碎, 平遠者冲澹。明了者不短, 細碎者不長, 冲澹者不大。此三遠也。
(『林泉高致』 張瓊元編, p74-75, 黄山書社, 2016)


『芥子園画伝』巻三 山論三遠法 / 平遠法、深遠法、高遠法

すなわち山麓より頂上の巓を仰ぎ見る「高遠」、正面より山の後方、奥深くを窺う「深遠」、そして近くより遥かに見わたす「平遠」が、山水の基本的な捉え方である三遠の法である。これは山水画を描く時だけに心がけるべきものではないに違いない。清代の画譜『芥子園画伝(かいしえんがでん)』、山法の章にはこの三遠の山が描き分けられている。ふたたび広重の浮世絵に戻ると、各々一見、高遠、深遠ないし平遠の画かと思えても複眼的であり、一枚の画の中には異なった視線の描き方が混在していることに気付いた。それを踏まえて「木曽路之山川」を眺めてみると、此処には雪で覆われた木曽路の山々が描かれているのだが、右より「深遠」、「高遠」、「平遠」の画ではないだろうか。「木曽路之山川」は大判三枚続きのパノラマであり、三枚で一幅の絵なのである。


歌川広重「木曽路之山川」(図録p436-437)

帰宅後に図録の「大和 立田山 龍田川」の画を眺めて見ると、向かって左遠方に立田山、その手前には三室山、下方に降りて問屋場から川中の亀石と続く。そして底部を超えた後は、右手に切り立つ崖のラインを辿り、その上に紅葉を頂く木がほぼ屹立する。画を眺める視線は「大和 立田山 龍田川」の題名から反時計回りに回り、なるほどこれがかの名所なのかと堪能して、再び「大和 立田山 龍田川」の位置に還る。この画もまた、一つの方向へ向かって注がれる視線だけでは描かれてはいない。「高遠」は突兀(とつこつ)で聳え立つ勢いがあり、「深遠」は重畳として山々が重なり合い、「平遠」は縹渺とはるばるとした趣があり、全てが一つの画の中に混在しているのである。