風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

陽は沈み、陽はまた昇る

2024年12月31日 | 「2024 風のファミリー」

 

いつだったかの年末に、明石の魚の棚商店街という所に立ち寄ったことがある。地元では「うおんたな」と呼ばれていて、アーケードがたくさんの大漁旗で賑わっていた。近くの漁港から水揚げされたタコやシャコ、タチウオをはじめ、魚介類が生きたまま売られていた。
本州と淡路島がいちばん接近している明石海峡は、潮の流れが速く魚の身がよくしまっていて美味しいという。とくに明石のタコは、関西ではブランドものになっている。

せっかく明石にまで来たのだから、タコ焼き、いや明石焼きのタコぐらいは味わって帰りたかった。明石では、明石焼きとかタマゴ焼きとか言われて、大阪のタコ焼きとはすこしちがう。
私も本場の明石焼きは初めて食べる。明石焼き専門の店が70店ほどもあるそうで、いたるところタコの看板があがっている。焼き方や食べ方も店によって多少ちがうらしいが、どうせ初体験なので適当な店に飛び込んだ。

まな板に似たあげ板という木の台に、15個きちんと並んだ熱々の明石焼きが運ばれてきた。すこしひしゃげた形がいかにも柔らかそうだ。メニューの脇に書かれた「美味しい食べ方」の説明に従って食べてみることにした。
最初の1個は、何もつけずに素のままで食べる、とある。噛まなくてもとろけていくほどに柔らかいが、とにかく熱いので猫舌では無理かもしれない。砕けたあとに舌の上に小さなタコが残る。タコはサイコロぐらいの大きさが、歯ごたえと味が楽しめて最適だと、店の説明にある。すこし物足りないタコを味わう。大阪のタコ焼きのようなソースやマヨネーズ味のどぎつさはない。タマゴが勝ったマイルドな味がやさしい。

次の3個は出汁に浸して食べる、とある。汁鉢の中で箸にかからないほど軟らかくなってしまうので、鉢の端から流し込む感じで口に入れる。出汁とタコ焼きのなじみ具合がいい。
次は6個。いよいよ本番といったところか。出汁に三つ葉を加え浸して食べる、とある。三つ葉の風味に助けられて、和食のような上品な味わいになる。
大阪のタコ焼きは、祭りや屋台の立ち食いが似合っているが、明石焼きは格好つけた雰囲気にも合いそうだ。元はもっと上品に食べられていたものかもしれない。地元の話を信じると、明石焼きがタコ焼きの元祖だという。それが大阪に入ると、賑やかなお祭り風になってしまうようだ。

残りは5個。まず2個は、ひとまず出汁を脇にやって抹茶塩をふりかけて食べる。素のままの明石焼きに戻って、抹茶の渋味でひといき入れる感じ。すこし口柄が変わったところで出汁に抹茶塩を入れ、さっぱりとした抹茶の味わいとともに、最後の3個を汁ごと口に流し込んでお終い。
15個をいろいろな食べ方をしたので、満腹ではないが、ほどよい程度に食い気は満たされた。明石焼きは、とくに印象に残るような味わいではなかったけれども、その控えめな味は、もういちど食べて確かめてみたくなるような、極めがたいものがいまも口の中に残っている。

柔らかい衣に包まれた、サイコロのようだった明石のタコ、さて新しい年にはどんな賽(サイ)の目が出ることやらと、明石海峡に沈んでいった素晴らしい夕日のことも心に残しながら終えた年だった。
ゆく年くる年、海に落ちていった太陽は、ふたたび山から上る。そうやって、昨日は今日になり、今日は明日になる。




「2024 風のファミリー」




 


木にやどる神

2024年12月27日 | 「2024 風のファミリー」

 

クリスチャンではないので、教会にはあまり縁がないが、旧軽井沢の聖パウロカトリック教会のことは、強く旅の印象に残っている。その素朴な建物に魅せられたのだった。引き寄せられるように教会の中に入ったが、居心地が良くて、しばらくは出ることができなかった。
周りの木々に調和した木造の建物は、柱や椅子、十字架にいたるまで、木が素材のままで生かされており、親しみのある木の温もりの中に、優しく癒されるものが宿っているようだった。

正面の十字架の周辺には四角い窓があり、眩い外光が、頭上のⅩ字型に組まれた木の柱や椅子に、やわらかい影をつくり、山小屋や農家の納屋にいるような、厳粛さなどとはちがった、もっと和やかで穏やかな空気を漂わせている。
やはり木は優しいのだ。木は建物の一部になっても生きつづける。その木肌に折々に触れた人々の汗や油を吸収し、艶となって鈍く輝いていて、静かに昔語りをするようだ。

「初めに言葉あり、言葉は神とともにあり、言葉は神なり」と語られる西洋の神よりももっと古い、言葉よりももっと古い神が、木には宿っているような気がするし、私らが慣れ親しんでいる神も、そのような木の神に近いものだと思った。そんな馴染みのある神が、この木の教会には、柱の陰などにひっそりと隠れているようだった。

いつか四国の古い芝居小屋で感じた、あの独特のくつろいだ雰囲気を思い出した。
小屋には晴れやかに人々が集う日と、がらんとして静まりかえっている日があり、その繰りかえされる日常生活の隙間に、人々を日常の外へと誘い出す、神のようなものがそっと潜んでいるようだった。信仰の神というよりも、芸能の神に近いもので、その場にいると、いつもより気分を高揚させる何かがあるのだった。

旧軽井沢の木の教会もまた、時空を超えて静かに落ち着ける場所だった。
そこは、いろいろな神の近くにいるような、あるいは夢幻の領域に引き込まれていくような、そんな不思議な感覚の中で、しばらくは時を忘れることができる空間だった。
木の舞台と木の教会、ゼウスの神とミューズの神が仲よく共存していそうな、どちらも古くてやさしい木の棲み家だった。




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神の造られた宇宙(石の教会)

2024年12月23日 | 「2024 風のファミリー」

 

 

神はどこにいるのか。神から離れ、神に見捨てられたときから、私たちは神を探し始めるのかもしれない。何かを捨てたとき、その存在に気付くように。
かつて、神は風の中にいたようだ。風は鳥が運んできたという。鳥は神の使いだと信じられていた。風は目に見えるものではなかった。ひとは神をただ感じた。神は山にも川にも、木にも草にも、存在した。森羅万象、あらゆるものの中で、古代のひとは神の恩恵を享受することができたようだ。

「天然の中に神の意思がある」と説いた思想家・内村鑑三は、「神の霊がときに教会の形をして現われても不思議ではない」とも言った。その理念を受けて造られたのが、軽井沢・星野の地に建てられた「石の教会」だった。建築家ケンドリック・ケロッグが自然と対話しながら創りあげた、きわめて独創的な教会である。

その天井は蒼穹であります。
その板に星がちりばめてあります。
その床は青い野であります。
 
それが、内村鑑三の「神の造られた宇宙」の姿だった。

そして建築家は、石の壁とガラスの天井で、その宇宙を構築した。陽光が降りそそぎ、星のように輝く石の壁には水が伝い流れ、まわりは緑の草木が茂る。天然の教会が完成した。
この教会には、十字架はない。建築家ケロッグが追求したのは、舶来ではない日本人の教会だった。日本という国はひとつの宗教にとらわれず、他国の宗教も受け入れる鷹揚さをもっていると、彼は考えた。自然界のあらゆるものの中に神を認めることができる、それが古代からの日本人の特質だと知っていた。

石の回廊をくぐり、ガラスの天井からそそぐ明るい陽光を浴びながら、大きな石の裂け目に深海のような青空を望む。そこは地上でもない空中でもない、むしろ澄みきった水中に近い、不思議な空間にいるようだ。
五感が快く包まれ、やがて解放される。その瞬間は、風に似た神の気配に触れているようでもあった。それは予感のようなものかもしれない。いつかどこかで神と邂逅するかもしれないという、淡い歓びのような感覚だった。




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白い道

2024年12月20日 | 「2024 風のファミリー」

 

スマホなどない頃だった。パン屋でパンを買う。そのとき口にだす短い言葉が、その日に喋った唯一の言葉だという日もあった。
地方から東京に出てひとりで暮らすには、ときには孤独な生活に耐えなければならなかった。ひとと繋がることが、現代よりもずっと厳しい環境だったといえる。
学生の頃、友人のひとりが心を病んだことがある。下宿を訪ねたがドアを開けてくれない。激しくノックして呼びかけても、室内で妙なことばかり口走っていて、まともに応答してくれない。

仕方ないので無理やり開けようとしたら、入れ替わるように、すばやく彼は部屋から飛びだしていった。いつもと違う態度と異常な表情に危ういものを感じた。急いで追いかけたが、路地の多い街中では見つけることが容易ではない。近くの交番に助けを求めたが、そのようなことで警察は動けないといって拒絶された。
夜になってもういちど彼の部屋を訪ねると、ドアには鍵がかかっていたが、中から彼の歌声のようなものが聞こえてきた。
「チャペルにつづく白い道……」
そんな文句だった。詩だか歌だかはわからなかったが、節が付いていたので歌だったのだろう。ずっと同じ文句をくりかえしていた。彼もとうとう都会の生活に敗れたか、と思って悲しかった。

とにかく近くの病院に連絡をとった。翌日、訪ねてきた屈強な看護人たちによって、彼は注射で眠らされ、郊外の精神科病院に運ばれた。彼も私も東京には身内がいなかったので、取り敢えず私が身元保証人にされ、毎日のように彼を見舞うことになった。
病棟に入るところには鉄格子があった。鍵がはずされ病室に通じる廊下へ入ると、私の背後で再び鍵がかかる。
彼はいくぶん落ち着いた様子で、会うなり私のことを、きみの様子は変だ、きみは病人だと言った。隔離された暗い部屋で、そのような彼を見るだけでも、私は憂鬱な気分だったのだ。異様な鉄格子の中では、確かに私もまた病人のようだったかもしれない。

その後、彼はいくどか入退院を繰り返した。例の歌をふたたび聞くようなことはなかったが、退院しても、強い薬を与えられているようで、始終あくびばかりしていた。起きているのか眠っているのか、会話もあまり進まない。無気力な彼と付き合うのが、私は次第に苦痛になった。
彼の郷里の両親には、彼の状態をあまり心配させない程度に報告はしていたが、ついには母親が出てきて、彼を説得して郷里の北海道に連れて帰った。
その後しばらく彼の消息は絶えた。私はしばしば、白い道を歩いている彼のことを思った。おそらく都会生活への復帰は無理だろう。わが身のことを考えても将来の風景は暗かった。

それから何年か後に、彼から突然連絡が入った。わざわざ大阪まで訪ねてくれたが、まるで別人のように元気になっていた。あれから彼は大学も卒業し、地元で英語の学習塾を開いていると言った。結婚して3人の子供もいるという。いや4人だったかもしれない。子供達はいずれも優秀だといって自慢した。
その後の彼は走るのが趣味で、あちこちの市民マラソンに参加しているようだった。九州の私の郷里でも走ったといって写真を送ってきた。いまや、マラソンランナーとなった彼は、白い道のゴールを目指して走っているのだった。




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栗のイガは痛いのだ

2024年12月15日 | 「2024 風のファミリー」

 

その頃は道路(国道)が子供の遊び場でもあった。子供がいっぱい居た。わが家は5人、裏に住んでいた母の姉の一家も5人、隣りの母の弟の一家が3人、向かいの家では子供の名前もごっちゃになるほど沢山いた。どの家にも飼い犬がいて、当時は放し飼いだったから、タローもジローもチョンもチビも、子供も犬も区別なく混じって遊んでいた。
瓦けりや縄跳び、地雷や水雷、ビー玉やケンケンパー、竹のバットとずいきのボールで野球など、誰かが始めるとすぐに、男女の区別もなく集まった。

珍しくある日、女のいとこと二人きりになったことがある。いつものような何気ない会話が途切れてしまい、話の続け方がわからなくなったことがある。
普段は大勢で居ることばかりだったので、慣れ親しんだ日常から、未知の場所に迷い込んだような戸惑い。とっさに言葉が見つからず、そこから逃げ出すこともできない焦り。そんな微妙な年頃だったのだろう。

慣れない沈黙に耐えられなくなって、私はいきなり彼女のスカートの中に手を入れた。言葉が出てくる前に手が動いていたのだ。指先に柔らかい芝生のようなものを感じて、私の手は止まった。
「だめよ、それはイガグリよ」
彼女の声は平静を装っているように聞こえた。ふたりの間に、異常なことは何も起きてはいないという、落ちついた口調だった。とつぜん好奇心だらけの、いたずら小僧に変身した私の方が戸惑ってしまった。

「触ったら痛いわよ」
私は思わず手を引っ込めてしまった。その時、たしかに指先に痛みを感じたのだった。
あの痛みは何だったのだろう、と思い返すことがある。栗の実が熟す頃のことだっただろうか。栗のイガの痛さがどんなものであるか、それは、少年のイガグリ頭に触れるどころの痛さではない。それだけは知っていた。




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