このところ、白い花がよく目につく。
いまの季節は、白い花が多いのだろうか。地上では野イチゴの花やハルジオンの花、頭上ではヤマボウシの花が空に向かって影をつくっている。近くの土手でも、名前の知らない白い花が点々と咲いて揺れている。
もちろん、赤や紫、黄色の花も咲いている。それなのに白い花ばかりが目について、そのことにこだわる意識が強くなっている。
白い花が、色を失った色のない花に見えることがあった。
白いモニター画面や白い紙面を見ている続きのようだった。言葉が見つからずに何も書けないままの、ただの白い紙。
なにか書きたいものがあるのだが、書けないままもやもやとしたものが鬱積している。
ものを書くという行為も、ひとそれぞれだろうが、ぼくの場合は、心の中や思考の中の曖昧なものが、曖昧なまま言葉で表現できることを志向している。そういった過程で、心や思考のもやもやが整理され、片付いていくことが多いのだ。
白いままで白いものにこだわっていると、ときには脈略もなく白の記憶に繋がってしまうことがある。
学生の頃、友人のひとりが心を病んで閉じこもってしまったことがある。訪ねていっても下宿のドアを開けてくれない。扉の向こうで、脈絡のない妙なことばかり口走っていた。
もちろんケータイも電話もない生活だった。
パン屋でパンを買う。そのとき口にだす短い言葉が、その日に喋った唯一の言葉だという日もあった。地方から東京に出てひとりで暮らすには、まず淋しい孤独な生活に耐えなければならなかった。ひとと繋がることが、現代よりもずっと厳しい環境だったかもしれない。
ドアを開けてくれないので無理やりドアを開けようとしたら、入れ替わるように、彼は部屋をとび出していった。いつもと違う態度と表情の異常さに危ういものを感じた。急いで追いかけたが、路地の多い街では見つけることが容易ではなかった。
近くの交番に助けを求めたが、それだけのことで警察は動けないといって尻込みされた。
夜になってもういちど彼の部屋を訪ねると、ドアには鍵がかかっていたが、中から彼の歌声のようなものが聞こえてきた。
チャペルにつづく白い道……
そんな文句だった。詩だか歌だかはわからなかった。節が付いていたので歌だったのだろう。ぼくがドアの外にいるあいだ、ずっと同じ文句をくりかえしていた。彼もとうとう都会の生活に敗れたか、と思って悲しかった。
とにかく近くの病院に連絡をとった。
翌日、彼は屈強な看護人たちに注射で眠らされ、郊外の精神病院に運ばれた。彼もぼくも東京には身内がいなかったので、ぼくが身元保証人にされ、毎日のように彼を見舞うことになった。
そのつど鉄格子の扉の鍵がはずされ、病室に通じる廊下へ入ると、ぼくの背後で再び鍵がかかる。ぼくもまた病人の仲間になったようで、気分は良くなかった。
彼は薬のせいかハイになっていて、ぼくのことを、きみは変だ病人だと言った。そのようなところに行き、そのような彼を見るだけでも、ぼくは憂鬱に沈んでいたのだ。そこでは確かに、ぼくのほうが病人のようだったかもしれない。
その後、彼はいくどか入退院を繰り返した。
例の歌をふたたび聞くようなことはなかったが、退院してきても、強い薬を飲んでいたのであくびばかりしていた。会話も進まないそんな無気力な彼と付き合うのが、ぼくは次第に苦痛になっていった。それまでも彼の郷里の両親には、彼の状態をあまり心配させない程度に報告はしていたが、やはり気がかりだったのだろう母親が出てきて、彼を説得し北海道に連れ帰ることにしたのだった。
ひとりの友人を失った淋しさもあったが、ぼくはしばしば、白い道を歩いている彼のことを思った。涙が出るほど、それはさみしい風景だった。
それからもときどき、彼とは連絡を取ることができた。そのたびに電話の声にも張りがあり彼は元気になっていくようで、ぼくのほうがこんどは励まされるようになった。
彼は地元で英語の学習塾を開き、結婚して3人の子どもをもった。いや、4人だったかもしれない。子ども達はいずれも優秀だといって自慢していた。
心身ともに元気になった彼は、あちこちの市民マラソンで走っているといった。いつだったかは、九州のぼくの郷里でも走ったといって写真を送ってきた。
かつての白い道を、ランナーとなった彼はゴールを目指して走っているのだった。