風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

そのとき人は風景になる(7)

2021年06月27日 | 「新エッセイ集2021」

 

 彼はエムでありエム君でもあった

どうでもいいことを、だらだらと書き続けている。ただ書いている、と言われそうだ。が書いてしまう。
エムとはずっと関わりがあった。さほど深くはなかったが、小学生の頃から大人になってからも、どこかで懐かしさのようなもので繋がっていた。
中学時代、ぼくはエムのことを「エ厶」と呼び捨てにしていた。そのことを別の友人から、どうして「エム君」と呼ばないのかといって咎められたことがある。そのとき初めて、それまでのエムとの関係を意識したような気がする。
エムとはそれだけ親しかったともいえる。小学生の頃からずっと彼は「エム」だったのだ。体が小さくて弱々しそうだった彼に対して、少年のぼくにとっては「エム君」ではなく「エム」と呼ぶのが自然だったのだ。兄弟のような親密さとともに、少年特有の威圧的な感情も含まれていたかもしれない。

エムは声にも特質があった。
彼のハスキーで澄んだ声は特異がられていて、よくクラスの皆んなの前で歌わされていた。苛めに似たそのやり方に、彼は拒むこともせず従っていたのだが、そんな時の彼は、むしろ楽しく得意そうにさえみえた。
のちに彼が抱くようになった声楽への関心も、その頃すでに芽生え始めていたのかもしれない。

彼とぼくとに共通項があるとすれば、彼もぼくも生まれたのが大阪だったということ。九州の山間部にあるその街は、彼の場合は父親の郷里であり、ぼくの場合は母親の郷里だった。彼の母親は、その街で美容院を開いていたが、ずっと大阪弁をしゃべっていたし、ぼくの家では父親がずっと大阪弁で商売をしていた。
少年期の間に、エムもぼくもすっかりその地方の言葉になりきっていたが、後年よく二人の間で、興味深い話題として方言の話になったのも、少年期の環境に関係があったかもしれない。ぼくらは言葉に関心と拘りをもたざるを得ないような家庭環境に育ったともいえる。

中学の国語の教科書に『標準語と大阪弁』という会話体の文章が載っていた。授業中にエムとぼくが指名され、大阪弁の部分をエムが音読させられ、標準語の部分をぼくが音読させられたことがある。
その時のエムの大阪弁はまるで別人が喋っているように見事で、ぼくなどとてもそのような演技はできないと感心したものだ。彼は歌もうまかったが言葉に対する感覚も、ぼくよりもはるかに優れていた。
その頃から、ぼくは彼をエムと呼び捨てにするのを躊躇うようになり、ぼくの「エム」はいつの間にか「エム君」に変わっていったような気がする。
後年、くしくも彼もぼくも大阪で生活することになったのだが、二人の会話はいつも九州弁と関西弁がごちゃまぜになっていた。それはそれで、曖昧な言葉の縄目を流れる、二人だけに通じる感情や懐かしさがあったように思う。

 

(1)そこには風が吹いている

 

 


そのとき人は風景になる(6)

2021年06月19日 | 「新エッセイ集2021」

 

 フランスへ行きたいと思うけど

アテネ・フランセの
フランス人のきれいな先生
あなたをおもうと胸が苦しいです
ジュ・テームあなたが好きです
だけどぼくのフランス語は通じません
日本語も通じません
あなたのフランス語は歌のよう
その香りの風にのって
フランスへ行きたいと思うけど
フランスはあまりにも遠い
セーヌ川は
ミラボー橋の下を
流れているそうですね
ぼくの苦しみも川に似ています
中央線御茶ノ水駅の下を
流れているのは
神田川です

 

(1)そこには風が吹いている

 

 


そのとき人は風景になる(5)

2021年06月14日 | 「新エッセイ集2021」

 

 そこにはいつも風景があった

ぼくの東京行きは3月15日に決まっていた。ちょうど前日が18歳の誕生日だった。
これまでの生活の習慣から解き放たれて、中途半端な境界域の上に立たされているような気分だった。何かを始めようにも、始めた途端に終わらなければならないような、スタートの場所がゴールの場所でもあるような、いまはまだ何も始まらず、何も完結できない、そんな状態の中で新しい生活への心構えがなかなか出来ないのだった。
日常生活の変化に戸惑っていた。考えてみれば、それまで親の手から解き放たれたことはなかった。巣箱の中で羽をばたつかせてみるが、なかなか飛び出せない臆病なひな鳥だったのだ。

ぼくは毎日あてもなく近くの山を歩き回っていた。
まわりの風景はいつも、春の霞みにぼうっと包まれていた。遠くの活火山のやわらかな噴煙が、薄い雲の中に溶け込んで見分けがつかなかった。
広大な外輪山がそのままなだれてくるような原生林の中を、汽車の吐き出す白い蒸気が縫っていくのが見えた。まるで、あえぎながら山あいを潜っていく生き物のようでもあった。初めて見る風景だった。
これまでは周りの風景をじっくり眺めることなどなかったのだ。日常の外でふと立ち止まってみると、これまで見過ごしていたものが見えてきたりした。それらはいつも目にしていた風景だったはずだが、いままでは風景として認識することがなかった。今になって身近な風景として、ぼくの中にしっかり定着するには新しすぎて、抱き止めようとしても距離がありそうだった。

そのころ母は毎日、ぼくが東京へ携行する夜具を縫っていた。ふたりきりの昼の食事は決まったように素朴なうどんで、ぼくのうどんの中にはタマゴが入っていた。ぼくはただ黙ってうどんを食べていたが、うどんの中のタマゴにも母の思いがこもっていたのかもしれない。今頃になって、その日々の母の気持ちを思ったりしている。
母は病弱だったのか。しばしば首が締めつけられるようだと言って、嘔吐するような仕草をすることがあった。ひどい肩こりだったのかもしれない。医者にかかっても病名はわからず、ときには神がかりになっていた。ある祈祷師に先祖の祟りだと言われると、白木の位牌をそばに置いて般若心経を唱えたり、また誰かに、仏も居ないのに位牌を置くのは良くないと言われると、そちらの方も信じてしまうほどで、本人も自分の体をどうして良いのか迷っているようだった。

それでも母は95歳まで生きたから、真に病弱だったのかどうか疑わしい。
子どもたちは夏になると半日は近くの川で泳いでいたが、あるとき突然に母がやってきて泳ぎ始めたことがある。平泳ぎや背泳ぎではなく、斜め泳ぎと言われていた泳ぎ方で、体の半身は水面に出す格好のまま、両腕を交差して水をきっていく珍しい泳ぎ方だったのを覚えている。
母が泳ぐのを見たのはそれ一度きりだったが、そのときは母ではなく他所の人を見ている驚きだった。
人の体はつねに何らかの変化をし続けるものだと思うが、母は細かいことを気にする神経質な性格だったから、体の小さな不調まで見逃せなかったのだろう。母が体の不調を訴えるたびに、医者が処方する薬が増えていったようだ。精神安定剤から消化剤、心不全や不整脈を抑える薬、血圧を安定させ血流を良くする薬、更には狭心症を鎮める薬まで、晩年には多量の薬を服用していた。

母とは対象的に、父は元気な人だった。商売上で熊本や延岡の方まで出かけることもあり、ほとんど夜しか家には居なかった。長女は高校受験で極度に神経質になっていて、他の妹たちが姉の分まで家事の分担を受け持たされていた。
家族にはそれぞれに役割があり、その中で家族はいつもどおり動いているようにみえた。それは一体になって回転している歯車のようなもので、すでにぼくの歯車はそこから外れかけているのだった。
それまではただ日常に流されていた。家族の中では家族と一緒に流れていればよかった。その流れがすでに変わろうとしていて、ひとりだけ流れの外にいるような感覚だった。

高原の空気をいっぱい吸ったおかげで、帰途のバスに乗り遅れてしまい、夜遅く家に帰ったときには家族の食事は終っていた。尾頭付きの大きな鯛が食膳の真ん中にあった。
父と母と妹たち、家族はみんな揃っていた。それぞれの笑顔がなにかを期待しているようにみえた。その様子には意味がありそうだった。ぼくが鯛に箸をつけたときにその意味がわかった。鯛の裏側の半身はすでに家族で食べられてしまっていたのだ。ぼくがそのことに気づいたことを知って、みんなもホッとしたように声を出して笑った。
家族みんなでぼくの誕生日を祝ってくれた、それが最後の夜だった。

 

 

(1)そこには風が吹いている

 

 

 


そのとき人は風景になる(4)

2021年06月05日 | 「新エッセイ集2021」

 

 海をわたって風のくにへ

西へと
みじかい眠りを繋ぎながら
うず潮の海をわたる
古い記憶をなぞるように
島々はとつとつと
煙りの山はゆったりと
風の声を伝えてくる

雲は思いのままに
夏の空は膨らみつづける
いつかの風に誘われて
ぼくは眠り草に手を触れてみる
憶えているのは
土の匂いと水の匂い
そして古い遊び

風のくにでは
生者よりも死者のほうが多い
山の尾根でふかく
花崗岩とともに眠っている
竹やぶの暗い洞窟では
白い百合になった切支丹が
風の祈りを刻みつづける

迎え火を焚いたら
家の中が賑やかになった
古い人々は古い言葉をつかった
声が遠いと母がぼやく
耳の中に豆粒が入っていると
いくども同じことばかり言うので
子供らも耳の中に豆粒を入れた

送り火を焚いて夏をおくる
耳の豆粒を取り出すと
母の読経が聞こえた
ひぐらしの声で一日が明けて
ひぐらしの声で一日が暮れる
日がな風ばかり吸って
せみの腹は空っぽになった

きょうは目が痛いと母が言う
きのうは眩暈がし
おとといは便秘だった
薬が多すぎて配分がわからないと
母の目薬は探せないまま
ぼくはまた船に乗る
とうとう風の言葉は聞けなかった

 

 

(1)そこには風が吹いている