彼はエムでありエム君でもあった
どうでもいいことを、だらだらと書き続けている。ただ書いている、と言われそうだ。が書いてしまう。
エムとはずっと関わりがあった。さほど深くはなかったが、小学生の頃から大人になってからも、どこかで懐かしさのようなもので繋がっていた。
中学時代、ぼくはエムのことを「エ厶」と呼び捨てにしていた。そのことを別の友人から、どうして「エム君」と呼ばないのかといって咎められたことがある。そのとき初めて、それまでのエムとの関係を意識したような気がする。
エムとはそれだけ親しかったともいえる。小学生の頃からずっと彼は「エム」だったのだ。体が小さくて弱々しそうだった彼に対して、少年のぼくにとっては「エム君」ではなく「エム」と呼ぶのが自然だったのだ。兄弟のような親密さとともに、少年特有の威圧的な感情も含まれていたかもしれない。
エムは声にも特質があった。
彼のハスキーで澄んだ声は特異がられていて、よくクラスの皆んなの前で歌わされていた。苛めに似たそのやり方に、彼は拒むこともせず従っていたのだが、そんな時の彼は、むしろ楽しく得意そうにさえみえた。
のちに彼が抱くようになった声楽への関心も、その頃すでに芽生え始めていたのかもしれない。
彼とぼくとに共通項があるとすれば、彼もぼくも生まれたのが大阪だったということ。九州の山間部にあるその街は、彼の場合は父親の郷里であり、ぼくの場合は母親の郷里だった。彼の母親は、その街で美容院を開いていたが、ずっと大阪弁をしゃべっていたし、ぼくの家では父親がずっと大阪弁で商売をしていた。
少年期の間に、エムもぼくもすっかりその地方の言葉になりきっていたが、後年よく二人の間で、興味深い話題として方言の話になったのも、少年期の環境に関係があったかもしれない。ぼくらは言葉に関心と拘りをもたざるを得ないような家庭環境に育ったともいえる。
中学の国語の教科書に『標準語と大阪弁』という会話体の文章が載っていた。授業中にエムとぼくが指名され、大阪弁の部分をエムが音読させられ、標準語の部分をぼくが音読させられたことがある。
その時のエムの大阪弁はまるで別人が喋っているように見事で、ぼくなどとてもそのような演技はできないと感心したものだ。彼は歌もうまかったが言葉に対する感覚も、ぼくよりもはるかに優れていた。
その頃から、ぼくは彼をエムと呼び捨てにするのを躊躇うようになり、ぼくの「エム」はいつの間にか「エム君」に変わっていったような気がする。
後年、くしくも彼もぼくも大阪で生活することになったのだが、二人の会話はいつも九州弁と関西弁がごちゃまぜになっていた。それはそれで、曖昧な言葉の縄目を流れる、二人だけに通じる感情や懐かしさがあったように思う。
(1)そこには風が吹いている