父の死後、3年ほどがたっていたと思う。
その頃はまだ、玄関の帽子掛けに父の帽子が掛かったままになっていた。
何気なくその帽子をとって、被ってみた。
小さくて頭が入らなかった。父の頭がこんなに小さかったのかと驚いた。離れて暮らしていた間に、父は老いて小さくなっていたのだろうか。
ぼくも背は高い方だが、父はぼくよりも更に1センチ高かった。手も足もぼくよりもひと回り大きくて、がっしりとした体躯をしていた。
父の靴とぼくの靴が並んでいると、父の靴のほうが大きくて、ぼくの靴は萎縮しているようにみえたものだ。
一緒に釣りに行くと、たいがい父の方が多く釣った。将棋も花札も父には敵わなかった。いつだったか、パチンコをしながら父が言ったものだ。
勝とうと思ったら、まじめに真剣にやることだ、と。
ぼくの記憶の、おそらくは最も古い部分に、大きくて温かい父の背中がある。
幼いぼくは父に背負われて、どこかの川の瀬を渡っている。それだけの記憶であるが、その時の父の背中はそのままずっと、ぼくの記憶の中にしっかり存在しつづけていた。
そして父が死んだとき、その背中がとつぜん無くなったような気がした。その時まで生きていた人がいなくなったというより、ぼくの中にあった大きな背中が無くなった、そんな喪失感だった。
農家の家を飛びだした父は、一代きりの商人だったがよく稼いだ。そのお金で、母は立派な介護施設に入ることができた。
ぼくは25歳まで仕送りをしてもらったが、自立しても父ほどに金を稼ぐことは出来なかった。やはり、まじめさと真剣さが足りなかったのかもしれない。
ときどき、父の帽子のことを思い出す。
あの帽子を被っている父の姿を想像すると、なんだか愉快だ。ぼくは今、もっと大きな帽子を被っている。