このところの妻の言動や行動に惑わされていると、だいぶ以前に亡くなった母のことがしばしば思い返される。当時、母の近況が書かれた手紙を妹からもらったことがある。
新しい介護施設に移って2週間、環境が変わったけれど、母にはなんら変わった様子もみえないという。
妹は1日おきに施設を訪ねているが、そのたびに、初めて訪ねてくれたと言って淋しがるらしい。それでいて、ケアマネージャーには、娘が毎日来てくれることが唯一の楽しみだと言ったりするという。まばらになった記憶が、時と場所をこえて繋がったり切れたりするようだった。
手紙の中で妹は、
「わたしたちは、まばらではあっても記憶が1本の糸で繋がっているのだけれど、ばあちゃんにはもうその糸が無くなって、花びらが舞ってるみたいなのかもしれません。その花びらの1枚がひらひらと目の前に落ちてきたとき、その1枚の記憶がとつぜん蘇ってくるのかもしれません」と書いてあった。
介護施設の窓からは、以前に月参りをしていた稲荷神社の鳥居が見えるので、母は喜んで手を合わせているという。当時は駅前で商売をしていたことなども介護スタッフに話したという。その頃のことは、母の記憶からすっかり抜け落ちていると思っていた妹にとって、そんなことは驚きだったという。
また入所者の中に、顔が合うと手を上げてにっこりするおばあさんがいるらしく、その人のことを母は、アベのおばあちゃんだというのだが、アベのおばあちゃんというのは、妹が子供の頃に相当なおばあちゃんだったから、今でもおばあちゃんで健在かどうか、妹には信じがたいという。
先日は、不眠症ぎみの母が眠れないでいたら、誰かが一晩中そばで付き添っていてくれたという。そのような親切な人がいるのかどうか分からないが、それも記憶の花びらの1枚だったのかもしれないと、そのような手紙だった。
どこかで満開の山桜などが咲いていて、ときどき花びらが風に乗って舞い降りてくる。アベのおばあちゃんだったり、お稲荷様だったりして、花びらはとつぜん母の枕元に舞い散ってくる。そうやって母の記憶の中から、たくさんの花びらが降ってくれれば、それもすばらしいことかもしれないと、その時は思った。
いまは妻の周りで花びらが舞い散っている。記憶の花びらが窓から舞い込んできたり、雲の向こうに舞い上がったりする。1枚1枚の花びらは花の真実であろうが、その花びらがどこから舞ってくるのか判然としないことが多くて、私は日々花びらの風に翻弄される。
「2025 風のファミリー」