コオロギを飼ったりする、私はすこし変わった子供だったかもしれない。
畑の隅に積まれた枯草の山を崩すと、コオロギはなん匹でも跳び出してくる。それを手で捕まえた。尾が2本なのはオス、1本なのはメスだとした。いい声で鳴くのはオスの方だが、かまわずにごっちゃに飼った。
大きめの虫かごを自分で作り、枯草を敷き、キュウリなどの餌を与えた。
家の壁や雨戸などを突き抜けて聞こえてくる、コオロギの透きとおった鳴き声が好きだった。初めのうちは暗くならないと鳴かなかったが、慣れてくると昼間でも鳴いた。
小さな体の翅をいっぱいに立てて鳴くのを飽かずにじっと観察した。鳴き声にも微妙な違いがあり、虫にも言葉があるような気がしたが、それを聞き分けることはできなかった。
子供の私には、そんなにたっぷりと暇な時間があったのだろうか。食欲旺盛な蚕も飼ったし、模様が様々な蛾も集めてみた。虫ばかりではなく、メダカやドジョウも水槽で飼った。それぞれの生物の動きをじっと眺めているのが楽しかった。
まわりに、私のような子供はいなかった。やはり私は変わっているのか。そのような特異な性癖を、私は恥ずかしいと思うこともあった。
大人になってから、コオロギが日陰の虫ではないことを知った。中国では古くから、コオロギを闘わせる遊びがあったという。皇帝をも楽しませるコオロギは、立派な虫なんだと思った。恥じることなどなかったのだ。
また『枕草子』には、「蟲はすずむし。ひぐらし。てふ。松蟲。きりぎりす……」と出てくる。きりぎりすとは今のコオロギのことらしく、清少納言もお勧めの虫だったのだ。
松尾芭蕉の「むざんやな甲(かぶと)のしたのきりぎりす」のきりぎりすもコオロギのことらしい。芭蕉の時代もまだ、コオロギはキリギリスと呼ばれていたようだ。
また童謡の『蟲の声』では、「きりきりきりきり きりぎりす」と歌われていたきりぎりすが、後にコオロギに改編されたらしい。その頃に、コオロギという呼称が定着したのかもしれない。ああ、おもしろい虫の声、なのだ。
冷たい風が吹き始める頃になると、雲が高くなり空が遠ざかる。虫たちの声もか細くなり遠くなる。季節がまるごと遠ざかっていく感じがした。
私が飼っていたコオロギは翅が白くなった。人間も歳をとると髪が白くなる。老人はまもなく死ぬ。そんな単純な思考に追い立てられて、私はコオロギをまた元の畑に戻してやった。小さな秋の、虫たちとの小さなさよならだった。それは、ひとつの季節の終わりであり、少年の日との決別でもあったかもしれない。
「2024 風のファミリー」