もうひとつの海
遠くて暗い海で
泳ぐひと達がいる
岩場の潮とつぶやいている
わたしたち泡ぶくだったのね
おいしい水と戯れて
ずっとむかし生まれたのね
あなたの手が水をつかむ
あなたの足が水を突きはなす
その水のすべてを
わたしたち愛したのね
暗い海の
ずっと向こうの
そのまたずっと向こうに
もうひとつの海が
いまもある
*
涙は小さな海
浴室に
小さな海ができた
アサリが潮を吹いている
たぶん塩分の濃度は
海と同じである
ときどき覗いてみる
アサリは元気に
舌のようなものを伸ばしている
わたしの海で生きている
そう思うと情がうつる
縄文人ではないのだから
お前を食わなくても生きてはいける
海水もひとも
水の成分は同じらしい
アサリが吹いているのも
アサリの涙かもしれない
海をおもい泣いているのだろうか
いやいやアサリはアサリ
わたしは縄文人の血にかえる
小さな海は
あしたには干上がってしまうのだ
*
耳の海
夏は山がすこし高くなる
祖父が麦わら帽子をとって
頭をかきながら言った
わしには何もないから
あの山をおまえにやるよ
そんな話を彼女にしたら
彼女の耳の中には
いつも海があると言った
その夏
彼女の海で泳いだあとに
耳から耳へ
遠い海鳴りをいっぱい聞いた
いま山の上には
祖父の墓がある
あれから夏がくるたびに
ぼくは片足でけんけんをして
ぬるくなった耳の水を
そっと出す